第121話 無知
第121話 無知
家に戻ると、紬は暖炉に薪を足し、温めておいたお茶をテーブルに並べた。
背負いカゴから降りたババロも、椅子に腰を下ろして一息つく。
先ほど見た世界樹の姿が、まだ頭から離れなかった。
世界樹の聖水を毎日のように飲み、料理にも薬作りにも使っている少女。しかも、世界樹の根元で育つネギから不思議な光が生まれていることにも、さほど驚いていなかった。
紬にとっては、どれも普段の暮らしの一部なのだろう。
だが、この世界で長く生きてきたババロからすれば、驚くことばかりだった。
「……なあ、紬」
「なに?」
「お前、この世界のことをどれくらい知ってるんだ?」
紬はコップを両手で持ったまま、首を傾げた。
「うーん……知ってることもあるけど、知らないこともいっぱいあるよ?」
「だろうな……」
ババロは小さく息を吐いた。
「よし。少し話をしよう。これからもこの森で暮らしていくなら、知っておいたほうがいいことがある」
「この世界のこと?」
「ああ。知らないこと自体は悪くない。だが、知らないまま行動すると、危険なこともあるからな」
紬はコップを置き、真剣な顔で頷いた。
「うん。わかった!」
その素直な返事に、ババロは少し表情を和らげた。
「まずは、この世界にいる種族の話からだ」
ババロは指を一本立てた。
「人間以外にも、獣人やエルフ、ドワーフ、俺たちノーム、それに妖精がいる。ほかにも、たくさんの種族が暮らしているんだ」
「獣人に、エルフに、ドワーフ……」
紬はひとつずつ、頭の中で繰り返した。
「みんな、人間とは違うの?」
「姿も、暮らし方も、それぞれ違う。得意なことだって同じじゃない。種族が違えば、考え方や習慣も違うことがある」
「そっか……」
紬は頷いた。
この森で暮らすようになってから、動物や妖精、ノームなど、さまざまな存在と出会ってきた。
それでも、自分が知らない種族がまだまだいるのだと思うと、不思議な気持ちになった。
「いつか、ほかの種族にも会えるかな?」
「出会う機会はあるだろうな。ただし、相手がどんな種族でも、最初から自分と同じ考え方をすると思わないことだ」
「うん。覚えておくね!」
ババロは満足そうに頷き、次の話へ移った。
「次は魔物についてだ」
その言葉に、紬の表情が少し引き締まる。
「魔物は、基本的に魔物以外の生き物を襲う。ずる賢い奴も多い。力で押し切るだけじゃなく、相手の隙を狙ったり、逃げ道を塞いだりすることもあるんだ」
「ずる賢い……」
「ああ。魔物にも、種類や個体によって違いがある。強さも、知恵も、性格もな。邪悪さだって同じじゃない」
ババロは、紬の目を見た。
「俺を襲った魔物がいい例だ」
紬は、雪の中でババロを見つけたときのことを思い出した。
黒い霧に包まれた、異様な魔物。
あのとき、ババロはひどい傷を負っていた。
「俺は、あいつに追われていた。逃げても追ってくるし、まともに立ち向かえる相手でもなかった。最後には、ああして傷を負わされたんだ」
「……そんなに強かったの?」
「ああ。強さだけじゃない。あの黒い霧も厄介だった。何をしてくるかわからない相手に、むやみに近づくのは危険だ」
ババロは腕を組み、少し考えるように間を置いた。
「それに、見た目だけで安全かどうかを判断するな。小さくても危険な能力を持っている魔物はいるし、弱そうに見えても油断できない相手はいる」
「うん……」
「知らない魔物を見つけても、むやみに近づくな。知っている魔物でも、普段と違う様子なら警戒しろ」
「わかった」
「それと、森で何かおかしなことが起きたら、自分だけで解決しようとするな。逃げることも大事だし、誰かに相談することも大事だ」
紬は真剣に頷いた。
「うん。危ないと思ったら、ちゃんと離れるね」
「ああ。それでいい」
ババロの声が、少しだけ柔らかくなった。
「知識を持つのはいいことだ。だが、知っていることと、実際に対処できることは違うからな」
紬はその言葉を、胸に刻むように頷いた。
これまで《知識と生存》に助けられたことは何度もある。
けれど、本に書かれていることだけですべてに対処できるわけではない。
実際に経験した者から教わることにも、大切な意味があるのだと感じた。
「……次は、この森の話をしよう」
ババロは窓の外へ目を向けた。
「この森には、主と呼ばれる存在がいる」
「主?」
「そうだ。森の主、空の主、水の主……それぞれに関わる場所を代表するような、特別な存在だ」
紬は、アルブレーヴやルーチェ、そして水の主であるタイタンサーモンのことを思い浮かべた。
「アルブレーヴも、森の主なんだよね?」
「ああ。お前はすでに森の主と空の主と親しくしているんだったな」
「うん!」
紬は嬉しそうに笑った。
ババロはその顔を見て、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「……お前は本当に、いろいろとすごいことを当たり前にしてるな」
「そうかな?」
「そうだよ」
ババロはきっぱりと言った。
「主は、普通の動物や魔物とは違う力や役割を持つことがある。だが、主がいるからといって、森のすべてが安全になるわけじゃない。森には危険な場所もあるし、主の力が届かないところだってある」
「そっか……」
紬は森の奥へと思いを馳せた。
いつも歩く場所でも、まだ知らないことがたくさんある。
「だから、慣れた場所だからといって油断するな。森の様子をよく見て、少しでもおかしいと思ったら無理をしないことだ」
「うん。気をつけるね!」
ババロは頷き、今度は少し声を落とした。
「それから、世界樹についても覚えておいたほうがいい」
紬は顔を上げた。
「世界樹?」
「ああ。世界樹は、普通の大木とは違う特別な存在だ。世界の各地にあるが、どこにでも見つかるようなものじゃない。人目につかない場所に存在していることもある」
紬は、今朝見たアルセリアの大きな幹を思い出した。
あの木が、そんなにも特別な存在だったとは。
「それに、世界樹が魔物に狙われることもある」
「えっ……魔物に?」
「ああ。世界樹だからといって、必ず安全だとは限らないんだ」
ババロは真剣な表情で続けた。
「世界樹の近くで暮らしているなら、そのことは覚えておけ。何か異変があったときには、いつも以上に注意するんだ」
「うん、わかった」
紬は素直に頷いた。
ただ、今朝見たネギの光と、少しずつ緑を取り戻している世界樹の葉のことは、まだうまく結びつけられなかった。
どうしてネギが光るのか。
どうして世界樹が回復しているのか。
わからないことは、まだたくさんある。
けれど、今はそれを無理に解き明かそうとするよりも、まず自分が暮らしている世界について知ることが大切なのだろう。
「ババロ、教えてくれてありがとう!」
紬が笑顔で言うと、ババロは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「礼を言われるほどのことじゃない。お前が危ない目に遭わないように、知っておいてほしかっただけだ」
「うん!」
紬は、もう一度しっかりと頷いた。
これからも、この森で暮らしていくために。
知らないことを知り、わからないことを学んでいこう。
《知識と生存》の本だけでは得られない知識も、きっとある。
そして、それを教えてくれる人がいる。
紬は温かなお茶をひと口飲み、ほっと息をついた。
冬の森は、今日も静かだった。
けれど、その静けさの向こうには、まだ知らない世界が広がっている。




