第126話 過去の名
第126話 過去の名
冬の朝、家の前には柔らかな日差しが降り注いでいた。
雪はまだ積もっていないものの、吐く息は少し白い。森の木々は冬支度を終え、枝の間を吹き抜ける風にも冷たさが混じっていた。
そんな中、家の前では賑やかな声が響いていた。
「きゅっ!」
ラタが小さな身体でアルブレーヴの角によじ登る。そのすぐ後ろからカーバンクルが続き、シロエナガたちは角の上に並んで羽を休めていた。ルリも負けじと透明な羽を羽ばたかせ、アルブレーヴの頭の近くを飛び回っている。
アルブレーヴは、そんなみんなを気にする様子もなく、静かに佇んでいた。
ところが、しばらくすると、ふいに頭を振った。
「きゅわっ!?」
「ちゅちゅっ!」
角に乗っていたラタとカーバンクルが、ころころと転がり落ちる。シロエナガたちは慌てて羽ばたき、ルリは空中でくるりと一回転した。
それでも、誰も怒る様子はない。
地面に降りたラタはすぐに立ち上がり、再びアルブレーヴの脚をよじ登り始めた。カーバンクルも額の赤い宝石をきらりと光らせながら、その後を追いかける。
「また落とされちゃうよ?」
紬は戸口から様子を見ながら、くすりと笑った。
普段は森の主として凛とした姿を見せるアルブレーヴも、今はみんなに好きなように遊ばせている。
角を振って落としてみたり、少しだけ頭を傾けて乗りやすい位置を作ってみたり。まるで、みんなの遊び相手になっているようだった。
紬は楽しそうな様子に惹かれ、そっと近づいていく。
「私も混ぜてもらおうかな」
そう呟いた瞬間だった。
ぴょんっ!
「わっ!?」
目の前を白い毛玉が飛んだ。
カーバンクルが勢いよく跳び上がり、そのまま紬の顔に飛びついてきたのだ。
「わわっ、ちょっと待って!」
顔を覆うように抱きつかれ、紬は思わず両手を上げた。
けれど、頬に触れるのは柔らかな毛ばかり。
「……ん?」
ふわふわ。
もふもふ。
顔いっぱいに広がる柔らかな感触に、紬の表情がみるみる緩んでいく。
「もふもふだ〜……」
思わず頬を寄せる。
カーバンクルは嬉しそうに「ちゅるっ」と鳴き、紬の顔にますます身体を押しつけた。
どうやら、遊んでほしかったらしい。
「ふふっ、くすぐったいよ」
紬が笑っていると、すっと白い影が近づいてきた。
アルブレーヴだった。
アルブレーヴはカーバンクルの首元をそっと咥えると、猫の親が子猫を運ぶように、紬の顔から引き離した。
「きゅっ?」
宙に持ち上げられたカーバンクルは、きょとんとした顔で首を傾げる。
「ありがとう、アルブレーヴ」
紬が礼を言うと、アルブレーヴは静かに目を細めた。
その表情が、ほんの少し笑ったように見えた。
紬の胸が、ぽっと温かくなる。
「……ふふ、優しいね」
アルブレーヴは返事をする代わりに、カーバンクルを地面へ下ろした。
解放されたカーバンクルは、何事もなかったかのように、またラタたちのところへ駆けていく。
その様子を見送りながら、紬はふと気になったことを口にした。
「そういえば、アルブレーヴって種族名だよね?」
「ん? 何の話だ?」
声のした方を振り返ると、ババロが家から出てきたところだった。
「アルブレーヴのこと。森の主だし、神獣なんだよね? アルブレーヴって、種族の名前なのかなって」
「ああ。俺も詳しいことは知らんが、神獣様の一匹だって話は聞いたことがある。実際にいるとは思ってなかったけどな」
ババロはアルブレーヴを見上げ、感心したように息を吐いた。
「神獣なんて、文献や言い伝えの中の存在だと思ってたぜ」
「そうなんだ……」
紬は改めてアルブレーヴを見つめた。
いつもそばにいてくれるから、つい忘れてしまう。アルブレーヴは、長い年月を生きる特別な存在なのだ。
ふと、もうひとつの疑問が浮かんだ。
「ねえ、アルブレーヴ。あなたには、名前があるの?」
カーバンクルを見守っていたアルブレーヴが、ゆっくりと紬へ顔を向ける。
少しだけ考えるように、目を伏せた。
その直後だった。
紬の心に、ひとつのイメージが流れ込んできた。
白い花。
石垣の隙間から、そっと顔を出すように咲いているカランコエ。
花びらを優しく照らす、暖かな光。
そして、その光の中に立つ、小さな白い獣の姿。
今よりもずっと小さな身体。まだ幼さの残る顔立ちで、花のそばにちょこんと座っている。
その小さな獣へ、誰かが手を差し伸べた。
光に包まれた人影。
長い時を経た記憶なのだろうか。顔までははっきりと見えない。
けれど、その声だけは不思議なほど鮮明だった。
『カラン、おいで』
優しく、温かな声だった。
小さな獣は顔を上げ、呼びかけた人影へと駆け寄っていく。
その姿を見た瞬間、紬の胸がじんわりと温かくなった。
イメージは、そこで静かに途切れた。
「……今のは……」
紬は目を瞬かせた。
目の前には、いつものアルブレーヴがいる。
けれど、先ほどまでとは少し違って見えた。
白い花のそばにいた小さな姿。暖かな光。そして、あの優しい呼び声。
紬はアルブレーヴの顔を見上げ、確かめるように尋ねた。
「あなたの名前は、カランなの?」
アルブレーヴの耳が、ぴくりと動いた。
それから、ゆっくりと目を細める。
いつもと変わらない穏やかな仕草。
けれど、その表情には、どこか懐かしさを帯びた喜びが浮かんでいるように見えた。
まるで、遠い昔に置いてきた大切なものを、そっと手渡されたかのように。
何百年ぶりだろう。
自分の名を呼ばれたのは。
森の主として、神獣として、人々から語られることはあっても、その名を呼ぶ者はもういなかった。
遠い記憶の中に残る、あの声。
そして今、目の前の少女が、同じ名を呼んでくれた。
アルブレーヴ――カランは、嬉しそうに目を細めたまま、紬を見つめていた。
「……そっか」
紬は小さく笑った。
「カランって、素敵な名前だね」
カランは静かに頭を下げるように、紬へ顔を寄せた。
その仕草を見て、紬の笑みがいっそう深くなる。
名前を知ったからといって、何かが大きく変わるわけではない。
明日もきっと、みんなは角に乗って遊ぶだろうし、カーバンクルはまた紬に飛びついてくるかもしれない。
アルブレーヴも、いつものように森を見守るのだろう。
それでも、今日知った名前は、紬にとって特別なものになった。
今まで知らなかったアルブレーヴの過去。その一端を、自分に見せてくれたこと。
それが、何よりも嬉しかった。
「ねえ、カラン」
紬がもう一度その名を呼ぶと、アルブレーヴは穏やかな眼差しで彼女を見つめた。
その傍らでは、ラタたちが再び角へよじ登ろうとしている。
「きゅっ!」
「ちゅるっ!」
アルブレーヴは、そんなみんなの様子に気づくと、ほんの少しだけ頭を傾けた。
次の瞬間、角の上から小さな影がころころと転がり落ちる。
楽しそうな鳴き声が、冬の朝の空気に響いた。
紬は笑いながら、その光景を見つめていた。
遠い昔に呼ばれていた名前。
そして、今ここで呼ばれた名前。
そのふたつが重なった、穏やかな冬の一日だった。




