第124話 冬は無理かもー
第124話 冬は無理かもー
窓の向こうでは、雪が静かに降り続いていた。
石垣に囲まれた家の中は暖かく、炉の火がぱちぱちと小さな音を立てている。
紬は温かな飲み物を両手で包みながら、向かいに座るババロを見つめた。
傷はすっかり癒えたものの、家族と離れたままのババロのことが、ずっと気になっていた。
早く家族のもとへ帰してあげたい。
けれど、外には黒い霧の魔物がいるかもしれない。森は雪に覆われ、吹雪も続いている。
今すぐに帰る方法を見つけるのは難しかった。
「ババロさん、ひとつ聞いてもいい?」
「ん? なんだ?」
「ノームの村って、どっちの方にあるのか分かる?」
紬が尋ねると、ババロは少し考え込んだ。
「正確な場所までは分からねえが、方角なら何となく覚えてる」
「本当?」
「ああ。俺がいた村は、だいたいあっちの方だったはずだ」
ババロは手を上げ、ある方向を指し示した。
紬はその方向を思い浮かべる。
そこは、タイタンサーモンの泉がある方角だった。
「そっちって……泉がある方だよね?」
「泉? そこに何かあるのか?」
「うん。前に行ったことがあるの。大きな滝があってね」
紬は以前、ルーチェと一緒に泉を訪れたときのことを思い出した。
川をたどり、森の中を進んだ先にあった、静かな水の場所。
あのときは、傷ついたタイタンサーモンに薬草を渡したのだった。
「そこから村までの道は分かる?」
「いや、そこまではな。森の中で魔物に追われてたから、細かい道順なんて覚えてねえよ。ただ、村があるのは、だいたいあっちの方だったと思う」
ババロは指を下ろし、困ったように頭をかいた。
「帰る方向が分かるだけでも、手がかりにはなると思う。でも、実際に行ってみないと分からないことも多そうだね」
「そうだな……」
ババロは炉の火へ視線を向けた。
家族の顔を思い浮かべているのだろうか。その表情は、少しだけ寂しそうだった。
紬も、何かできることはないかと考えた。
泉までの道なら知っている。けれど、そこから先のことは分からない。
それに、今は冬だった。
雪の積もった森を進み、凍った川を渡り、滝のある場所まで向かうのは簡単ではない。
以前は雪が降る前でさえ、森の中を歩くのに苦労した。
今の季節に同じ道を進めば、危険はずっと大きくなるだろう。
「……やっぱり、今すぐ行くのは難しいかな」
「冬の森じゃ仕方ねえな」
ババロはあっさりと答えた。
「無理に動いて、また誰かに助けてもらうことになったら意味がねえ。道が危ないなら、待つしかないだろ」
「……うん」
紬はうなずいた。
ババロだって、家族に会いたいはずだ。
それでも、今は無理をしない方がいいと分かっている。
帰る方法が見つからないことと、帰る方法がないことは違う。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
そのとき、紬の肩の近くを青い光が横切った。
小さな羽音とともに、ルリがふわりと飛んでくる。
【なあに?】
ルリは紬の顔をのぞき込み、首を傾げた。
紬はそっと手を差し出した。ルリがその指先にちょこんと腰を下ろす。
「ルリ、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
『なあに?』
「前に、洞窟へ行ったことがあったでしょう?」
その言葉に、ルリの羽が小さく揺れた。
「白い蝶々と一緒に、私たちを案内してくれたよね。あの洞窟のことなんだけど……」
紬は、以前の探検を思い返した。
あのときは、落ちた場所から洞窟へ入り、ルーチェと一緒に暗い道を進んだ。
光源草や地下水を見つけ、滝の裏側へとたどり着いた。
けれど、無事に外へ出ることばかり考えていたから、洞窟の中をじっくり調べたわけではない。
分かれ道があったのか、ほかにつながる道があったのか。
今となっては、はっきりと思い出せなかった。
「実はね、ババロさんが家族のところへ帰るために、何か手がかりがないかなって考えているの」
紬は、ババロの方をちらりと見た。
「村があるのは、タイタンサーモンの泉がある方角みたいなの。だから、もう一度あの洞窟を調べたら、何か分かるかもしれないと思って」
『どうくつ?』
「うん。ルリは、あの洞窟のことを何か覚えてる?」
ルリは空中へふわりと浮かび上がり、しばらく考えるように羽を動かした。
以前、白い蝶々と一緒に紬たちを案内していたことは覚えているようだった。
洞窟には、ルリの友達のフェアリーも暮らしている。
もしかしたら、紬たちが通らなかった場所を知っているかもしれない。
けれど、ルリが洞窟のすべてを知っているわけではない。
『ともだち、いる』
「うん。そうだったね」
紬は微笑んだ。
「その子に会えたら、何か分かるかもしれないね」
ルリは小さな手を胸の前で動かし、それから紬の顔を見上げた。
『いく?』
「行ってみたいんだけど……」
紬は窓の外へ目を向けた。
雪はまだ降り続いている。
「今はちょっと難しいかなぁ」
泉までの道のりを思い浮かべる。
雪に覆われた森を進み、凍った川を越えなければならない。滝の近くは足場も悪いだろうし、吹雪の中では道を見失う危険もある。
それに、黒い霧の魔物がどこにいるのかも分からない。
ルーチェがいてくれるとしても、無理をして出かけるわけにはいかなかった。
「もう少し暖かくなって、雪が落ち着いてからなら行けるかもしれないね」
『……あとで?』
「うん。冬の終わりが近づいたら、もう一度考えてみよう」
ルリは紬の指先に降り立つと、小さな羽をゆっくりと動かした。
すぐに出かけられないことが分かっても、不満そうな様子はない。
むしろ、友達のいる洞窟へまた行けるかもしれないことに、少し興味を持ったようにも見えた。
紬はルーチェの方へ顔を向けた。
ルーチェは炉のそばで羽を休めていたが、紬の視線に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
『ルーチェも、また一緒に行こうね』
ルーチェは答える代わりに、虹色の羽を小さく揺らした。
紬には、その仕草の意味までは分からない。
けれど、以前も一緒に洞窟を進んでくれたルーチェがそばにいてくれることは、心強かった。
「その洞窟に行けば、何か分かるかもしれねえってことか」
話を聞いていたババロが口を開いた。
「うん。でも、まだ何も分からないよ。別の道があるかもしれないし、何も見つからないかもしれない」
「それでも、手がかりがあるなら十分だ。今は無理でも、行けるようになったら調べてみればいい」
ババロはそう言って、温かな飲み物を口に運んだ。
「冬の森は危ねえからな。焦っても仕方ねえ」
「……そうだね」
紬はほっとしたように笑った。
ババロが帰りたいと思っていることは、よく分かっている。
だからこそ、少しでも早く何かしてあげたいと思っていた。
けれど、無理をして危険に飛び込むことが、必ずしも良い結果につながるとは限らない。
今は、この家でできることをしながら、春が近づくのを待つしかなさそうだった。
そのとき、ババロがふと思い出したように紬を見た。
「そういえば、紬はここにいつから住んでるんだ?」
「え?」
突然の質問に、紬は目を瞬かせた。
「いつからって……夏からだよ!」
「夏か。その前はどこに住んでたんだ?」
「えっと……」
紬は何気なく、以前の暮らしを思い返した。
仕事をして、終わったら家に帰って。
いつもと変わらない毎日。
そう、普通に仕事をして、家に帰って……。
「それから……」
紬は言葉を止めた。
「……あれ?」
何かが引っかかった。
仕事をしていたことも、家に帰っていたことも覚えている。
けれど、そのあと何をしていたのか、うまく思い出せなかった。
何かをしていたはずだ。
いつもどおりに過ごしていたはずなのに。
どうしてだろう。
「どうした?」
ババロが不思議そうに尋ねた。
「ううん……。仕事が終わって家に帰って、それから……何をしてたんだっけ?」
紬は首を傾げた。
思い出そうとすればするほど、記憶が曖昧になっていく。
元の世界で暮らしていたことは覚えている。
仕事をしていたことも、帰る家があったことも。
なのに、異世界へ来る前のことを考えると、どこかに抜け落ちた部分があるような気がした。
「疲れてたんじゃねえのか?」
ババロは特に気にした様子もなく言った。
「そうなのかな……」
紬は小さくつぶやいた。
確かに、疲れていたのかもしれない。
けれど、それだけなのだろうか。
もう一度思い出そうとしてみたが、やはり答えは浮かんでこなかった。
今まで、そんなことを気にしたことはなかった。
森で暮らすために覚えることはたくさんあったし、毎日やることも尽きなかった。
だから、過去を振り返る余裕がなかったのかもしれない。
それでも、一度気づいてしまうと、少しだけ気になった。
自分は、こちらへ来る直前に何をしていたのだろう。
どうして、この世界に来ることになったのだろう。
考えても、今は何も分からない。
紬は小さく息を吐き、手のひらを見つめた。
その手の中には、いつもの温もりがある。
隣にはルリがいて、少し離れたところにはルーチェがいる。
そして、目の前には帰る方法を探しているババロがいた。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今すぐにすべてを解き明かさなければならないわけではない。
まずは、ババロが家族のもとへ帰るためにできることを考えよう。
洞窟へ行けるのは、もう少し先になるかもしれない。
冬が終わりに近づけば、今よりも安全に森を進めるようになるだろう。
それまでは、ここでできることを続けていけばいい。
紬はそう考え、窓の向こうへ目を向けた。
雪はまだ、静かに降り続いていた。




