第123話 帰る道と、消えない不安
第123話 帰る道と、消えない不安
ババロが目を覚ましてから、少し時間が経った。
温かなスープを飲み終えたババロは、空になった器を両手で包むように持ちながら、しばらく考え込んでいた。
その表情からは、身体の傷が癒えたことへの安堵だけでなく、まだ解決していない問題への不安も感じられた。
無理もない。
彼には、帰りを待っている家族がいる。
妻のヨナ。息子のバルバロ。そして、娘のヨリ。
今ごろ、家族はどうしているだろう。
自分が帰らないことを心配しているに違いない。
そう考えているのか、ババロは器から顔を上げると、紬へと視線を向けた。
「……紬、ひとつ聞きたいことがある」
「うん。なに?」
「ここから外へ出る道は、ほかにもあるのか?」
その問いに、紬は少し考えた。
家の周囲には石垣があり、外へ出るには、その内側から出入口へ向かう必要がある。
けれど、石垣の外に広がる森については、紬自身もまだ知らないことが多かった。
家の近くで過ごす時間は長くなったが、石垣の内側でさえ、すべてを調べ尽くしたわけではない。
まして、冬の森は夏や秋とは様子が違う。
雪が積もれば、見慣れた場所でも景色が変わる。普段なら簡単に通れる道も、雪に埋もれてしまうかもしれない。
「外へ出られそうな道は、今のところ分からないの。石垣が周りを囲んでいるから、ほかに出口らしい場所も見つけていないんだ」
「そうか……」
ババロは小さく息を吐いた。
紬の言葉に落胆したというより、状況を整理しようとしているようだった。
「でも、私も全部を調べたわけじゃないから。どこかに道がある可能性は、まだあると思う」
「なるほどな。分からないことを、あるともないとも言い切れないってことか」
「うん」
紬が頷くと、ババロは器をそっと机の上に置いた。
「なら、まずは外の様子を知る必要があるな」
その言葉に、紬は窓のほうへ目を向けた。
窓の向こうには、冬の森が広がっている。
けれど、今はいつもの森とは違う。
あの黒い霧をまとった魔物が、まだ近くにいるかもしれないのだ。
姿が見えなくなったからといって、遠くへ去ったとは限らない。
どこかに潜んでいる可能性もある。
それに、冬の天候も気がかりだった。
雪が降り続けば、森の中を歩くことさえ難しくなる。風が強まれば、目の前の景色も見えにくくなるだろう。
今、外がどんな状態なのか。
魔物がどこにいるのか。
そして、いつまで危険な状態が続くのか。
紬には、どれも分からなかった。
「今は、外へ出ないほうがいいと思う」
「……ああ。俺もそう思うが、気持ちがな焦る」
ババロは窓の向こうを見つめた。
「ここにいれば、少なくとも今は安全なんだろう?」
「うん。石垣が守ってくれているから、多分」
あの魔物が石垣に迫ってきたときのことを、紬は思い出した。
黒い霧が雪の上を這うように広がり、巨大な影がゆっくりと近づいてきた。
あのとき、石垣の内側にいた紬は、ただその様子を見つめることしかできなかった。
もし、石垣がなかったら。
もし、あの魔物が家の中まで入り込んできたら。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
今になって思えば、あのときの自分は、目の前に迫る恐怖を十分に理解できていなかったのかもしれない。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
黒い霧の向こうに見えたもの。
石垣へと迫ってくる、あの大きな影。
その姿を思い出すと、身体の奥に残っていた緊張が、再び蘇るようだった。
紬は、膝の上でそっと手を握った。
怖くなかったわけではない。
あのときも、今も。
ただ、目の前で起きていることに向き合うしかなかった。
そして、自分ひとりではどうにもならなかったことも、よく分かっていた。
ルーチェが光を放ち、アルブレーヴが魔物を退けてくれた。
ふたりがいてくれたからこそ、紬は無事でいられたのだ。
もし、どちらもいなかったら。
今、自分はこうして温かな家の中に座っていられただろうか。
考えたくはなかった。
紬は小さく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
助かったことへの安堵と、もう一度あの魔物が現れるかもしれないという不安。
ふたつの気持ちが、胸の中で混ざり合っていた。
「……紬?」
黙り込んだ紬を気にして、ババロが声をかけた。
「あ、ごめんね。ちょっと、あの魔物のことを思い出してたの」
「そうか……」
ババロの表情も、少しだけ曇った。
「俺も、あいつのことは忘れられそうにない」
彼は自分の手を見つめた。
紬が見つけたとき、ババロの身体は傷だらけだった。
魔物から逃げ続け、力尽きかけていた彼の姿を思い出す。
もし、あのとき間に合わなかったら。
紬は、それ以上考えるのをやめた。
今は、助けることができた。
それだけは、確かなことだった。
しばらく沈黙が続いたあと、ババロが口を開いた。
「……ひとつ、気になっていることがある」
「気になること?」
「ああ。あの魔物のことだ」
ババロは、少し眉を寄せた。
「俺は、あいつから逃げていた。けど……今になって考えると、ただ俺を襲おうとしていただけじゃなかったのかもしれない」
紬は、ババロの顔を見た。
「……あの魔物は、俺にこの光の場所を案内させたのかもしれない」
「案内……?」
「そうだ。俺が逃げれば、あいつは追ってくる。俺がここへ向かえば、あいつもここへ来ることになる」
ババロは、言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「もちろん、俺を追いかけていただけって可能性もある。あいつが何を考えていたのか、俺には分からない。ただ……」
そこで一度、言葉を切る。
「この場所には、何か特別なものがあるんじゃないかと思ったんだ」
紬は、すぐには答えられなかった。
特別なもの。
この場所にあるものといえば、家や石垣、森の植物、そして、いつもそばにいてくれる仲間たち。
けれど、ババロが言いたいのは、そうしたものだけではないのだろう。
「……もしかすると、目的は世界樹なのかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、紬は思わず息を止めた。
「世界樹……?」
「ああ。あくまで俺の考えだ。確かな証拠があるわけじゃない」
ババロは、紬の反応を確かめるように見つめた。
「だが、もしそうなら……あの魔物は、世界樹をなくそうとしているのかもしれない」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
紬は、世界樹という言葉を心の中で繰り返した。
世界樹。
その名前が何を意味するのか、紬にはまだ分からない。
ただ、ババロが簡単に口にした言葉ではないことだけは伝わってきた。
「……どうして、そう思ったの?」
「理由は、うまく説明できない。俺が知っているのは、あの魔物に追われたことと、ここへたどり着いたことだけだ」
ババロは首を横に振った。
「だから、決めつけるつもりはない。別の理由があるのかもしれないし、俺の考え違いかもしれない」
その言葉に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。
まだ、何も分かっていない。
あの魔物が何者なのか。
なぜババロを追っていたのか。
どうして、この場所までやってきたのか。
そして、世界樹という言葉が、今の出来事と本当に関係しているのか。
どれも、答えは出ていなかった。
けれど、分からないからといって、考えなくていいわけではない。
もしババロの推測が正しければ、あの魔物が再びここへ現れる可能性もある。
そうなれば、今までと同じように過ごせるとは限らない。
紬は、そっと両手を握りしめた。
「…また来るのかな、あの魔物」
思わずこぼれた言葉に、ババロはすぐには答えなかった。
「分からない。だが、来ないと決まったわけでもない、それにそう簡単にはいかんだろうな」
正直な答えだった。
安心させるために、根拠のないことを言うつもりはないのだろう。
「だからこそ、無理に外へ出るのはやめたほうがいいなとは思う。天気も分からないし、あいつがどこにいるのかも分からないからな」
紬は頷いた。
ババロを村へ帰してあげたい。
家族が待っている場所へ、無事に送り届けてあげたい。
けれど、そのために危険を冒して、また誰かが傷ついてしまったら。
それでは、意味がない。
紬は、今できることを考えた。
外の状況が分からない以上、むやみに動くことはできない。
それなら、森の様子をよく知っている存在に相談するのはどうだろう。
紬の頭に浮かんだのは、白い身体に二本の角を持つ、あの鹿の姿だった。
アルブレーヴ。
森の主である彼なら、森のどこに危険があるのか、何か知っているかもしれない。
それに、もしババロを村まで送り届けることができるのなら、彼の力を借りられないだろうか。
もちろん、簡単に頼めることではない。
アルブレーヴにも、森の主としての役目があるはずだ。
危険な魔物がいるのなら、なおさら無理をさせるわけにはいかない。
それでも、ほかに方法が見つからなければ、相談してみる価値はあるかもしれない。
「…アルブレーヴに、聞いてみようかな」
「森の主か?」
「うん。森のことなら、私よりもずっと詳しいと思うから。ババロを村まで送り届ける方法も、何か知っているかもしれない」
「なるほどな。確かに、森を知り尽くしている相手なら、頼りになるかもしれない」
ババロは頷いたものの、すぐに表情を引き締めた。
「だが、森の主に頼めば必ず大丈夫だと考えるのは危険だと思うぞ、魔物がどこにいるのか分からない以上、慎重に動いたほうがいい俺たちは武器も無いからな。」
「そうだね。まずは、どうしたら安全に帰れるのか考えないと」
紬は、もう一度窓の外へ目を向けた。
雪に覆われた森は、静かだった。
風の音が遠くで響き、木々の枝に積もった雪が、ときおり音もなく落ちていく。
何も起きていないように見える。
けれど、その静けさの向こうに、あの黒い霧が潜んでいるかもしれない。
そう思うと、窓の外を眺めているだけなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
それでも、ここで立ち止まっているだけでは、何も変わらない。
ババロが家族のもとへ帰れる道を探さなければ。
ほかに出口がないのなら、別の方法を考える必要がある。
森の中を通る道。
石垣の外へ出られる場所。
あるいは、今まで気づかなかった抜け道。
紬は、これまでこの場所で過ごしてきた日々を思い返した。
家を整え、森を歩き、食べられる植物を探し、動物たちと少しずつ仲良くなってきた。
けれど、まだ知らない場所も、知らないこともたくさんある。
そういえば――。
ふと、紬の頭に、以前訪れた洞窟の記憶が浮かんだ。
薪を集めていたとき、落ち葉に隠れた穴に落ちてしまったこと。
ルーチェに助けられ、薄暗い洞窟の中を進みながら、光源草や地下水、見たことのない植物を見つけたこと。
そして、滝の先で出会ったタイタンサーモンの女王に、岸まで運んでもらったこと。
あのときは、無事に帰ることだけで精いっぱいだった。
後日、落ちた場所を確かめに行ったけれど、そこにあったはずの穴は跡形もなく消えていた。落ち葉をどけ、地面を調べても、入口らしいものは見つからなかった。
あの洞窟へ、もう一度行くことはできるのだろうか。
そもそも、あの洞窟がどこにつながっていたのか、紬には分かっていない。地上へ戻れたのは確かだけれど、別の場所へ抜けられる道があったのかどうかも分からなかった。
けれど――。
もし、あの洞窟に、まだ自分の知らない道が続いていたとしたら。
ババロが家族のもとへ帰るための手がかりになる可能性も、あるのではないだろうか。
もちろん、今すぐ確かめに行けるわけではない。
外は吹雪いているし、黒い霧の魔物がどこにいるのかも分からない。入口さえ見つかるかどうか、確かなことは何ひとつなかった。
それでも、紬はその記憶を心に留めた。
まだ、帰る道が見つかったわけではない。
けれど、以前の自分が通った場所に、何か手がかりが残されているかもしれない。
……あの地下洞窟……
脳裏に浮かんだ風景、紬は考え込んだ。
あのときは、ただ帰ることしか考えていなかった。
けれど今は、もう一度あの場所について考える理由ができたのだった。




