第32話 季節の準備は計画的に
第32話 季節の準備は計画的に
朝。
紬は目を覚ますと、しばらく天井を見上げていた。
朝の空気が、少しだけ涼しい。
夏の頃なら、目を覚ましただけで感じていた暑さも、今はない。
外から入ってくる風も、どこか乾いている。
「……秋なんだなぁ」
ぼんやりと呟いてから、紬は身体を起こした。
そして、ふと思う。
秋が来たということは――
その先には、冬がある。
「……冬かぁ」
紬は小さく息を吐いた。
この世界に来てから、まだ一度も冬を経験していない。
どれくらい寒くなるのか。
雪はどのくらい降るのか。
冬は何ヶ月くらい続くのか。
何も分からない。
元の世界なら、去年の気温や雪の量を調べることもできた。
天気予報を見ることだってできる。
けれど、ここには何もない。
「……分からないなら、少し多めに考えておいた方がいいよね」
紬は指を一本立てた。
「まず、食料」
冬になって雪が積もったら、今のように毎日森へ出られるとは限らない。
だから、少なくとも三ヶ月くらい。
三ヶ月分の食料を目安にして、今から少しずつ保存していく。
「三ヶ月……」
口にしてみると、結構な量だ。
けれど、何が食べられるかは少しずつ分かってきた。
アカツブ。
カチワリの木の実。
キノコ。
山菜。
魚。
今まで森からもらってきたものを、食べるだけではなく保存していく。
「次は、薪」
冬になれば火を使う時間も増えるだろう。
料理だけじゃない。
寒ければ、火そのものが必要になる。
「薪も、今のうちから少しずつ集めておかないと」
一日で全部集めようとは思わない。
秋の間、森へ出るたびに少しずつ。
乾いた枝を拾って、使えそうな木を集めておく。
そして――
「屋根もだ」
紬は家の中を見回した。
寝る部屋の屋根は、一応できている。
パントリーの屋根も、つい最近できた。
でも、大きな部屋はまだ屋根がない。
「雪が降ったら……屋根がないのは困るよね」
雨ならまだ何とかなる。
でも、雪は違う。
積もったら重くなる。
風も冷たい。
「大きな部屋の屋根も、冬までには完成させたいな」
紬は頭の中で、やることを並べてみた。
食料。
薪。
屋根。
そして、保存方法。
「……結構あるなぁ」
思わず苦笑する。
けれど、秋は始まったばかりだ。
焦って全部を終わらせようとする必要はない。
少しずつ。
毎日一つずつ。
「よし」
紬は立ち上がった。
「まずは、今まで取ってきたものをもう少し集めよう」
冬のことは分からない。
だからこそ、分からないまま待つのではなく、できる準備をしておく。
それが今の紬にできることだった。
家の外へ出る。
秋の風が頬を撫でた。
「……気持ちいい」
紬は空を見上げる。
夏の頃よりも高く見える空。
薄い雲が、ゆっくりと流れている。
木々の葉はまだ緑が多い。
けれど、ところどころ黄色や橙色に変わり始めていた。
足元には落ち葉が増えている。
踏みしめるたび、
かさっ。
小さな音がした。
森の中からは鳥の声が聞こえる。
少し離れた場所では、何か小さな動物が草むらを走っていった。
夏とは違う。
けれど、まだ寒くはない。
涼しい風が心地よく、紬の足取りも自然と軽くなる。
「今日はいっぱい動こう」
背中に籠を背負う。
ルーチェも近くの枝から飛び立った。
「ギョ」
「うん。今日もよろしく」
二人は森の中へ入っていった。
秋の森には、食べられるものが増えている。
紬は見つけたものを本で確認しながら、少しずつ採っていった。
アカツブ。
木の実。
食べられるキノコ。
見つけたものは、本で確認してから籠へ入れる。
乾いた枝も拾う。
大きすぎるものは無理をせず、その場で折れるものだけを選んだ。
以前なら、採ったものはその日の食事になっていた。
けれど、今は違う。
食べる分。
保存する分。
そして、何かに使えそうな分。
少しずつ分けて考えるようになっていた。
「……こうやって集めていけば、三ヶ月分も何とかなるかな」
籠の中を覗く。
まだまだ少ない。
でも、秋は始まったばかりだ。
これから少しずつ増やしていけばいい。
そう考えながら歩いていると、沢の音が聞こえてきた。
「そうだ」
紬は足を止めた。
「魚罠、見てみよう」
以前仕掛けた魚罠。
最近は他の採取に気を取られて、少し見に行く間隔が空いていた。
沢へ出ると、透明な水が岩の間を流れている。
紬は魚罠を仕掛けた場所へ近づいた。
「……どうかな」
石をどける。
罠を確認する。
けれど――
「いないか」
今日はレッドアトラスの姿も見えない。
紬は少し残念に思いながら、罠を元の位置へ戻そうとした。
その時。
少し上流で、水が大きく跳ねた。
ばしゃっ。
「……ん?」
紬が顔を上げる。
魚がいた。
けれど、レッドアトラスとは違う。
身体が大きい。
そして、鱗の色も違う。
黒。
白。
その間をつなぐように、銀色。
光を受けるたび、鱗が淡く輝いている。
「……何、この魚」
魚は紬には気づかない。
流れに逆らうように、さらに上流へ進んでいく。
その先には、大きな岩があった。
魚は岩の手前まで来ると、身体を大きく曲げた。
尾を振る。
ばしゃっ!
水しぶきが上がる。
魚の身体が岩に触れる。
それでも止まらない。
また尾を振る。
身体を擦るようにして、少しずつ岩を越えていく。
「……登ってる」
紬は思わず立ち上がった。
魚は川を遡っていた。
流れに逆らいながら。
岩を越えながら。
どこかを目指すように。
紬はその姿を目で追った。
「……大きい」
レッドアトラスより、ずっと大きい。
これだけ大きければ――
「……保存食にできるかも」
その瞬間。
紬の頭の中で、冬の食料という言葉が一気に現実味を帯びた。
「待って!」
紬は走り出した。
「ギョェェェ!」
後ろからルーチェの声が飛んでくる。
「大丈夫! ちょっと捕まえてくるだけ!」
「ギョ! ギョェー!」
「だから大丈夫だって!」
沢の石は滑る。
魚は逃げる。
紬は追いかける。
「こっち……!」
魚が岩の陰へ入った。
「今!」
紬は両手を伸ばした。
ぬるっ。
「わっ!」
一度は逃げられた。
それでも諦めずに追いかける。
後ろからは、ルーチェがずっと何かを叫んでいる。
「ギョェ! ギョェェ!」
「もう、ルーチェ、ちょっと静かにして!」
魚がまた岩を越えようとした。
「今度こそ!」
紬は身体を低くして、両手で魚を抱え込んだ。
「捕まえた!」
魚が激しく身体をくねらせる。
「うわっ、重い!」
なんとか抱えたまま岸へ戻る。
紬は息を切らしながら籠を開いた。
「よいしょ!」
魚を頭から籠へ放り込む。
どすん。
「……」
籠の中を見る。
いや。
収まっていない。
大きすぎて、しっぽが籠の外へ飛び出している。
「……入ってないじゃん」
紬は魚のしっぽを押し込んだ。
びちっ。
また出てくる。
「……まあ、いいか」
とりあえず逃げる様子はない。
紬はその場に座り込み、ようやく大きく息を吐いた。
「はぁ……疲れた」
その時。
コツ。
「……?」
頭に何かが当たった。
振り返る。
ルーチェが紬の頭を、くちばしで軽くつついていた。
「……ルーチェ?」
もう一度。
コツ。
「痛くはないけど……何?」
ルーチェは紬ではなく、籠の中の魚を見る。
それから、紬を見る。
「……?」
紬は首を傾げた。
そして、ふと気づく。
「あ」
本。
魚を見つけてから、捕まえることしか考えていなかった。
「……本、見てなかった」
紬は慌てて本を開いた。
魚へ視線を向ける。
ページが淡く光った。
【名称】タイタンサーモン
【分類】魚類
【状態】良好
【食用】可能
【特徴】黒、白、銀色の鱗を持つ大型魚
【生態】秋になると上流へ向かって一斉に遡上する
【産卵】上流域の清浄な泉で行う
【越冬】産卵後、泉周辺で冬を越す
【性質】強い遊泳力を持つ
「……タイタンサーモン」
紬は名前を呟いた。
そして、もう一度籠を見る。
そこには、しっぽを外へ出した大きな魚がいた。
「秋になると……一斉に遡上するんだ」
まだ見えるのは一匹、二匹ほど。
でも、これから増えるらしい。
「産卵する場所が、上流の泉……」
紬は沢の先を見る。
まだ行ったことのない場所だ。
「……こんなところに泉があるんだ」
タイタンサーモンが、また身体を動かした。
びちっ。
「はいはい。今帰るからね」
紬は籠を持ち上げた。
思っていた以上に重い。
「……やっぱり大きいな」
ルーチェが横で、
「ギョ」
と鳴いた。
「うん。これなら、冬の保存食にできそう」
家へ戻ると、紬はさっそく魚を調べた。
食用にできることは分かっている。
でも、初めて食べる魚だ。
「……まずは普通に食べてみよう」
紬は魚を眺めた。
「保存するにしても、美味しいかどうかは大事だし」
魚を下処理する。
鱗を落とし、内臓を取り出して水で洗う。
塩を振る。
火を起こし、枝に魚を刺して火の近くへ置いた。
ぱちぱちと火が鳴る。
魚の皮が少しずつ縮んでいく。
じゅう……。
脂が火へ落ち、香ばしい匂いが広がった。
ルーチェがじっと魚を見ている。
「まだだよ」
「ギョ」
「そんなに見ても早くならないから」
「ギョ……」
しばらく焼く。
皮がこんがりと色づいてきた。
「よし」
紬は枝を持ち上げた。
一口。
「……おいしい」
レッドアトラスとは違う。
身はしっかりとしていて、噛むほどに魚の味が広がる。
脂もほどよく乗っている。
「これ……保存できたら、かなり助かるかも」
紬は魚を見ながら考えた。
「干物とか……できるかな」
前の世界で見た魚の干物を思い出す。
水分を抜けば、長く保存できる。
「燻製も……できたらいいな」
秋の間に何匹か確保できれば、冬の食料としてかなり役に立つかもしれない。
紬は残った魚の皮を手に取った。
少し引っ張ってみる。
「……あれ?」
思っていたより丈夫だった。
「結構、強い」
紬は皮をじっと眺めた。
「これ……何かに使えないかな」
今は何に使えるのか分からない。
でも、捨てるのはもったいない。
紬は魚の皮をきれいにして、乾燥させておくことにした。
食べられるものは食べる。
保存できるものは保存する。
使えるものは、できるだけ使う。
冬を越すためには、そういう小さな積み重ねが必要なのだろう。
「……明日は、保存する方法を考えよう」
紬は火を眺めた。
冬はまだ先だ。
けれど、準備をするなら今からだ。
「季節の準備は、計画的に……だね」
その横で、
「ギョェェェ!」
ルーチェが大きな声を上げた。
「……ルーチェ、声大きいって」
秋の森に、いつもの声が響いていた。




