第26話 成せばなる
第26話 成せばなる
紬は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
まだ空気はひんやりとしている。
木々の隙間から差し込む光も弱く、森は静かだった。
けれど。
「……魚」
目を覚ました瞬間、思い出した。
魚罠。
昨日、自分で作ったものだ。
ちゃんと魚は入っているだろうか。
「…魚…気になる」
紬は身体を起こした。
少し離れたところでは、ルーチェが羽を膨らませて眠っている。
「ルーチェ」
「……」
「起きて」
「……ギョ」
ルーチェが片目を開けた。
「魚、見に行こう」
「ギョ」
その一言で、ルーチェも起き上がった。
紬は簡単に身支度を整える。
背負い籠を持つ。
そして、昨日作った魚罠を確認するため、川へ向かった。
*
朝の森を歩く。
昨日と同じ道。
木々の間から差し込む光が、少しずつ明るくなっていく。
鳥の声。
葉が風に揺れる音。
足元の枝を踏む音。
いつもの森の音だ。
それなのに、今日は少しだけ気持ちが違う。
「……入ってるかな」
紬は何度目か分からないくらい、同じことを口にした。
「ギョ」
「ルーチェは入ってると思う?」
「ギョ」
「そっか」
答えが何を意味しているのかは分からない。
それでも、なんとなく励まされている気がした。
やがて。
水の流れる音が聞こえてきた。
「……近い」
紬の歩く速度が、自然と速くなる。
川が見えた。
そして、その先に――
昨日仕掛けた魚罠が見える。
「……」
紬は足を止めた。
遠くからでは、罠の中までは見えない。
昨日と同じように見える。
枝と蔓を組み合わせた罠。
石で固定した入口。
流れる水。
「……どうかな」
紬は少しだけ緊張した。
昨日、頑張って作った。
でも、魚が入るかどうかは分からない。
餌が食べられて終わっている可能性だってある。
「……入ってるといいな」
紬はゆっくり川へ近づいた。
一歩。
また一歩。
水の音が近くなる。
罠の形が、はっきりしてくる。
それでも中は見えない。
紬は川岸にしゃがみ込んだ。
「……」
水は透明だった。
小さな石。
揺れる水草。
罠を作るために使った枝。
その隙間を、水が静かに流れている。
魚の姿は見えない。
「……いない?」
紬は顔を少し近づけた。
何も動かない。
ただ、水が流れているだけ。
「やっぱり、そんなに簡単には……」
その時だった。
ぴくっ。
「……?」
紬の目が止まった。
何かが動いた。
けれど、すぐに消えた。
「……気のせい?」
紬はもう一度、罠の中を見る。
水面が小さく揺れている。
けれど、魚は見えない。
紬は息を止めた。
じっと待つ。
すると――
ぴちゃ。
「……!」
小さな水音。
罠の奥で何かが動いた。
枝の隙間。
水の向こう。
何かが、すっと横切る。
一瞬だけ。
赤い線が見えた。
「…………」
紬は目を見開いた。
もう一度。
今度ははっきり見えた。
魚の身体。
赤い線。
尾びれが揺れる。
「……いた」
声が小さく漏れた。
「……魚、入ってる!」
紬は思わず身を乗り出した。
その瞬間。
魚が大きく身体を跳ねさせる。
ビチビチッ!
「わっ!」
紬は慌てて手を引いた。
けれど。
顔には笑みが浮かんでいた。
「……やった」
昨日、自分で作った罠。
自分で選んだ場所。
自分で仕掛けた餌。
その中に。
本当に魚が入っていた。
「……捕まえられた」
紬は魚を見つめた。
嬉しい。
思っていた以上に嬉しかった。
ルーチェも罠の上を飛びながら、
「ギョェ!」
と大きな声を上げる。
「うん。やったね」
紬は笑った。
でも、すぐに魚へ視線を戻す。
「……ここから逃がしたら大変」
魚はまだ元気だ。
罠の中で何度も身体を跳ねさせている。
ビチビチッ。
「……絶対に逃がさない」
紬は背負い籠を下ろした。
罠の出口を慎重に開く。
魚を直接つかむのではなく、背負い籠を出口のすぐそばへ置く。
「こっち……」
罠を少しずつ傾ける。
魚が動く。
ビチビチッ。
「お願い……」
もう少し。
罠を傾ける。
すると――
ぽとっ。
魚が籠の中へ落ちた。
「……入った!」
紬はすぐに籠を覗き込む。
魚が跳ねる。
ビチビチッ!
「よし……」
紬は周囲を見渡した。
籠には蓋がない。
このままでは、元気な魚なら飛び出してしまうかもしれない。
「葉っぱ……」
近くを見る。
大きめの葉を何枚か見つけた。
紬はそれを採り、籠の上に重ねる。
一枚。
もう一枚。
隙間ができないように、少しずつ位置をずらす。
「これなら……大丈夫かな」
籠の中から、
ビチビチッ。
と音がする。
「……暴れないでよ」
紬は苦笑した。
「ちゃんと帰るから」
そして、空になった魚罠を見る。
「……これは戻しておこう」
罠を昨日と同じ場所へ戻す。
水の流れを確認する。
入口の向きを整える。
最後に石を置き、流されないよう固定する。
「よし」
これなら、また魚が入るかもしれない。
紬は背負い籠を背負った。
ずしりと重い。
「……結構重い」
でも、嫌な重さではなかった。
背中から、
ビチビチッ。
と聞こえる。
紬は思わず笑った。
「今日は魚だね」
「ギョ」
「うん」
二人は家へ向かって歩き始めた。
*
帰り道。
紬は何度も背中を気にした。
ビチビチッ。
葉が少し動く。
「……大丈夫?」
立ち止まって確認する。
魚はちゃんと籠の中にいる。
「よし」
また歩く。
少し進んだところで、道端に大きな葉を見つけた。
「これも使えそう」
紬は何枚か採った。
籠の上に重ねる。
「これなら、もっと安心かな」
それでも心配なのか。
紬は何度も籠を押さえながら家へ向かった。
*
家に着く。
紬は背負い籠を下ろした。
「……ふぅ」
葉をそっと外す。
中には、元気な魚が一匹。
ビチビチッ。
「……元気だなぁ」
紬はしゃがみ込んだ。
まずは確認。
《知識と生存》を開く。
魚へ触れる。
頭の中に文字が浮かんだ。
【名称】レッドアトラス
【分類】魚類
【性別】オス
【状態】良好
【体格】やや痩せ型
【食用】可能
【肉色】赤身
「……食べられる」
紬はほっと息を吐いた。
「ちょっと痩せてるみたいだけど……」
魚を見る。
身体に入った赤い線。
どこか懐かしい。
「アマゴみたい……」
元の世界で見た魚を思い出す。
けれど、これはこの世界の魚だ。
「……レッドアトラス」
名前を呟く。
「どんな味なんだろう」
紬は魚を見つめた。
そして――
「あ」
動きが止まる。
「火……」
火がない。
「先に火を起こさないと」
紬は慌てて薪を集めた。
*
小さな火がしだいに大きくなり、薪がぱちぱちと音を立てる。
紬は火の状態を確認した。
そして、少し離れた場所へ葉を一枚敷く直接火が当たらない。
けれど、十分に熱が届く場所、その上に、三枚おろしにしたあとに残る骨を置く予定だ。
「これは……あとで」
紬は骨を捨てないで、明日火で炙って食べる。
そのために、先に乾燥させておく。
火の近くなら、ゆっくり水分が抜けていくだろう。
「明日のお楽しみ」
紬はそう呟いた。
そして平らな石を用意して、大きめの葉を何枚か重ねた。
簡単なまな板だ。
「……よし」
魚を葉の上へ置き、紬は黒曜石を手に取った。
鋭い縁を確認する。
魚を捌くなら、以前使っていた石刃よりこちらのほうがいい。
ただし、黒曜石も強く扱えば欠ける。
「……慎重に」
紬は魚を見つめた。
この世界の魚を捌くのは初めてだが、元の世界では魚を捌いたことがある。
やり方は同じはずだ。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる、初めての魚失敗したくない。
まず、魚の表面の鱗を落とす。
水で表面を流す。
腹側へ黒曜石の刃を入れる。
内臓を取り出す。
中をきれいに洗う。
「……ここまでは大丈夫」
紬は一度、息を吐いた。
そして、魚の頭の後ろへ刃を当て、ゆっくりと進める。
背骨に沿わせるように。
力を入れすぎない。
刃先が骨に当たる感触を確かめながら、少しずつ身を外していく。
すっ。
刃が進む。
身が少しずつ開いていく。
「……」
焦らない。
ゆっくり。
丁寧に。
やがて、片側の身が外れた。
「……できた」
反対側も同じように進める。
黒曜石の刃を滑らせる。
最後まで慎重に。
そして――
三枚に分かれた。
「……できた」
紬は二枚の身を見た。
白身ではない。
薄く赤みを帯びた、きれいな身。
「……やっぱりアマゴみたい」
少しだけ懐かしい気持ちになる。
残った頭と骨を見る。
骨には、まだ少し身が残っている。
「これも……捨てない」
紬は骨を火の近くへ持っていく。
葉の上にそっと置いた。
火には直接当たらない。
でも、じんわりと熱が届く。
「明日、炙って食べよう」
これで一匹分、無駄にするものはほとんどない。
紬は満足そうに頷いた。
*
次に、ミナハーブを用意する。
葉を少し摘む。
指先で軽く揉む。
爽やかな香りが広がった。
「いい匂い」
そして、畑へ目を向ける。
ネギ。
自分で植えたネギ。
今まで何度も食べてきた。
でも。
料理に使うのは、今日が初めてだった。
「……これも使おう」
一本採り、水で洗う。
黒曜石で細く切っていく。
葉の上に、緑と白の細いネギが並んでいく。
「……なんか、ちゃんと料理してるみたい」
少し嬉しくなった。
最後に塩。
指先で少しだけつまむ。
「これくらいかな」
魚の身へ塩を振る。
ミナハーブを乗せる。
その上にネギ。
それだけなのに。
魚はもう、ただの魚ではなくなっていた。
料理だ!調理された魚に、テンションがあがる!
*
紬は大きな葉を一枚持ち上げた。
魚の身をその上に置く。
ミナハーブ。
ネギ。
塩。
そして、葉を折り重ねる。
一枚。
もう一枚。
魚が見えなくなるまで包んでいく。
「……これでいいかな」
端を折り込む。
中身が出ないように、もう一枚葉を重ねる。
完全に包まれた。
それでも、葉の隙間からハーブの香りが漂ってくる。
「……いい匂い」
紬は火を見る。
薪が赤くなっている。
平らな石にも、十分に熱が入っていた。
紬は包みをそっと石の上へ置いた。
じゅっ。
「……!」
小さな音がした。
葉の隙間から、白い湯気が細く立ち上る。
紬は思わず顔を近づけた。
魚が熱されている。
ネギが温まっている。
ミナハーブの香りが、少しずつ強くなっていく。
ぱち。
薪が小さく爆ぜる。
森の中に、火の音が響く。
「……楽しみ」
紬はその場から動かなかった。
じっと包みを見つめる。
しばらくすると、香りが変わってきた。
魚の香ばしい匂い。
ネギの甘い香り。
ミナハーブの爽やかな香り。
全部が混ざって、ふわりと鼻へ届く。
「グーゥ」
「……お腹すいてきた」
お腹がなり思わず呟く。
火のそばで、ゆっくり時間が過ぎていく。
包みの中では、魚に熱が入っている。
葉に閉じ込められた湯気が、魚を包み込む。
焼くというより。
蒸す。
そんな料理になっているのだろう。
「……そろそろかな」
紬は少し待つ。
もう少し。
もう少しだけ。
じっくり火を通す。
やがて、湯気が少し落ち着いてきた。
「……よし」
紬は包みを火から下ろした。
熱を持った葉を慎重に持ち上げる。
そして、ゆっくり開く。
一枚。
また一枚。
最後の葉を開いた瞬間。
ふわっ。
湯気が広がった。
「……わぁ」
赤みを帯びた魚の身。
その上に、しんなりとしたネギ。
ところどころにミナハーブ。
香りが一気に広がる。
紬のお腹が鳴った。
「……」
少し恥ずかしくなる。
「……いただきます」
細い枝を箸の代わりにする。
魚の身を少し崩す。
ほろり。
身が簡単にほどけた。
まだ熱い。
紬は少し息を吹きかける。
そして――
一口。
「…………」
噛む。
魚の旨味が口いっぱいに広がった。
塩気。
魚そのものの味。
そして、ネギの甘さ。
その後から、ミナハーブの爽やかな香りが鼻へ抜けていく。
紬は目を閉じた。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。
もう一口。
今度は少し大きめに。
「……おいしい」
同じ言葉しか出てこない。
でも、それで十分だった。
自分で捕まえた。
自分で捌いた。
自分で育てたネギを使った。
自分で火を起こした。
そして、自分で料理した。
紬は魚を見つめた。
「……ちゃんと、料理だ、おいしーぃよー!」
当たり前のことなのに。
それが、とても嬉しかった。
元の世界では。
魚を食べることなんて、珍しいことではなかった。
買って。
捌かれたものを使って。
火にかければ食べられる。
それが普通だった。
でも今は違う。
食べるものを、自分で探す。
捕まえる。
道具を作る。
火を起こす。
そして――
自分の手で料理する。
「……私、ちゃんと生きてるんだな」
小さく呟く。
心がキュッとなる
その言葉が、妙に胸へ残った。
ルーチェが近くの枝から料理を覗き込む。
「ギョ……」
「食べたい?」
「ギョ」
紬は少しだけ魚を分ける。
ルーチェへ差し出す。
ルーチェは嘴を近づけると、一口で食べた。
「……どう?」
「ギョ」
もう一口。
紬は笑った。
「気に入った?」
「ギョ」
「そっか」
紬も、もう一口食べる。
ゆっくり。
味わうように。
気づけば、魚はほとんどなくなっていた。
「……ごちそうさまでした」
紬は満足そうに息を吐いた。
身体の中が、少し温かい。
そして。
少しだけ身体が軽くなった気がする。
「……あれ?」
紬は腕を動かしてみた。
「ちょっと楽かも」
考える。
そして、ミナハーブを見る。
「……ミナハーブのおかげかな」
以前、本に書かれていた。
体力・小回復。
「すごいな……」
紬はミナハーブを見つめた。
「料理に入れるだけでも、こんなに効くのかな」
紬はまだ知らない。
この感覚が、ミナハーブだけによるものではないことを。
*
食べ終わったあと。
紬は使った葉を片付けた。
骨は、火の近くで静かに乾いている。
明日、炙ってみるつもりだ。
「……これで無駄なし」
紬は満足そうに頷いた。
そして、ふと本を見る。
「そういえば……」
料理をしている間は気にしていなかった。
紬は《知識と生存》を開く。
レッドアトラスのページを開く。
すると――
「……あれ?」
ページの下に、見覚えのないものがあった。
そこには、一枚の絵。
赤い線の入った魚。
さっき食べたレッドアトラスが、まるで本物を見て描いたように細かく描かれている。
「……絵?」
紬は首を傾げた。
その下に、新しい文字が並んでいる。
【料理名】レッドアトラスのハーブ蒸し
【材料】
レッドアトラス
ミナハーブ
ネギ
塩
葉
【調理法】
魚を下処理し、ミナハーブ、ネギ、塩を加える。
葉で包み、加熱する。
【効果】
体力回復・小
【状態】
良好
「…………」
紬はしばらく本を見つめた。
「料理まで……載るんだ」
今まで。
食べられる植物や魚の情報は載っていた。
でも、料理そのものが記録されたことはなかった。
「……私が作ったから?」
本は答えない。
ただ。
そこには確かに。
今、自分が作って食べた料理が記録されていた。
「……不思議」
紬は指先で、魚の絵をそっとなぞった。
「一度作った料理は……こうやって残るのかな」
まだ分からない。
けれど。
また何か作ったら、もしかしたら新しい料理がここに記録されるのかもしれない。
「……じゃあ、いろいろ作ってみようかな」
紬は小さく笑った。
本を閉じる。
火のそばでは、魚の骨が静かに乾いている。
明日は、これを炙ってみよう。
そして。
また何か作ってみよう。
森の中。
昼を少し過ぎた太陽が、木々の間から差し込んでいる。
紬は空を見上げた。
「……今日は、なんだか充実してるな」
小さく笑う。
自分で捕まえた魚。
自分で作った料理。
そして――
新しく本に記録された、一つの料理。
ほんの少しずつ。
この世界での暮らしが、形になっていく。
紬は火を見つめた。
小さな炎が、静かに揺れていた。




