第120話 ネギと世界樹
第120話 ネギと世界樹
朝の光が、窓から差し込んでいた。
冬の森は雪に覆われ、外から聞こえる音も少ない。家の中には、暖炉の薪がはぜる音と、朝食の支度をする小さな物音だけが響いていた。
紬は鍋の中を覗き込み、木べらでゆっくりとかき混ぜる。
今日は、昨日のスープに少し手を加えて温め直していた。具材は少しずつ違っても、温かい汁物があるだけで、寒い朝はずいぶん過ごしやすくなる。
テーブルでは、ババロが両手でブルーバンブーのコップを持ち、温かな水を飲んでいた。
「……ふぅ。やっぱり、この水は美味いな」
「そう? よかった!」
紬は鍋から顔を上げて笑った。
「そういえば紬。この水は、どこから汲んできてるんだ?」
「すぐ近くの大きな木のところだよ」
「大きな木?」
「うん。家から少し歩いたところにあるの。そこのお水を飲んでるんだよ」
紬は当たり前のように答え、スープを器によそった。
「飲むだけじゃなくて、お料理にも使うし、薬を作るときにも使うよ。お肌もピチピチになるんだよ!」
「……肌がピチピチ?」
ババロはコップを口元で止めた。
「そうなの。お水がきれいだからかな?」
「いや、きれいだからって、そんなことが……」
言いかけて、ババロは口を閉じた。
この家で飲む水は、確かに普通の水とは違っていた。口当たりが柔らかく、飲んだあとには体の奥まで染み渡るような心地よさがある。
だが、紬はそれを特別なものだとは思っていないらしい。
「……その木、俺も見に行っていいか?」
「もちろん! でも、雪が積もってるから、歩くのは大変かもしれないね」
紬は窓の外を見た。
雪の上を歩くために、以前作ったかんじきがある。これを履けば、雪に足を取られにくくなるはずだ。
「ババロは、まだ長い距離を歩くのは大変だよね?」
「まあ、完全に元通りってわけじゃないからな」
「じゃあ、背負いカゴに入ってもらおうかな。あれなら一緒に行けるよ!」
「……カゴ?」
「うん。大丈夫、ちゃんと背負えるから!」
紬はにこりと笑った。
ババロは少しだけ考えたあと、苦笑する。
「わかった。頼む」
こうして朝食を終えた二人は、世界樹を見に行くことになった。
◇
紬は厚手の上着を着込み、足にはかんじきを装着した。
背負いカゴの中には、毛布を敷いてある。ババロが窮屈にならないように位置を調整し、落ちないようにしっかりと固定した。
「苦しくない?」
「ああ、問題ない。思ったより居心地も悪くないな」
「よかった!」
紬はカゴを背負い、玄関の扉を開けた。
冷たい空気が頬に触れる。
外は一面の銀世界だった。家の周囲を囲む石垣には雪が積もり、枝の先には白い雪がふんわりと乗っている。
紬は雪を踏みしめながら、ゆっくりと歩き始めた。
かんじきのおかげで、足が深く沈み込むことはない。時折、背中のババロに歩く速さを確認しながら、目的の場所へ向かっていく。
「寒くない?」
「大丈夫だ。こうしていると、普段とは違う景色が見えるな」
「そう?」
「ああ。雪が積もると、森の様子もずいぶん変わるもんだ」
ババロは背負いカゴから顔を出し、周囲の木々を眺めていた。
しばらく歩くと、雪の向こうに大きな影が見えてきた。
紬がいつも水を汲んでいる場所。
そして、この森に来てからずっと見守ってくれている、大きな木。
紬はその根元へと近づいていく。
その瞬間だった。
「……っ!?」
ババロの体が、背負いカゴの中で大きく揺れた。
「わっ! ババロ、大丈夫!?」
紬は慌てて立ち止まり、肩越しに振り返る。
「お、おい……紬……!」
ババロは目を見開き、目の前にそびえる大木を見上げていた。
太い幹は天へと伸び、広がる枝は冬の空を覆っている。
その姿を見間違えるはずがなかった。
「世界樹っ!」
思わず叫んだババロは、あまりの驚きに背負いカゴの中でふらついた。
「えっ? うん。大きいでしょ?」
「大きいでしょ、じゃないだろ!」
ババロは思わず声を張り上げた。
「これが……世界樹だぞ!?」
「うん?」
紬は首を傾げる。
「世界樹って、そんなにすごい木なの?」
「そんなに、だと……?」
ババロは額に手を当てた。
どうやら、この少女は自分が何を見ているのか、まるでわかっていないらしい。
いや、それよりも。
「……待て。じゃあ、俺が飲んでいた水は……」
ババロは世界樹の根元にある水場へ視線を向けた。
透き通った水が、静かにたたえられている。
そこから水を汲み、毎日のように飲んでいた。
紬が料理にも使い、薬作りにも使っていると言っていた水。
ババロの顔から、すっと血の気が引いた。
「……俺が飲んでいたのは、世界樹の聖水!?」
「えっ? そうなの?」
「そうなの、じゃない!」
ババロは紬を振り返った。
「おい! 紬、お前、ずっとこれを飲んでたのか!?」
「うん。毎日飲んでるよ?」
「毎日だと!?」
「お料理にも使うし、薬を作るときにも使ってるよ。お肌がピチピチになるんだよね!」
「肌がピチピチ……って、そういう問題じゃないだろ!」
ババロは頭を抱えた。
世界樹の聖水。
それは、そう簡単に口にできるようなものではない。ましてや、毎日の飲み水にしたり、料理や薬作りに惜しげもなく使ったりするなど、普通では考えられないことだった。
それをこの少女は、まるで井戸水でも使うかのように扱っている。
「……お前、自分がどれだけすごいものを使ってるのか、わかってるのか?」
「ええっ? だって、きれいなお水だよ?」
「はぁ……」
ババロは深く息を吐いた。
「そりゃ美味いはずだ……」
改めて水場を眺め、それから世界樹を見上げる。
そのとき、ババロはふと違和感を覚えた。
世界樹の葉は、冬の森にあっても鮮やかな緑を保っているものだ。
だが、目の前の木には、黄色や橙色に変わった葉が多く残っていた。中には、枯れかけているように見えるものもある。
「……しかし、葉が黄色くなっているな。枯れかけていたのか?」
ババロは不思議そうに枝葉を見つめた。
世界樹が弱っていたという話は聞いたことがある。だが、これほどの状態になっていたとは思わなかった。
紬もつられて上を見上げる。
「そうなの。前はもっと黄色い葉が多かったんだよ」
「前は?」
「うん。最近、少しずつ緑色に戻ってきてるの」
ババロが何かを尋ねようとした、そのときだった。
【ギョエ】
背後から、聞き慣れた鳴き声がした。
振り返ると、ルーチェが雪の上をゆっくりと歩いてくる。
「ルーチェ!」
紬が嬉しそうに声をかけると、ルーチェは二人のそばまでやってきた。
ババロはルーチェを見て、目を瞬かせる。
「お前は……」
【私はここから生まれたわこの世界樹の名はアルセリア、私の母よ】
ルーチェはそう言って、大きな幹を見上げた。
【アルセリアは、私が生まれてから少しずつ悪くなっていったの。でも、夏頃から回復し始めたのよ】
「夏頃から……?」
ババロはルーチェの言葉を繰り返した。
【ええ。紬がここの水を飲み始めた頃からね】
その言葉に、ババロの視線が紬へと向く。
「……紬、お前、ここに来てから何か変わったことはないか?」
「えっ? うーん……」
紬は少し考え、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ネギをここにも植えたんだよね〜、ネギがよく育つようになったよ!」
「……ネギ?」
ババロとルーチェの視線が、そろって世界樹の根元へと向いた。
水場の周囲には、青々としたネギが育っている。
雪の積もる季節だというのに、葉はみずみずしく、元気よく空へと伸びていた。
紬は嬉しそうにネギを眺めた。
「このネギね、前よりずっと元気なんだよ。家の周りにもたくさん育ってくれるから、お料理にも使えて助かってるの!」
そのとき。
ネギの葉先から、小さな光がふわりと舞い上がった。
きらきらと輝く光の粒は、まるで細かな粉を空に散らしたようだった。
風に乗っているわけでもないのに、光はゆっくりと上昇していく。
そして、世界樹の枝葉へと降り注いだ。
光を受けた葉が、かすかに揺れる。
黄色く変わっていた葉の一部が、ほんの少しずつ、緑色を取り戻していった。
ババロは息を呑んだ。
ルーチェもまた、黙ってその様子を見つめている。
紬だけが、不思議そうに首を傾げていた。
「……あれ? 今、光った?」
彼女はネギに顔を近づける。
「わあ、きれい!」
まるで、朝露が光っているのを見つけたときのような声だった。
世界樹に何が起きているのか。
なぜネギから光が生まれ、葉が緑を取り戻しているのか。
その理由を、紬はまだ知らない。
ただ、目の前で育つネギが元気でいてくれることが、嬉しかった。
そしてババロは、世界樹とネギを交互に見つめながら、しばらく言葉を失っていた。




