第50話 治らない、なぜ?
第50話 治らない、なぜ?
紬は、知識の本を何度もめくった。
毒。
中毒。
解毒。
それらしいページを探す。
けれど――
「……ない」
どこにもない。
知識の本に書かれているのは、紬がこれまで知り、調べてきたことばかりだった。
薬草。
食べられる植物。
傷の治療。
生活に必要な知識。
けれど、毒についてはほとんど調べてこなかった。
危険そうな植物には近づかなかった。
食べられるか分からないものも、無理に口にしなかった。
だから――
知らない。
「……毒のこと、避けてきたから……」
紬の指が、本のページの上で止まる。
「こんな時に……」
声が震えた。
目の奥が熱くなる。
「何も分からない……」
紬は顔を上げた。
ルーチェが、小鳥のそばに寄り添っている。
小鳥は目を閉じたまま。
荒い呼吸だけが、小さな身体から聞こえている。
「どうしたらいいの……」
助けたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
目の前にいる小さな命を見つめる。
「お願い……」
その時――
ふんす……。
「……?」
紬が顔を上げる。
外から、何かが聞こえた。
ふんす……ふんす……。
鼻を鳴らすような音。
続いて――
カリ……。
カリカリ……。
扉を引っかく音。
紬は目を瞬かせた。
「……何?」
カリカリ。
もう一度。
今度は、はっきり聞こえた。
紬はゆっくりと立ち上がる。
ルーチェも顔を上げた。
「ルーチェ……知ってる?」
「ギョ……」
紬は扉を見る。
その向こうにいる何かが、まだ扉を開けようとしている。
カリ……カリ……。
そして――
ふんすっ。
紬は、はっとした。
「……この音」
聞き覚えがある。
胸の奥に、ほんの少しだけ希望が灯った。
「もしかして……」
紬は扉へ向かって歩き出した。
扉を開けると――
「……アルブレーヴ?」
そこには、大きな白い獣が立っていた。
二本の角が、夕暮れの光を受けて淡く輝いている。
「どうしたの?」
アルブレーヴは紬を見る。
そして――
コツン。
角を石壁へ当てた。
「……?」
紬は首を傾げる。
アルブレーヴは、もう一度。
コツン。
角を壁へ当てる。
「何……?」
何かを伝えようとしている。
それだけは分かった。
「ごめん……分からないよ」
紬がそう呟いた瞬間だった。
頭の中に――
ふっと、何かが流れ込んできた。
「……え?」
それは言葉ではなかった。
映像。
イメージだった。
白銀に輝く角。
その一部。
そして――
水。
透明な水が、器へ注がれていく。
「……大木の水?」
浮かんだ光景が消える。
次に現れたのは――
赤い糸。
タイタンサーモンから採った、あの赤い糸。
「これ……?」
さらに、二つのキノコの姿が浮かんだ。
一つは、シイタケによく似た姿。
けれど、そこから感じるのは――嫌な気配。
強い毒。
「……ドクドクゲロキノコ?」
そして、もう一つ。
赤い傘に白い水玉模様。
「……マガイガイ」
紬は、以前見た二つのキノコを思い出した。
頭の中に次々と浮かんでは消えていくイメージ。
アルブレーヴの角片。
大木の水。
タイタンサーモンの赤い糸。
ドクドクゲロキノコ。
マガイガイ。
「……これを使うの?」
紬がアルブレーヴを見る。
アルブレーヴは静かに紬を見つめ――
ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
紬の目に、迷いがなくなる。
「待ってて。すぐ持ってくる!」
紬は急いで寝室へ向かった。
大切なものを入れているバッグ。
その中から取り出したのは――
アルブレーヴからもらった、角の欠片。
【名称】アルブレーヴの角片
【分類】動物性素材
【状態】良好
【属性】光
【魔素】高
【用途】不明
「これ……ずっと取っておいてよかった」
角片を握りしめる。
続いて、大木の水。
タイタンサーモンの赤い糸。
必要なものを、次々と取り出していく。
けれど――
「ドクドクゲロキノコ……」
紬は手を止めた。
「これと、マガイガイは……ここにはない」
頭に浮かんだのは、森の中で以前見た二種類のキノコ。
「探してこないと」
紬は籠を手に取った。
「アルブレーヴ、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくるから!」
そう言うと、紬は家を飛び出した。
扉が閉まる。
その場に残ったのは、アルブレーヴとルーチェ。
アルブレーヴは、しばらく閉じられた扉を見つめていた。
そして、小鳥のそばにいるルーチェへ視線を向ける。
【アルカンシエル】
【……なに?】
【魔獣は、まだ近くにいるか】
ルーチェは小鳥を見つめたまま答える。
【分からない。でも、さっきの場所にはいなかった】
【そうか】
アルブレーヴは耳を動かす。
【逃げたようだ】
【……よかった】
ルーチェの羽が、わずかに揺れる。
【だが、また近くへ来る可能性はある】
【……】
【気をつけろ】
【分かった】
少しの沈黙。
アルブレーヴは、もう一度ルーチェを見る。
【それより……】
【なに?】
【なぜ、人間といる】
アルブレーヴは、紬が出ていった扉へ視線を向けた。
【なぜ、あの人間と共にいる】
ルーチェは少し考えてから答える。
【あの子は、いい子】
【……】
【それに、普通の人間じゃない】
アルブレーヴの耳が、ぴくりと動く。
【普通の人間ではない?】
【うん】
ルーチェは自分の胸元を見る。
【あの子は、私に名前をくれた】
【名前を?】
【そう。私はルーチェ。あの子がくれた名前】
アルブレーヴは、しばらくルーチェを見つめた。
そして、ふと気づく。
【……随分と、会話が流暢になったな】
【そう?】
【以前のお前は、もっと幼い話し方だった】
ルーチェは少し考える。
【名前をもらってから、いろんなことが分かるようになったの】
【……名前を得たことで?】
【うん。知識も、前よりたくさん分かるようになった】
アルブレーヴは静かにルーチェを見る。
【……そうか】
ルーチェは紬が出ていった扉へ視線を向ける。
【あの子は、私に名前だけじゃなくて……いろんなものをくれた】
【……】
【だから、私はあの子といる】
アルブレーヴは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小鳥へ視線を向ける。
【なるほど】
そして――
【ならば、今はこの小さな命を守ろう】
【うん】
ルーチェは小鳥に寄り添い直した。
* * *
一方、その頃。
紬は森の中を走っていた。
「……っ、はぁ……はぁ……!」
息が上がる。
それでも、足を止めない。
一度通った道なら、紬は忘れない。
木の形。
大きな岩。
地面の傾斜。
見覚えのある木々。
森の景色が、頭の中に残っている。
「……あの場所……」
以前、二つのキノコを見つけた場所。
そこまでなら、迷わず行ける。
紬は木々の間を駆け抜けていく。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
荒い呼吸音が、森の中に響く。
頭の中は、小鳥のことでいっぱいだった。
白い羽。
赤い血。
目を閉じたまま、苦しそうに呼吸していた小さな身体。
「……」
紬は唇を噛む。
今までだって、命の危険を感じたことはあった。
魔物。
知らない森。
食べ物がない不安。
それでも――
自分が大きな怪我をすることはなかった。
だから、どこかで思っていたのかもしれない。
ここなら、なんとかなると。
けれど――
あの小鳥を見た瞬間、その考えが崩れた。
「……ここは、安全じゃない」
ぽつりと呟く。
森の中で生きている。
なら、自分だっていつ同じ目に遭うか分からない。
そのことを、今さらのように実感する。
それでも――
「今は……小鳥を助けないと」
紬は、さらに速度を上げた。
そして――
「……あった!」
目の前に、キノコがたくさん生えている場所が見えてきた。
紬はすぐに地面を見回す。
「しいたけ……しいたけ……」
以前見た姿を思い出す。
「……あった!」
木の根元。
シイタケによく似たキノコが生えている。
けれど、それは――
毒を持つキノコ。
「ドクドクゲロキノコ……」
間違いない。
紬は急いで採取する。
「次は……マガイガイ」
周囲を見回す。
赤い傘。
白い水玉。
「どこ……?」
地面。
木の根元。
落ち葉の下。
「……!」
ふと、木の根の裏側に赤いものが見えた。
「いた!」
紬はしゃがみ込む。
落ち葉をかき分ける。
そこには、赤い傘に白い水玉模様のキノコがあった。
「マガイガイ……!」
紬は急いで採る。
二つのキノコを籠へ放り込む。
「これで……!」
立ち上がる。
そして、すぐに来た道を戻り始めた。
「待ってて……!」
小鳥の姿が頭に浮かぶ。
「今、戻るから!」
走る。
木々の間を抜ける。
足元の枯葉が滑った。
「きゃっ!」
どさっ。
「痛っ……!」
膝を地面にぶつける。
じん、とした痛みが走った。
見れば、膝に小さな傷ができている。
けれど――
「……こんなの、どうでもいい」
紬はすぐに立ち上がった。
膝についた土も払わず、再び走り出す。
「小鳥……!」
ただ、それだけを考えて。
紬は家へ向かって走り続けた。
* * *
「ただいま!」
紬が家へ飛び込む。
アルブレーヴが顔を上げる。
ルーチェも小鳥のそばから紬を見る。
「持ってきた!」
紬は籠を下ろした。
「これでいいんだよね?」
ドクドクゲロキノコ。
マガイガイ。
そして――
アルブレーヴの角片。
大木の水。
タイタンサーモンの赤い糸。
必要な材料を並べる。
すると――
ふんす。
「……?」
アルブレーヴが鼻を鳴らした。
次の瞬間。
また、頭の中にイメージが浮かぶ。
「……全部?」
紬はイメージに従い、すべての材料をカチワリの器へ入れた。
そして、石を使って潰していく。
ゴリ……。
ゴリ……。
材料が混ざり合っていく。
「……」
色が変わっていく。
緑。
白。
赤。
いくつもの色が混ざり――
やがて、どす黒い色になった。
「……」
紬は器を覗き込む。
「これ……大丈夫かな」
どう見ても薬には見えない。
むしろ――
「……毒みたい」
「ギョ……」
ルーチェも器を覗き込む。
紬は困った顔でアルブレーヴを見る。
「本当にこれでいいの?」
すると――
ふんす。
アルブレーヴが鼻を鳴らした。
そして、再びイメージが紬の頭へ流れ込んでくる。
器。
それを――
アルブレーヴの前へ。
「……ここに置くの?」
紬は器を持ち上げ、アルブレーヴの目の前へそっと置いた。
「これでいい?」
アルブレーヴは器を見る。
そして――
ゆっくりと角を傾けた。
白銀の角が――
淡く光り始める。
「……!」
紬は息を呑んだ。
角から、柔らかな光が生まれる。
眩しいほどではない。
温かく、穏やかな光。
その光が器へ向かって伸びていく。
ふわり。
器の中へ光が入り込む。
「……きれい」
光は器の中で渦を巻いた。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
どす黒かった液体が、光に包まれていく。
そして――
色が変わった。
黒が薄れ。
赤へ。
深い赤色へと変わっていく。
やがて、光の渦がゆっくりと消えた。
器の中に残ったのは――
赤い液体。
紬は、じっとそれを見つめる。
「……これが、薬?」
アルブレーヴは静かに器を見つめていた。
ルーチェも、その赤い液体を見ている。
紬は小鳥へ視線を向ける。
まだ目は閉じたまま。
荒い呼吸も続いている。
「……これで助かる?」
紬の声は、かすかに震えていた。
けれど今度は――
希望があった。




