第15話 肌に感じる季節
第15話 肌に感じる季節
紬は石壁の中に作った寝室で目を覚ました。
簡単な屋根のおかげで、夜露に濡れることもなくなった。
まだ完全な家とは言えない。
けれど、森の中で何もない場所にいた頃と比べれば、ずいぶんと落ち着いて眠れるようになった。
外から鳥の声が聞こえる。
紬は身体を起こし、入口から外を覗いた。
「……おはよう」
少し冷たい空気が頬に触れる。
「……あれ?」
紬は空を見上げた。
木々の葉はまだ青々としている。
けれど、朝の空気が以前より少しだけひんやりしている気がした。
「今って……何の季節なんだろ」
前の世界なら、スマホを見れば日付が分かった。
カレンダーを見れば、季節も分かる。
あと何ヶ月で寒くなるのかも。
でも、ここにはそれがない。
そもそも、この世界の一年が前の世界と同じなのかさえ分からない。
「……冬、来るのかな」
そう考えた途端、今の暮らしが少しだけ心細く感じた。
今は水がある。
食べられるものもある。
眠る場所もできた。
でも、それは今の季節だからなのかもしれない。
寒くなったら?
雨が何日も続いたら?
食べ物が取れなくなったら?
「……今のうちに、いろいろ考えないと」
紬は小さく呟いた。
*
朝食を用意する前に、今ある食料を確認する。
アカツブ。
ミナハーブ。
持ってきた食料も、まだ少し残っている。
棚代わりにしている場所を覗く。
塩が入った袋。
飴。
クッキー。
そして、じゃがいも。
紬はじゃがいもを一つ手に取った。
「……これ」
しばらく眺める。
火がない今、そのまま食べることはできない。
だったら――
「植えたほうがいいかも」
一つ食べれば、その場でなくなる。
でも、植えて育てれば増えるかもしれない。
「畑……作ってみようかな」
まだ場所も決めていない。
土を耕す道具もない。
それでも、これから先を考えるなら必要なことだと思った。
次に、人参を見る。
以前植えたものから、葉が少しずつ伸びてきている。
「葉っぱ、結構伸びてきたな……」
土の中は見えない。
ちゃんと根が育っているのかも分からない。
少しだけ掘って確認したくなる。
けれど――
「……まだ待とう」
今抜いてしまえば、それで終わりだ。
もう少し待てば、大きくなって食べられるかもしれない。
紬は人参から手を離した。
そして、塩の袋を見る。
「塩も……たくさんあるわけじゃないし」
一袋。
なくなったら、簡単には手に入らないかもしれない。
だから、普段からたくさん使うのはやめておこう。
「使うなら、少しだけ」
袋を元の場所へ戻す。
その隣にある飴とクッキーにも目を向けた。
「……これは」
少し迷ってから、そっと蓋を閉じる。
「特別な時まで取っておこう」
甘いものが食べたい時に食べるのもいい。
でも、これは前の世界から持ってきたものだ。
なくなってしまえば、もう同じものは食べられない。
だから今は、まだ取っておく。
*
朝食を終えると、紬は今日の予定を考えた。
「食べ物……もっと探さないとな」
アカツブだけに頼るのは危ない。
いつまで実がなるのか分からないし、森の植物も季節によって変わるかもしれない。
昨日見つけた魚。
レッドアトラス。
「あれも食べられるんだよね」
魚なら干物にできるかもしれない。
紬は塩の袋を思い出した。
「……塩があれば、できるのかな」
でも、魚を捕まえる方法がない。
それに、捌くための道具も必要になる。
「まずは、魚を捕る方法からか」
そして火。
魚を焼くなら、火も必要になる。
「……火も、どうにかしないとな」
まだ方法は分からない。
今日はそこまで考えるだけにした。
やることを一つずつ増やしていく。
屋根もまだ途中。
寝室の前に扉も必要。
奥の小さなパントリーも、いずれ綺麗にして食料を置けるようにしたい。
そのための棚も作らないといけない。
大きな部屋は、しばらく道具や作業をする場所にするつもりだ。
そして、外には畑。
「……やること、いっぱいだなぁ」
紬は思わず苦笑した。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
やることがある。
これから作るものがある。
それは、ここで暮らしていくということなのかもしれない。
*
「今日は、もう少し遠くまで行ってみよう」
紬は背負いカゴを手に取った。
沢へ行く時と同じように、水や簡単な道具を入れる。
そして《知識と生存》も忘れずに持っていく。
知らない植物を見つけても、勝手に食べない。
それだけは、もう決めている。
紬は石壁を出て、いつもの道を歩き始めた。
今まで何度も歩いた場所を抜ける。
その先へ。
木々の間隔が少しずつ変わっていく。
見たことのない植物。
知らない形の葉。
小さな花。
紬は気になったものを見つけるたび、《知識と生存》で確認した。
食べられるもの。
食べられないもの。
利用できるもの。
何に使えるのか分からないもの。
分からないものには、むやみに触れない。
「知らないものは……食べない」
以前、アカツブによく似た赤い実を見つけたことを思い出す。
見た目はそっくりだった。
けれど、食べてはいけないものだった。
「見た目だけで判断するのは危ないよね」
紬は周囲を見渡す。
大きな岩。
特徴のある木。
倒れた幹。
帰り道が分からなくならないよう、目印も覚えていく。
今までは、生きるために歩いていた。
今日は違う。
暮らすために、森を知ろうとしていた。
*
しばらく歩いていると、沢の近くへ出た。
「……あれ?」
白い花が目に入った。
紬は足を止める。
「これ……」
近づいてみる。
花は、前の世界で見たものより大きい。
色も少し違う。
それでも、どこか見覚えがある。
「……シャボンソウ?」
紬はしゃがみ込み、《知識と生存》を開いた。
そこに浮かんだ文字は――
【名称】シャボンソウ
【属性】植物
【利用】洗浄
【毒性】なし
「……同じ名前だ」
紬は花をじっと見つめた。
姿は少し違う。
大きさも違う。
それなのに、名前は同じ。
「前の世界にもあったのに……」
少し不思議な気持ちになる。
けれど、すぐに気を引き締める。
「同じ名前だからって、同じものとは限らないもんね」
もう一度、本を見る。
毒性はない。
洗浄に使える。
「これなら……身体を洗う時に使えるかも」
紬は少しだけ採ることにした。
カゴへ大事にしまう。
「帰ったら試してみよう」
立ち上がった、その時だった。
近くの枝に、何か白いものが引っかかっている。
「……?」
紬は近づいた。
「毛……?」
指先でそっとつまむ。
柔らかい。
白い毛だった。
頭の中に、昨日の姿が浮かぶ。
白い身体。
二本の角。
森の奥へ逃げていった生き物。
「……あの子のかな」
確証はない。
《知識と生存》を開いてみる。
けれど、毛だけでは対象を特定できない。
「……まだ分からないか」
紬は毛を手のひらに乗せたまま考える。
「何かに使えるかもしれないし……」
なんとなく捨てる気にはならなかった。
紬は毛を小さくまとめ、カゴの中へしまった。
「持って帰ろう」
*
帰り道。
木の上から、聞き慣れた声がした。
「グェーーー!」
「あ、いた」
虹色鳥だ。
枝の上から紬を見下ろしている。
「今日はちょっと遠くまで行ってきたんだよ」
「グェ?」
「シャボンソウも見つけた」
紬はカゴを少し持ち上げて見せた。
虹色鳥は首を傾げる。
「興味ないか」
「グェ」
その時だった。
虹色鳥が突然、森の奥へ顔を向けた。
「……?」
「グェッ!」
一声。
虹色鳥が大きく鳴く。
紬もそちらを見る。
木々の向こう。
一瞬だけ。
白いものが見えた気がした。
「……あの子?」
けれど、次の瞬間には何もいない。
虹色鳥は何事もなかったように羽を整えている。
「……なんだったんだろ」
紬は首を傾げた。
それ以上は追わず、石壁へ戻ることにした。
*
石壁の中へ戻る。
今日見つけたシャボンソウを置く。
白い毛も、なくさないように小さな場所へしまった。
そして、石壁の中を見渡す。
ここで寝る。
ここで食べる。
ここで道具を作る。
まだ何もかも途中だ。
屋根も簡単なものしかない。
扉もまだない。
パントリーも、これから片付ける。
食料を置く棚も必要だ。
外には畑を作りたい。
じゃがいもを植えて、人参ももう少し育てる。
魚を捕る方法も考えたい。
火も必要だ。
「……少しずつだな」
以前なら、こんなに先のことを考える余裕なんてなかった。
でも今は違う。
明日やることを考えられる。
その次の日のことも。
そして、季節が変わった先のことも。
*
日が暮れてくる
紬はネギのところへ向かった。
「今日も元気だね」
根元へ水をかける。
最初は一本だった。
それが二つになり。
今では、三つの小さな芽が並んでいる。
「じゃがいもも、増えてくれたらいいな」
紬はしゃがんで眺める。
その時――
ゆら。
ほんの少しだけ、ネギの葉が揺れた。
「……?」
風は吹いていない。
木々の葉も動いていない。
それなのに。
三つのネギだけが、ほんのりと揺れている。
ふわり。
どこからともなく、ネギの香りがした。
「……ネギの匂い?」
紬は首を傾げる。
もう一度見てみる。
けれど、ネギは何事もなかったように静かに立っていた。
「……まあ、いっか」
紬は立ち上がる。
今日も新しいものを見つけた。
知らなかった森。
前の世界と同じ名前を持つ花。
白い毛。
そして、まだ知らない森の先。
明日は何をしよう。
そんなことを考えながら、紬は石壁の中へ戻っていった。




