第43話 母の愛を紡ぐ泉、祝福の歌
第43話 母の愛を紡ぐ泉、祝福の歌
翌朝。
紬は、昨日回収した魚罠を片付けると、ルーチェと一緒に沢へ向かった。
「昨日の赤い糸……やっぱり気になるんだよね」
「ギョ」
「うん。今日は、もう少し上流まで行ってみよう」
昨日見つけた赤い糸。
あれが、どこから流れてきたものなのか。
それを確かめたかった。
沢に着くと、紬は水の流れに沿って歩き始める。
上流へ進んでも、沢の大きさはそれほど変わらない。
けれど、水の量は少しずつ増えていた。
「……あれ?」
紬は水面を見る。
上流に向かっているのに、流れてくる水が増えている。
「不思議だなぁ」
首を傾げながら歩いていると、ルーチェが突然立ち止まった。
「ギョ」
「どうしたの?」
ルーチェが、道の脇を見ている。
紬もそちらへ目を向けた。
「あ……」
そこには、見たことのない植物が生えていた。
細い茎。
細長い葉。
そして、その先には小さな青い花。
「綺麗……」
紬はしゃがみ込み、葉をそっと指で触れる。
その瞬間、爽やかな香りがふわりと広がった。
「いい匂い」
紬は、いつものように本を開いた。
【名称】ボンヌオドール(ローズマリー)
【分類】薬草・香草
【食用】可
【薬効】軽い傷、虫避け
【特徴】葉を乾燥させることで香りと薬効が強くなる。
【特殊効果】他のものを足すことで別のものになることがあります。
「薬草なんだ」
青い花を眺める。
「料理にも使えるんだね」
紬は周囲を見渡した。
「……二株くらい、持って帰ろうかな」
根を傷めないように、土を少しずつ掘っていく。
慎重に。
一株。
そして、もう一株。
「よし」
二株を大切に包む。
「残りはここで増えてくれるといいな」
「ギョ」
「じゃあ、行こう」
二人は再び上流へ向かった。
◇
しばらく歩くと、赤い糸が少しずつ増えてきた。
岩に引っかかっているもの。
水面を漂っているもの。
木の枝に絡まっているもの。
「やっぱり……こっちから流れてきてるんだ」
紬は確信した。
さらに上流へ進む。
すると、どこからか水の落ちる音が聞こえてきた。
「……滝?」
木々の隙間から見えたものは、小さな滝だった。
その滝の上には――
「……泉?」
小さな泉があった。
泉そのものは、それほど大きくない。
けれど。
「……深い」
紬は泉の縁から中を覗き込む。
水は澄んでいる。
それなのに、底がまったく見えない。
まるで壺のように、下へ行くほど広がっているようだった。
泉から流れ出した水は、小さな滝となって沢へ流れ込んでいる。
「ここから水が流れてたんだ……」
紬は泉の周りを見渡した。
「あ……」
そこには、大量の赤い糸が溜まっていた。
淡い赤色の糸が、水の流れに沿って絡まり合っている。
紬はしゃがみ込み、その糸にそっと触れた。
「……あったかい」
昨日と同じ。
ほんのりとした温かみを感じる。
「これ……持って帰ってもいいのかな」
紬は迷った。
卵を守るためのものなら、勝手に持っていくわけにはいかない。
紬はルーチェを見る。
「どう思う?」
ルーチェは答えない。
ただ、泉をじっと見つめている。
そして――
泉の中央へ飛んでいった。
「ルーチェ?」
ルーチェは泉の真ん中で羽を広げる。
「ギョエェェ……」
声が泉に響き渡る。
すると――
ちゃぷん。
泉の中央が揺れた。
「……え?」
水面の下から、大きな影が浮かび上がってくる。
ゆっくり。
ゆっくりと。
そして――
水面から顔を出した。
「……!」
大きい。
昨日見たタイタンサーモンよりも、明らかに大きい。
紬は思わず息を呑んだ。
そのタイタンサーモンは、紬をじっと見つめている。
敵意はない。
ただ、静かに。
まるで何かを確かめるように。
すると――
音が響いた。
歌だった。
人魚が歌うような、澄んだ美しい音。
泉の水そのものが歌っているようだった。
「……綺麗」
その歌を聞いた瞬間。
紬の視界が、ふっと変わった。
◇
深い。
暗い。
水の中。
そこには、たくさんの卵があった。
小さな命が、静かに寄り添っている。
その周りを――
淡い赤色の糸が包んでいた。
一重。
二重。
三重。
糸は卵を中心に、渦を描くように何重にも重なっている。
卵を傷つけないように。
外敵から守るように。
そして――
温かさを与えるように。
赤い糸は、卵を優しく包み込んでいた。
場面が変わる。
激しい水の流れ。
一匹のタイタンサーモンが泳いでいる。
川を遡っている。
流れに逆らい、必死に進んでいる。
岩に身体をぶつける。
鱗が傷つく。
血が流れる。
それでも進む。
また一匹。
傷ついた身体で、それでも上流を目指している。
何度も。
何度も。
この泉を目指して。
そして――
泉へ辿り着く。
静かな水の中で、産卵する。
新しい命を残す。
その卵を守るように、赤い糸が集まっていく。
けれど――
すべてのタイタンサーモンが、この泉まで辿り着けるわけではなかった。
傷が深すぎるもの。
力尽きてしまうもの。
途中で動けなくなってしまうもの。
それでも。
残された卵は守られる。
赤い糸に包まれて。
温かさを与えられて。
自分がいなくなった後も。
自分の命を受け継いだ子どもたちを守るために。
ただ、ひたすらに。
そこに残り続ける。
――愛。
紬の胸に、その言葉が浮かんだ。
◇
映像が消える。
紬は、しばらく何も言えなかった。
泉。
赤い糸。
水面から顔を出している、大きなタイタンサーモン。
紬は、その姿を見つめた。
「……この映像」
大きなタイタンサーモンは、何も言わない。
ただ、静かに紬を見つめている。
「この子が……見せてくれたのかな?」
返事の代わりに、水面が小さく揺れた。
紬は胸に手を当てる。
「……すごい……」
自分がいなくなった後も。
残された命を守るために。
紬は、もう一度本を開いた。
赤い糸を調べる。
すると――
表示されていた文字が変わっていた。
【名称】タイタンサーモンの産卵糸(母の愛)
【分類】生体物質
【状態】良好
【食用】不可
【特徴】タイタンサーモンが産卵時に分泌する物質。水中で糸状になる。
【効果】卵を外敵から守る。温かみを与える。
【特殊効果】無償の愛(冬の間、温かみを与える)
「……無償の愛」
紬は、その言葉を見つめた。
そして、胸に手を当てる。
「……本当に、すごいな」
しばらくして、紬は泉へ向き直った。
「……これ、持って帰ってもいいのかな」
泉の縁に溜まった、淡い赤色の糸を見る。
すると――
また、あの温かな感覚が紬の胸へ届いた。
泉の底。
赤い糸に包まれた卵。
そして、その外側へ流れていく糸。
泉の縁にあるものは、卵を守るために使われているものではない。
余ったものだから、持っていってもいい。
そんなイメージが紬へ伝わってくる。
「……そうなんだ」
紬は少し安心した。
「じゃあ、少しだけ……」
赤い糸をそっと掴む。
「わっ」
思った以上に、わさっと取れた。
紬はそのまま、持ってきた小さな籠へ入れる。
それだけで、籠の中は赤い糸でいっぱいになった。
「……こんなに?」
紬は籠を見つめる。
「こんなにもらって……いいのかな」
顔を上げる。
泉から顔を出している、大きなタイタンサーモンを見る。
すると、水面が小さく揺れた。
また、温かな感覚が胸へ届く。
大丈夫。
持っていっていい。
そんな優しい気持ちが伝わってくる。
「……ありがとう」
紬は小さく笑った。
そして――
ふと、先ほど見せてもらった光景を思い出す。
傷つきながら泉を目指していたタイタンサーモンたち。
そして、卵を守る赤い糸。
紬は、手元のボンヌオドールを見る。
「これ、傷にいいみたいだから」
紬は一株を手に取った。
「傷ついた子たちに使って」
そう言って、タイタンサーモンへ差し出した。
タイタンサーモンは、しばらく紬を見つめていた。
やがて、ゆっくりと近づいてくる。
大きな口が開く。
そして、紬の手からボンヌオドールをそっと受け取った。
その瞬間――
胸の奥に、温かな感情が流れ込んできた。
嬉しい。
ありがとう。
そんな言葉の代わりのような感情。
「……うん」
紬は小さく笑った。
タイタンサーモンは、ボンヌオドールをくわえたまま、泉の中へ沈んでいく。
しばらくすると――
泉のあちこちから、水面が揺れ始めた。
ちゃぷん。
ちゃぷん。
一匹。
また一匹。
タイタンサーモンたちが顔を出していく。
「……!」
その身体にあった傷が、少しずつ癒えている。
深かった傷も。
擦り傷も。
ゆっくりと塞がっていく。
「治ってる……」
紬は目を見開いた。
元気を取り戻したタイタンサーモンたちが、次々と泉から顔を出す。
そして――
一匹が歌い始めた。
澄んだ、美しい音。
そこへ、もう一匹。
さらにもう一匹。
重なっていく歌声。
泉いっぱいに広がる。
沢へ。
森へ。
空へ。
まるで幸せを願うような歌。
紬は、ただ静かにその歌を聞いていた。
「……綺麗」
やがて歌が終わる。
静寂が戻る。
紬は本を開いた。
そして、タイタンサーモンについて調べる。
ページに新しい文字が浮かび上がった。
【備考】
【祝福の歌】
幸運を祈るタイタンサーモンの歌。
「……祝福の歌」
紬は泉を見る。
大きなタイタンサーモン。
そして、その周りに顔を出しているたくさんのタイタンサーモン。
紬は小さく笑った。
「……ありがとう」
もう一度、深く頭を下げる。
泉から流れ出した水は、静かに沢を下っていく。
その水の中で――
淡い赤色の糸が、ゆっくりと揺れていた。




