第30話 秋の気配
第30話 秋の気配
「……あれ?」
目を覚ました紬は、いつもと違う感覚に気づいた。
頬に触れる空気が、少しだけ冷たい。
寒い、というほどではない。
けれど、昨日までの朝とは何かが違う。
風が肌を撫でるたび、すうっと冷たさが残る。
「……なんだろう」
紬は寝床から起き上がり、入口の外へ出た。
朝の森は静かだった。
鳥の声。
葉と葉が擦れ合う音。
遠くから聞こえる水の流れる音。
いつもと変わらない。
それなのに、空気だけが少し違っている。
紬は腕を伸ばした。
ひんやりとした風が、指先から腕を撫でていく。
「……秋、なのかな」
まだ確信はない。
けれど、妙に気になる。
「ルーチェ」
「ギョ?」
近くの枝で羽を整えていたルーチェが、顔を上げる。
「ちょっと、あの木に登ってみようか」
「ギョ」
ルーチェが翼を広げ、先に巨大樹へ向かって飛んでいく。
紬もその後を追った。
巨大樹の幹に手をかける。
何度か登っているとはいえ、幹は相変わらず太く、見上げるほど高い。
一段。
また一段。
朝の光が、葉の隙間から細く差し込んでくる。
高くなるにつれて、風も少しずつ強くなっていった。
やがて紬は、いつもより少し高い枝まで登った。
「……わぁ」
思わず声が漏れた。
森が、ずっと遠くまで見渡せる。
巨大樹そのものは、まだ緑だった。
濃い緑の葉が重なり合い、朝の光を受けてきらきらと揺れている。
けれど、その向こう。
森を見渡していると、ところどころに違う色が混じっていることに気づいた。
淡い黄色。
まだ一面が黄色くなったわけではない。
緑の葉の中に、ほんの少しだけ黄色が差している。
まるで、森のあちこちに秋がそっと触れ始めたようだった。
「……やっぱり」
紬は小さく呟いた。
「秋が来たんだ」
さっき感じた風の冷たさにも、納得がいく。
夏が終わり、次の季節が静かに近づいている。
その変化は、あまりにも小さい。
けれど、一度気づいてしまうと、もう見逃せなかった。
葉の色。
風の温度。
朝の空気。
少しずつ、何かが変わっている。
「……冬も来るのかな」
「ギョ?」
隣の枝に止まったルーチェが首を傾げる。
「うん。冬」
紬は遠くの森を眺めながら考えた。
この世界の冬を、紬は知らない。
どれくらい寒いのか。
どれくらい長いのか。
雪が降るのか。
雨が多いのか。
何も分からない。
「食べ物は、少し保存しておいた方がいいよね」
畑には、じゃがいもとネギがある。
アカツブもある。
カチワリの木の実も見つけた。
今すぐ食べ物がなくなるわけではない。
けれど、冬になれば森の様子も変わるかもしれない。
「屋根も、まだ全部終わってないし」
寝る部屋とパントリーの屋根はできた。
けれど、大きな部屋はまだだ。
「薪も必要だなぁ……」
紬は指を折りながら、これから必要なものを考える。
食べ物。
屋根。
薪。
それから、寒さを防ぐもの。
「……やること、いっぱいだ」
「ギョ」
「でも、まだ秋になったばかりだし」
紬は少し笑った。
今日一日で全部やろうとする必要はない。
できることから、少しずつ。
「まずは森を見て回ろう」
「ギョ」
紬は巨大樹から降り始めた。
◇
しばらく歩くと、紬は背負い籠を背負って森の中を進んでいた。
朝の風は、やっぱり少し冷たい。
けれど、歩いているうちに身体が温まり、気持ちよく感じられるくらいになってくる。
足元には乾いた葉が少し増えていた。
まだ落ち葉の季節というほどではない。
それでも、夏とは違う。
森の匂いも、ほんの少し変わった気がする。
そんなことを考えながら歩いていると――
足元を、小さな影が走り抜けた。
「ん?」
紬が立ち止まる。
影は少し先で止まった。
小さな野ねずみだった。
丸い身体。
小さな耳。
細い尻尾。
そして。
「……角?」
紬は目を凝らした。
額から、ちょこんと小さな角が伸びている。
「……この世界の野ねずみって、角があるの?」
「ギョ」
ルーチェも枝の上から野ねずみを見ている。
すると、茂みの向こうから、もう一匹が走ってきた。
二匹は顔を寄せ合い、何かを確かめるようにしてから、森の奥へ向かって走っていく。
その先には、小さな木の実がいくつか落ちていた。
「木の実を運んでる……」
二匹は一つずつ木の実をくわえ、木の根元へ運んでいく。
何度も往復しているようだった。
「冬の準備かな」
紬はしゃがみ込み、その様子を眺めた。
野ねずみたちは時々こちらを確認する。
それでも、木の実を運ぶことはやめない。
「頑張ってるなぁ」
紬が笑った、その時。
今度は別の場所から、白い影が走ってきた。
「わっ」
真っ白な毛。
リスに似た小さな身体。
ふさりとした尻尾。
その小さな前足には、赤い粒が抱えられている。
「……アカツブ?」
白い小動物は、アカツブをぎゅっと抱えたまま走っている。
身体が小さいせいか、少しよたよたしていた。
紬が見ていると、白い小動物がぴたりと止まった。
黒い瞳が、紬を見る。
「……」
「……」
しばらく見つめ合う。
すると白い小動物は、抱えていたアカツブをさらにぎゅっと抱きしめた。
「……取らないよ」
紬は苦笑する。
「それ、君のだよ」
白い小動物は、じっと紬を見た。
そして――
くるり。
たたたたっ、と走っていった。
「……逃げた」
「ギョ」
「だから取らないってば」
ルーチェが、どこか面白そうに鳴く。
白い小動物は木の根元にある小さな穴へ入り、その姿を消した。
紬はその穴を見つめる。
野ねずみも。
白い小動物も。
みんな、それぞれに冬へ向けて動き始めている。
「……そっか」
紬は背負い籠の紐を握り直した。
「みんな、冬の準備してるんだ」
森の生き物たちは、季節の変化を知っている。
食べ物を集める。
住む場所を整える。
寒くなる前に、できることをしている。
「私も、ちゃんと準備しないとね」
「ギョ」
◇
その後、紬はアカツブの実っている木を探した。
少し歩いたところで、赤い粒がいくつもついた木を見つける。
「おっ」
近づいてみる。
枝のあちこちに、アカツブが実っている。
夏の頃より、実りが増えているようだった。
「ちょうどいい時期なのかな」
紬は手を伸ばし、一つずつ摘んでいく。
赤い実を傷つけないように、そっと。
ぽと。
ぽと。
背負い籠の中に、赤い粒が少しずつ増えていく。
「これなら、今日食べる分と……」
紬は籠の中を見る。
「少し保存する分くらいかな」
大量に採るつもりはない。
また必要になったら採りに来ればいい。
今の自分が持って帰れる分。
それだけで十分だった。
紬は採ったアカツブを分ける。
普段食べる分。
そして、保存してみる分。
「干したらどうなるかな」
赤い粒を一つ、指先で転がす。
「ぶどうみたいに、水分が抜けて保存できたらいいんだけど」
元の世界で見た干し果物を思い出す。
アカツブでも同じようにできるかもしれない。
「家に帰ったら、干してみよう」
うまくいけば、冬にも食べられる。
そう思うと、少し楽しみになった。
◇
帰り道。
紬は地面に落ちている乾いた枝を拾った。
太いもの。
細いもの。
まだ湿っている枝は避け、乾いているものを選んでいく。
「薪は、秋の間に少しずつ集めようかな」
今日は大量に持ち帰る必要はない。
「冬がどれくらい長いのか、分からないし」
紬は拾った枝を見つめる。
「だったら、あるだけ集めておいた方が安心だよね」
今日全部集める必要はない。
明日も。
明後日も。
森へ来るたびに、少しずつ。
「余ったら、来年使えばいいし」
そう考えると、気持ちが楽になった。
急がなくていい。
少しずつ。
今できることをやっていけばいい。
紬は拾った枝を背負い籠の空いたところへ差し込んだ。
アカツブを潰さないように、慎重に。
「よし」
顔を上げる。
森の木々が風に揺れている。
緑の中に混じった淡い黄色が、光を受けてちらちらと見えた。
秋は、まだ始まったばかり。
けれど確かに、ここまで来ている。
「……冬かぁ」
紬は小さく呟いた。
知らない世界の、知らない冬。
どれくらい寒いのかも。
どれくらい続くのかも分からない。
だからこそ。
食べ物を少し残しておく。
屋根を少しずつ整える。
薪も少しずつ集める。
できることから、一つずつ。
「まあ……なんとかなるかな」
「ギョ」
「うん。なんとかしよう」
紬は背負い籠を背負い直した。
中では、今日採ったアカツブが小さく揺れている。
背中には、拾った薪。
隣にはルーチェ。
森の木々は、まだ緑の中にいる。
けれど、その先には確かに秋が待っていた。
紬は少しだけ冷たくなった風を感じながら、家へ向かって歩き出した。




