閑話 領主の判断
閑話 領主の判断
領主館の執務室には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。
窓の外には、いつもと変わらない街の景色が広がっている。人々は日々の暮らしを送り、商人たちは店を開き、街道には荷馬車が行き交っていた。
けれど、領主ババロア・オルランド・アルバートの机の上には、その平穏を揺るがしかねない報告書が置かれていた。
帰らずの森で確認された異変。そして、クロトゲノキの周辺に現れた黒い霧。
報告を届けたのは、冒険者パーティー『蒼き風』だった。
「……もう一度、報告内容を確認する」
アルバートは手元の書類に目を落とした。
向かいには騎士団長のメッナ・アルバンドロと、冒険者ギルド長のマインズ・ロードスターが座っている。二人とも、普段の穏やかな表情を崩していた。
「蒼き風の報告では、黒い霧はクロトゲノキ付近に出現。危険度はA+相当。彼らは討伐には至らず、森の奥へ押し戻すことしかできなかった……ということだな」
「はい。報告書に記載された内容と、ギルド側で確認した情報に食い違いはありません」
マインズが答えた。
「帰還したメンバー五人から、それぞれ聞き取りを行っています。目撃した状況や黒い霧への対処についても、全員の証言はほぼ一致しています」
「負傷者は?」
「多少の傷は負いましたが、命に別状はありません。現在は回復しています」
「そうか。それは何よりだ」
アルバートは書類をめくった。
黒い霧をまとった魔物。通常は冬に現れ、周囲に吹雪を呼び、気温を急激に低下させる危険な存在。危険度はA+。
しかし、今回の出現は秋の終わり。例年の時期よりも明らかに早い。
「それにしても、出現時期が早すぎる」
メッナ団長が口を開いた。
「私もそこが気になっています。これまでの記録と照らし合わせても、今回の出現は異常です。何かが起きていると考えるべきでしょう」
「帰らずの森の中で、何か変化があったということか?」
「可能性はあります。ただ、今の段階では断定できません。森の環境が変わったのか、黒い霧そのものに何らかの変化があったのか。それとも、別の要因があるのか。どれも調査が必要です」
メッナ団長は慎重に言葉を選んだ。
「蒼き風の報告では、森の入口付近で魔物の数が増え、普段なら奥にいる中型の魔物まで姿を見せていたそうです。さらに、小型の魔物やスタンプボアも、彼らを見ると森の入口へ向かって逃げていったと」
「魔物たちが何かから逃げていた、ということか」
「はい。ほかにも、タイタンサーモンの産卵糸が例年より少なかったという話もあります。これらが黒い霧と関係しているかは分かりませんが、森全体に何らかの異変が起きている可能性はあります」
アルバートは腕を組んだ。
魔物の生息域が変わること自体は、決して珍しい話ではない。だが、複数の種類が同じ方向へ移動しているとなれば話は別だ。
「黒い霧は、クロトゲノキの周囲で何をしていた?」
「木の幹を爪のようなもので何度も引っかいていたそうです。周囲を回りながら、幹のあちこちを傷つけていたと」
「何かを探していたようにも見えた、と報告にあるな」
「はい。木の周囲を何度も回り、同じ場所を繰り返し引っかいていたそうです。ただ、何を探していたのかまでは分かっていません」
「クロトゲノキに何かあるのか。それとも、木の周辺に何かを感じ取っていたのか……」
アルバートは報告書に目を落とした。
黒い霧が何かを探していたのだとすれば、単純に魔物が現れただけとは考えにくい。
「それに、周囲の気温が急に下がったという証言もある。やはり、通常の出現時と同じ性質を持っているようだな」
「そのようです。ただし、今回の個体がどの程度の力を持っているかは分かりません」
マインズが補足した。
「危険度A+という評価は、過去の記録に基づくものです。今回の個体が同じ性質や強さだとは限りません。まして、季節外れの出現です。過去の記録だけで判断するのは危険でしょう」
「なるほど。今ある情報だけで、安易に判断するべきではないということだな」
「はい」
アルバートはゆっくりと息を吐いた。
「それで、今回の件について騎士団だけで対処する場合はどうなる?」
メッナ団長は少しだけ目を伏せ、考えをまとめてから答えた。
「全員でかかれば、討伐そのものは可能だと思います」
「可能、か」
「ただし、無傷で済むとは考えられません。黒い霧の能力や攻撃手段が分からない以上、こちらにも被害が出るでしょう。何人かは犠牲になる可能性があります」
メッナ団長の声には、騎士団を率いる者としての重みがあった。
彼は部下たちの実力を知っている。訓練を重ね、街を守るために日々努力している者たちだ。その命を簡単に危険へさらすことはできない。
「犠牲を覚悟すれば勝てる、という話ではないな」
「はい。討伐できたとしても、その後の領内の防衛に支障が出る恐れがあります。騎士団に大きな損害が出れば、ほかの場所で問題が起きた際に対応できなくなります」
「それは避けたい」
アルバートは即座に答えた。
黒い霧への対処だけに戦力を集中させるわけにはいかない。領内には街も村もあり、森や街道を行き来する人々もいる。一つの脅威を排除するために、別の場所を危険にさらすことはできなかった。
「マインズ。冒険者ギルドの状況は?」
「現在、ババロアにはAランク冒険者が何人か滞在しています。彼らに協力を依頼することはできますが……」
「討伐は難しいか?」
「不可能です」
マインズは迷いなく答えた。
「Aランク冒険者が複数集まったとしても、今回の黒い霧を討伐するのは難しいでしょう。蒼き風の報告を聞く限り、相手の能力も分からないまま正面から挑むのは危険すぎます」
「騎士団と冒険者が協力すれば?」
「戦力は増えます。しかし、それだけで確実に討伐できるとは言えません。むしろ、連携が不十分な状態で戦えば被害が増える可能性もあります」
マインズは腕を組んだ。
「相手の正体が分からない以上、まずは情報を集める必要があります。ただ、調査に向かうだけでも危険でしょう」
「なるほど……」
アルバートは椅子の背にもたれた。
騎士団だけでは犠牲が避けられない。Aランク冒険者だけでも討伐は難しい。両者が協力したとしても、勝算が十分にあるとは言えなかった。
何より、黒い霧がなぜ早く現れたのか、その理由すら分かっていない。
「討伐するにしても、まずは十分な戦力を整える必要があるな」
「私もそう考えます」
メッナ団長が頷いた。
「ですが、戦力を整えるにも時間が必要です。相手が次にいつ現れるか分からない以上、早急に動くべきかと」
「分かっている。……それと、もう一つ気になる報告があったな」
アルバートは別の書類を手に取った。
「ノームの件だ」
その言葉に、マインズが小さく頷いた。
「はい。帰らずの森でノームの親子が黒い霧に襲われたという報告です」
「ノームが襲われた、か……」
アルバートは書類に目を落とした。
ノームが帰らずの森に住んでいることは、領内でも知られている。人前に姿を現すことは少ないが、森の奥に暮らしているという話は古くから伝わっていた。
だからこそ、今回の報告には引っかかるものがあった。
「ノームが森に住んでいることは知っている。だが、なぜ黒い霧がノームを襲った?」
「そこが私にも気になっています」
マインズが答えた。
「蒼き風が発見したのは、ノームの少年でした。名前はバルバロ。黒い霧に襲われた際、父親が彼を逃がしたそうです。父親はその後、行方が分からなくなっています」
「父親はまだ見つかっていないのか」
「はい。少年は父親が生きていると信じています。ギルドに捜索を依頼してきました」
「ノームの親子が暮らしていた場所は?」
「帰らずの森の中です。詳しい場所については、本人の回復を待って聞き取る必要があります」
アルバートは眉を寄せた。
「黒い霧は、森に住むノームを襲った。それも、父親が子供を逃がすほどの状況だったということか」
「そうです。偶然、近くにいたノームを襲っただけなのか。それとも、何か理由があってノームを狙ったのか。今のところ分かっていません」
「ノームを狙う理由……」
アルバートは考え込んだ。
黒い霧がクロトゲノキの周囲で何かを探していたという報告。そして、帰らずの森に住むノームの親子が襲われたという事実。
この二つが無関係なのかどうかも、まだ分からない。
「ノームが何かを持っていた可能性は?」
「その点についても、確認が必要です。ただ、バルバロは父親の捜索を依頼する際、報酬としてノームの土団子をギルドに預けました」
「ノームの土団子か……」
アルバートは少しだけ目を細めた。
「現物はギルドにあるのか?」
「はい。現在は私の管理下で保管しています」
「どのようなものだ?」
「見た目は小さな泥団子のようなものです。ただ、普通の土とは違います。古い文献には、ノームが作る特別な土の玉について記述があります」
マインズは一度言葉を切った。
「土に埋めることで、その土地が一年の間、豊かな実りをもたらすようになるとされています。土そのものを傷めることもなく、土地に悪い影響を残すこともないそうです」
「一年もか」
「はい。実物を確認したのは私も初めてですが、文献の記述と照らし合わせても、非常に貴重なものだと考えています」
アルバートはしばらく考えた。
この領地では、食料の確保は常に重要な課題だ。季節や天候によって収穫量が左右され、魔物の被害で畑が荒らされることもある。
もし土団子の力が本物なら、領内の農地に活用できる可能性がある。
「それほどのものを、父親の捜索報酬として差し出したのか」
「はい。バルバロは、父親を見つけてほしいと強く願っています。自分にできることとして、土団子を報酬にしたのでしょう」
「……そうか」
アルバートは視線を落とした。
父親を探してほしい。その願いのために、少年は大切なものを差し出したのだ。
「土団子は、領内で活用する方向で考えよう。ただし、まだ性質の確認が必要だ。勝手に使うことはせず、慎重に扱ってくれ」
「承知しました」
「その価値が確認できれば、領内の資金にも余裕が生まれるだろう。必要な予算を確保することもできるかもしれない」
マインズが頷いた。
「そうですね。領内で活用できるのであれば、長い目で見ても大きな助けになると思います」
「ならば、今はその可能性も含めて考えておこう」
アルバートは土団子についての報告を机に置いた。
ノームの親子が襲われた理由は分からない。黒い霧が何を探していたのかも分からない。だが、今回の出来事が領内にとって重要な意味を持つことだけは確かだった。
そのとき、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします、アルバート様」
「入れ」
扉が開き、統括執事が一礼して入室した。手には新たな書類がある。
「ご報告したいことがございます」
「何だ?」
「現在、領内にSランク冒険者が二名滞在していることが確認できました」
「……何?」
アルバートは顔を上げた。
隣に座るメッナ団長も、わずかに目を見開く。
「Sランクが二人だと?」
「はい。確認できているのは、氷結の貴公子と硝煙の剛力の二名でございます」
「待て。Sランク冒険者は、通常なら王都にいるはずだろう。なぜ二人もこの領内に?」
アルバートは統括執事を見つめた。
Sランク冒険者は、冒険者の中でも特別な存在だ。その実力はもちろん、依頼を受ける際の条件や報酬も一般の冒険者とは大きく異なる。普段は王都を拠点としている者が多く、辺境の領地に二人も滞在しているというのは珍しいことだった。
「それは……」
アルバートはマインズへ視線を向けた。
「マインズ、お前は知っていたのか?」
「いえ。初耳です」
マインズは驚いたように首を横に振った。
「ギルド長である私にも報告がありませんでした。少なくとも、ギルドを通して滞在の連絡が来たわけではありません」
「そうか……」
アルバートは再び統括執事に向き直った。
「二人は今、どこにいる?」
「ババロアの隣に位置する小さな村、トラン村に滞在しているとの情報でございます」
「トラン村か」
アルバートは地図を思い浮かべた。
ババロアからほど近い場所にある、小さな村だ。大きな街道からは少し外れており、普段は特別な用事がなければ立ち寄る者も少ない。
そんな場所に、Sランク冒険者が二人もいる。
「なぜ、そこに……」
思わず漏れた言葉に、マインズも考え込む。
「滞在理由は分かっているのか?」
「申し訳ございません。現在確認できているのは、二人がトラン村に滞在しているという情報まででございます」
「そうか。無理に詮索する必要はない。だが、こちらから協力を依頼するのであれば、まずは本人たちの意向を確認しなければならないな」
「その通りです」
メッナ団長が頷いた。
「Sランク冒険者であれば、依頼を受けるかどうかは本人たちの判断になります。こちらの事情だけで動いてもらうことはできません」
「分かっている」
アルバートは少し考えたあと、マインズへ向き直った。
「マインズ。今回の黒い霧について、Sランクの力を借りることは可能だと思うか?」
「本人たちの実力や相性にもよりますが、Aランク冒険者では手に負えない相手です。協力を得られるのであれば、大きな戦力になるでしょう」
「二人とも、か?」
「はい。ただし、相手の正体が分からない以上、二人がいれば必ず討伐できるとは断言できません。まずは情報を共有し、状況を見てもらう必要があります」
「そうだな」
アルバートは頷いた。
「問題は依頼の報酬だ」
Sランク冒険者に正式な依頼を出すのであれば、それに見合った報酬を用意しなければならない。領民の安全を守るためとはいえ、領内の財政を無視するわけにはいかなかった。
「現在の領内の資金で、二人への依頼報酬を用意することはできるか?」
統括執事は手元の書類に目を落とした。
「通常の領内予算から捻出する場合、ほかの事業に影響が出る可能性がございます。ただ、先ほどのノームの土団子について、領内で活用できる見込みが立てば、資金を確保する道筋はございます」
「つまり、土団子を領内で活用することで、依頼に必要な資金を捻出できるということか?」
「はい。土団子の価値や活用方法については、さらに調査が必要ですが、領内の資金計画に組み込むことができれば、Sランク冒険者への依頼報酬を用意することも可能かと存じます」
アルバートは静かに頷いた。
土団子を冒険者への報酬として渡すわけではない。あくまで領内で活用し、その価値を領内の財源へとつなげる。それによって、Sランク冒険者へ正式に依頼を出すための資金を用意できるということだった。
「なるほど。ノームの土団子が、思わぬ形で領内の助けにもなるというわけか」
「そうでございます。ただし、土団子の扱いについては、引き続き慎重に進める必要がございます」
「分かっている。貴重なものだからこそ、軽々しく扱ってはいけない」
アルバートは机の上の書類を見つめた。
黒い霧の早期出現。帰らずの森に住むノームの親子が襲われたこと。父親を救うために、少年が差し出した土団子。そして、偶然にも領内に滞在している二人のSランク冒険者。
いくつもの情報が重なり、今まで見えていなかった選択肢が生まれた。
「……メッナ団長」
「はい」
「トラン村へ向かってくれ」
アルバートははっきりと告げた。
「氷結の貴公子と硝煙の剛力、この二人に今回の件を説明し、協力を依頼したい。まずは本人たちの意向を確認してくれ」
「承知しました」
「黒い霧の危険性だけでなく、帰らずの森でノームの親子が襲われたことも伝えてほしい。なぜノームが狙われたのか、そこも含めて調査が必要だ」
「分かりました。騎士団から必要な者を選び、準備が整い次第出発いたします」
「頼む。ただし、無理に引き受けさせる必要はない。こちらの状況を正確に伝え、正式な依頼として話をしてほしい」
「承知しました」
メッナ団長は席を立ち、胸に手を当てて一礼した。
マインズもその様子を見守っていたが、すぐに口を開いた。
「私からもギルドへ連絡を入れておきます。黒い霧についての情報を整理し、Sランクの二人に説明できるよう準備しておきましょう」
「そうしてくれ。蒼き風からの報告も、引き続き確認を頼む」
「承知しました」
領主館の執務室に、再び静けさが戻る。
メッナ団長が出立の準備に向かい、マインズもギルドへ戻るために席を立った。
アルバートは二人を見送ったあと、窓の外へ視線を向けた。
街は今日も変わらず動いている。
けれど、その平穏のすぐ外側では、何かが起き始めているのかもしれない。
「黒い霧が早く現れた理由……。そして、なぜノームの親子を襲ったのか」
アルバートは小さく呟いた。
帰らずの森にノームが住んでいることは知っていた。だが、これまで彼らが黒い霧に襲われたという話は聞いたことがない。
黒い霧は何を探していたのか。ノームの親子は、何を見たのか。そして、森で起きている異変はどこから始まったのか。
今はまだ、何ひとつ答えは出ていない。
「どうか、間に合ってくれよ……」
領主の呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな執務室に消えていった。
こうして、領主館からトラン村へ向けて、騎士団長メッナ・アルバンドロが派遣されることが決まった。




