第125話 記憶の綻び
第125話 記憶の綻び
窓の向こうでは、雪が静かに降り続いていた。
炉の火が揺れるたび、部屋の中に柔らかな明かりが広がる。
紬は温かな飲み物を両手で包みながら、ぼんやりと炎を見つめていた。
先ほど、ババロに尋ねられたことが、まだ頭の片隅に残っている。
この世界に来る前、自分は何をしていたのだろう。
仕事をして、家に帰る。
そんな毎日を過ごしていたことは覚えている。
仕事のことも、家のことも、少しずつ思い返すことができた。
けれど、その先が曖昧だった。
この世界へ来る直前、自分は何をしていたのだろう。
何か特別なことがあったのだろうか。
それとも、いつもと変わらない一日だったのだろうか。
思い出そうとすると、頭の中に薄い霧がかかったようになり、その先へ進めなくなる。
確かに、自分にはその前の暮らしがあった。
けれど、最後の部分だけが、どこかに隠れてしまったようだった。
「……なんでだろう」
紬は小さくつぶやいた。
今まで、記憶について疑問を持ったことはなかった。
この世界に来てからは、覚えなければならないことがたくさんあった。
森で暮らすための知識、食べられる植物や危険な魔物のこと。
仲間たちと過ごす時間も、毎日の暮らしも、少しずつ積み重なってきた。
だから、過去を振り返る余裕がなかったのかもしれない。
けれど、一度気づいてしまうと、どうしても気になってしまう。
自分は、こちらへ来る前に何をしていたのだろう。
どうして、この世界に来ることになったのだろう。
考えても、答えは浮かばなかった。
紬は手の中のカップをそっと置いた。
こういうとき、頼りになるものがある。
自分の知識だけでは分からないことを、何度も教えてくれた本。
《知識と生存》。
紬は手のひらを上に向け、意識を集中させた。
淡い白と青の光が集まり、やがて一冊の本が姿を現す。
表紙に触れると、いつもと変わらない感触が指先に伝わってきた。
紬は本を開き、記憶について問いかけた。
『《知識と生存》、私の記憶が曖昧になっているのは、どうして?』
ページの上に文字が浮かび上がる。
【Answer】
修復の名残りによるものです。
紬は、その言葉をじっと見つめた。
「修復……?」
記憶が曖昧なのは、何かが修復されたからなのだろうか。
けれど、何を修復したというのだろう。
紬は思わず、本を抱えるように持ち直した。
『修復って、こちらに来るときに怪我をしていたってこと?』
すぐに文字が浮かび上がった。
【Answer】
いいえ。物理的な損傷ではありません。
「物理的な損傷じゃない……?」
紬は自分の手を見つめた。
怪我をしたわけではないのなら、いったい何が修復されたのだろう。
身体のどこかに異常があったのだろうか。
それとも、自分では気づかない何かが起きていたのだろうか。
疑問は次々と浮かんできた。
『じゃあ、何が修復されたの? どうして記憶まで曖昧になっているの?』
ページに文字が現れる。
【Answer】
回答不可。
「……え?」
紬は思わず声を漏らした。
これまで、分からないことを尋ねれば、何かしらの答えが返ってきた。
もちろん、すべてを教えてくれるわけではない。それでも、今回のように何も説明されないのは珍しかった。
もう一度、問いかけようかと迷う。
けれど、ページにはそれ以上の文字は浮かばなかった。
まるで、その先へ進むことを許されていないようだった。
紬はしばらく黙って、本の文字を見つめていた。
分からないことが増えてしまった。
けれど、今の自分にとって、いちばん気がかりなのは別のことだった。
このまま、記憶が戻らなかったらどうしよう。
忘れてしまったことがあるのなら、いつか思い出せるのだろうか。
紬はそっと息を吸い、もう一度、本に問いかけた。
『……修復が終われば、記憶は戻るんだね?』
少しの間を置いて、ページに文字が浮かび上がった。
【Answer】
はい。修復が完了すれば、記憶は戻ります。
紬は、その答えをじっと見つめた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか」
思い出せないことがある。
その理由も、何が起きたのかも、今は分からない。
それでも、記憶そのものが失われたわけではないのなら。
いつか戻るのなら。
今は、無理に思い出そうとしなくてもいいのかもしれない。
胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ和らいだ。
紬は本を閉じ、膝の上にそっと置いた。
けれど、ふと、別のことが気になった。
思い出せないのは、本当にこの世界へ来る直前のことだけなのだろうか。
ほかにも、忘れてしまったことがあるのではないだろうか。
そう考えると、少しだけ不安になった。
紬は、今度は意識して、前の世界での暮らしを思い返してみた。
毎日通っていた道。
仕事をしていた時間。
家に帰ってから過ごした夜。
ひとつずつ思い浮かべていく。
すべてが鮮明というわけではないけれど、覚えていることはたくさんあった。
そして、自然と、ある人たちの顔が頭に浮かんだ。
お父さん。
お母さん。
それから、シスター。
紬の胸に、懐かしい温もりが広がった。
両親の笑顔は、今でも覚えている。
優しく目を細めるお父さん。
そっと頬に触れてくれたお母さん。
幼いころ、二人に手を握ってもらったときの温かさ。
大きな手に包まれる安心感と、隣にいるだけで心が落ち着く感覚。
細かな言葉までは思い出せなくても、その温もりは確かに覚えていた。
そして、シスターのことも。
いつも優しく見守ってくれたこと。
困ったときには話を聞いてくれて、嬉しいことがあれば一緒に喜んでくれたこと。
その笑顔を思い浮かべると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
大切な人たちの記憶は、ちゃんと残っている。
顔も、笑顔も、触れた手の温かさも。
何もかも忘れてしまったわけではない。
紬は、自分の手をそっと握った。
そこには、今も温もりがあった。
両親と過ごした時間は、なくなっていない。
シスターに見守られた日々も、自分の中に残っている。
思い出せないことがあっても、大切なものまで失われたわけではないのだ。
「……よかった」
紬は小さくつぶやき、ほっとしたように微笑んだ。
この世界に来てから、毎日が新しいことの連続だった。
知らない植物を見つけ、動物たちと出会い、仲間と一緒に暮らしてきた。
今では、この家にも大切な存在が増えている。
ルーチェも、ルリも、ラタも、カーバンクルも。
そして、今はババロもここにいる。
帰る場所を探しているババロのことを思うと、紬は改めて、自分が大切な人たちと過ごしてきた時間を思い返した。
会えなくなっても、その人たちとの記憶がなくなるわけではない。
それは、きっと、ババロにとっても同じなのだろう。
今は離れていても、ババロには帰りたい家がある。
待っている家族がいる。
だからこそ、いつか必ず帰れるように、できることを探していきたい。
紬は本をそっと撫でた。
『教えてくれてありがとう、《知識と生存》』
返事はなかった。
けれど、紬にはそれで十分だった。
思い出せないことは、まだある。
自分がこの世界へ来る直前に何があったのか。
なぜ、記憶が曖昧になっているのか。
今は、何も分からない。
それでも、いつか記憶が戻るのなら、焦らずに待ってみよう。
紬は本を閉じ、白と青の光へと戻して身体の中へ収めた。
窓の外では、雪が静かに降り続いている。
その向こうには、まだ知らないことがたくさんある。
けれど、今はそれをすべて知ろうとしなくてもいい。
紬は温かな飲み物を手に取り、ゆっくりと口をつけた。
両親の笑顔と、シスターの優しい眼差しを胸に思い浮かべながら、静かに目を閉じた。
大切な記憶は、ここにある。
それだけは、確かだった。
⸻
※知識と生存の本の記憶
世界図書館。
無数の本が、静かな空間に浮かんでいた。
その中の一冊は、遠く離れた世界とつながっていた。
地球から伸びる一本の糸。
それは空に浮かぶ本と結ばれ、さらに、その本を通して紬へとつながっていた。
けれど、ある出来事をきっかけに、その糸は一度ちぎれてしまった。
つながりを失った糸は、やがて修復された。
完全に元の状態へ戻ったわけではない。
修復された場所には、確かにその名残りが残っていた。
それは、傷ついた皮膚が治るときに似ていた。
傷が塞がったあと、その場所を覆うように新しい皮膚ができる。
傷そのものがなくなったわけではなくても、表面には厚い皮が重なり、しばらくの間、以前とは違う状態になる。
紬の記憶にも、それと似たことが起きていた。
記憶が失われたわけではない。
ただ、修復の名残りによって、思い出へと続く道に薄い覆いが生じていた。
今は、その覆いがあるために、紬は一部の記憶へたどり着けない。
けれど、修復が完了すれば、その覆いも自然に薄れていく。
やがて、記憶は元の形を取り戻すだろう。
紬が知らないままの出来事も、まだ残されている。
地球から伸びた糸が、なぜちぎれたのか。
そのとき、世界図書館で何が起きていたのか。
そして、修復された糸が、これから何を紬にもたらすのか。
その答えを知るのは、まだ先のことだった。
お知らせです!新しい小説を書いています。
『日本ごと異世界に来た世界が、なんだか私にはおかしく感じます』
まだ投稿は気まぐれなので、よろしければ読んで見てくださいm(_ _)m本日から投稿します。
さいごまでお読み頂き、ありがとうございます。
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ほんとにあると嬉しいです!
どうぞこれからも紬の物語を楽しんでください!
よろしくお願いします!




