第117話 question&answer
第117話 question&answer
目の前で開かれた本を、紬はそっと見つめていた。
《知識と生存》。
これまで何度も助けられてきた、不思議な本。
つい先ほど、その本は紬の身体の中へと溶け込むように消え、魔力を集めることで再び姿を現した。
その変化に驚きながらも、紬は本を手に、隣にいるババロへ顔を向けた。
「ババロ、私の魔力って、これからどうすれば使えるようになるんでしょうか?」
口にしてから、紬はふと首をかしげた。
今の言葉は、いつもよりすんなりと口から出てきた気がする。
「……ん?」
ババロも、不思議そうに紬を見つめていた。
「お前さん、今の話し方……」
「えっ? 何か変でしたか?」
「いや、変っつうか……前よりずいぶん言葉が上手くなってねぇか?」
ババロは眉を寄せ、紬の顔をじっと見た。
「前は、言葉を探しながら話してただろ。それが今は、ずいぶん自然に話せてる」
「あ……」
言われてみれば、確かにそうだった。
これまでは、伝えたいことがあっても、どう言葉にすればいいのか分からず、短い言葉で何とか伝えていた。
けれど、今は違う。
自分の考えを、以前よりずっと自然に言葉にできている。
紬は驚きながら、自分の口元にそっと手を当てた。
「本当だ……。私、普通に話せてる」
「お前さん、それも自分の力か?」
ババロの問いに、紬は手元の本へ目を落とした。
もしかすると、さっき本が身体に溶け込んだことと関係があるのだろうか。
確かめてみたい。
紬は本を開き、ページを見つめた。
『ねえ、言葉が話せるようになったのは、あなたのおかげ?』
すると、白いページに文字が浮かび上がった。
【回答】
回答機能の解放によるものです。
言語に関する知識が一定量に達したことで、語学能力が向上しました。
「回答機能……?」
紬は、記された文字をゆっくり読み返した。
これまでに出会った人や生き物との会話。少しずつ覚えてきた、この世界の言葉。
それらが積み重なったことで、今までよりも自然に話せるようになったらしい。
「そっか……。今まで覚えてきた言葉が、ちゃんと使えるようになったんだ」
「本には何て書いてあったんだ?」
ババロに尋ねられ、紬は顔を上げた。
「今までに覚えた言葉の知識が増えたから、もっと上手に話せるようになったみたいです」
「なるほどな。覚えたことが身についたってわけか」
ババロは納得したようにうなずいた。
「便利な力だな。これなら、これからの話もずいぶん楽になる」
「はい! 私も、ババロともっといろんなお話ができそうです」
そう言って笑う紬に、ババロも口元を緩めた。
言葉が通じるということ。
自分の思いを伝え、相手の話を理解できるということ。
それは、これからこの世界で生きていく紬にとって、大きな一歩だった。
紬は改めて本に目を落とした。
せっかく質問に答えてくれるのなら、もうひとつ聞いておきたい。
『私の魔力は、どうすれば使えるようになるの?』
ページの文字が消え、新しい回答が記される。
【回答】
青いフェアリー、および光魔法を扱う者に師事することを推奨します。
「青いフェアリー……ルリのことかな?」
紬が顔を上げると、近くを飛んでいた小さな青い妖精が、ひらりと目の前までやってきた。
『ツムギ、わたし?』
『うん。たぶん、ルリのことだと思う』
紬は本の文字を指さした。
『でも、光魔法を扱う者って……誰だろう?』
ルーチェやアルブレーヴの姿が頭に浮かぶ。
どちらも不思議な力を持っているけれど、魔法を教えてもらえるかどうかは分からない。
まずはルリに相談してみよう。
それから、光の魔法についても聞いてみればいい。
ひとつ、次にやってみたいことが見つかった。
紬は満足そうにうなずくと、再び本へ目を向けた。
そして、ふと思った。
魔力のことを聞けるのなら、ほかのことだって聞いていいのではないだろうか。
この世界に来てから、ずっと不思議に思っていたこと。
誰にも聞けなかったこと。
聞いても答えが返ってこないかもしれない。それでも、聞くだけならできる。
紬は本のページを見つめ、次の質問を口にした。
『ここは、どこなの?』
【回答】
帰らずの森。
「帰らずの森……」
知っている名前だった。
けれど、それは場所の名前にすぎない。
紬は少し考えてから、続けて尋ねた。
『じゃあ、この世界は何?』
今度は、文字が現れるまでに少し間があった。
やがて、ページに短い言葉が記された。
【回答不可】
「……答えられないんだ」
紬は残念そうに眉を下げたものの、すぐに気持ちを切り替えた。
まだ質問はある。
『あなたは、本なんだよね?』
【回答】
本です。
「うん。それは、そうだよね……」
思わず、小さく笑ってしまった。
あまりにもそのままの答えだったからだ。
けれど、笑みはすぐに消えた。
紬は本を見つめながら、もうひとつの疑問を口にした。
『じゃあ、あなたは何?』
ページに文字が浮かぶ。
【回答】
あなたです。生まれた時から私はあなたです。
「……え?」
紬の指が止まった。
何度も文字を読み返す。
あなたです。
生まれた時から私はあなたです。
意味が分からなかった。
この本は、ずっと自分と一緒にあったということなのだろうか。
それとも、もっと別の意味があるのだろうか。
『どういう意味なの?』
【回答不可】
『私と、あなたは同じなの?』
【回答不可】
『じゃあ、あなたはいつから私と一緒にいたの?』
【回答不可】
質問を重ねても、返ってくる答えは変わらなかった。
紬は困ったように本を見下ろした。
「……うーん。難しいなぁ」
隣にいたババロが、気になったのか声をかける。
「何を聞いてるんだ?」
紬は少し迷ったあと、本のページを見せた。
ババロは文字を追おうとしたが、すぐに首を横に振った。
「……やっぱり、俺には読めねぇな」
「私にも、よく分かりません。でも、ずっと一緒にいたってことなのかな……?」
「分からねぇなら、今はそれでいいんじゃねぇか。答えが出ねぇことを、無理に考えても仕方ねぇ。分かるときが来たら、分かることもある」
ぶっきらぼうな言葉だったけれど、紬の心は少し軽くなった。
そうだ。
今すぐに、すべてを理解する必要はない。
分からないことがあれば、また考えればいい。
紬は本へ向き直った。
『私、元の世界に帰れる?』
【回答不可】
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
元の世界。
海の見える町。
育った孤児院、光の森。
そこにいた人たちの顔が、頭の中をよぎる。
会いたい。
声を聞きたい。
今、自分がどこにいるのか。無事に暮らしているのか。心配してくれている人はいるのだろうか。
考え始めると、いくつもの思いが胸の中にあふれてきた。
けれど、本から返ってきたのは、答えられないという短い言葉だけだった。
紬はしばらくページを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
『……どうして私は、この世界に来たの?』
【回答】
偶然と因果。
「偶然と……因果?」
聞き慣れない言葉ではなかった。
けれど、その二つが自分に何を意味するのか、紬には分からなかった。
『それって、どういうこと?』
【回答不可】
やはり、詳しいことは教えてくれないらしい。
紬は唇を結び、少しだけ考え込んだ。
偶然、ここに来た。
でも、何かの因果があった。
それは、ただの偶然ではないということなのだろうか。
それとも、偶然も因果の一部だということなのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
紬はゆっくりと顔を上げ、部屋の中を見回した。
そばにはババロがいる。
ルリが羽を揺らしながら飛んでいる。
少し離れたところでは、ラタとカーバンクルが身を寄せ合っていた。
ルーチェも、いつものように近くで紬を見守っている。
ここに来てから出会った、大切な仲間たち。
この世界に来た理由は分からない。
元の世界に帰れるかどうかも分からない。
それでも、今ここで過ごしている時間が、紬にとって大切なものであることは確かだった。
だからこそ、知りたかった。
自分は、何者なのだろう。
どうして、この本を持っているのだろう。
なぜ、この世界で生きているのだろう。
紬は本を両手で持ち直した。
そして、胸の奥にずっとしまっていた問いを、そっと口にした。
『……ねえ、私は何?』
ページの上に、文字が浮かび上がった。
【回答】
あなたは地球人、本に結ばれた人です。
「……本に、結ばれた人?」
紬は、記された言葉を小さく読み上げた。
地球人。
それは、間違いなく自分のことだ。
けれど、その後に続く言葉は初めて目にするものだった。
本に結ばれた人。
自分と、この本が結ばれている。
そういう意味なのだろうか。
紬は本を見つめた。
この本は、自分の身体に溶け込んだ。
自分が魔力を集めれば、再び姿を現す。
そして、ずっと昔から自分と一緒だったのだと、さっき答えていた。
ならば、この言葉には何か意味があるのかもしれない。
『本に結ばれた人って、どういう意味なの?』
【回答不可】
『どうして、私が本に結ばれた人なの?』
【回答不可】
『私以外にも、本に結ばれた人はいるの?』
【回答不可】
何度尋ねても、答えは返ってこなかった。
紬は本を閉じることもできず、ただ静かにページを見つめていた。
「……そっか。まだ、分からないんだね」
少し寂しそうに、それでもどこか納得したように呟く。
知りたいことは、まだたくさんある。
けれど、今は答えられないこともあるのだろう。
紬は本の表紙をそっと撫でた。
分からないことがあるからといって、今まで助けられてきたことが変わるわけではない。
この本があったから、知らない森で生きてこられた。
たくさんの命と出会い、大切な仲間たちと一緒に過ごすことができた。
その事実は、これからも変わらない。
だから、焦らなくてもいい。
いつか分かる日が来るのなら、そのときまで自分にできることをしていこう。
紬は本を胸に抱き、ゆっくりと顔を上げた。
「ババロ。私、もっといろんなことを知りたいです」
「……そうか」
ババロは短く答え、紬の顔を見た。
「なら、まずは目の前のことから覚えていけばいい。魔力のことも、この森のこともな」
「はい!」
紬は、今度は迷わず返事をした。
窓の向こうでは、雪が静かに降り続いている。
石垣の外には、いまだ正体の分からない黒い霧の魔物が潜んでいる。
この世界には、まだ知らないことがたくさんある。
そして、自分自身についてさえ、分からないことだらけだった。
それでも、紬のそばには仲間たちがいる。
新しく知った自分の力もある。
これから少しずつ、確かめていけばいい。
紬は本をそっと撫でた。
いつか、この本が答えてくれる日が来るのだろうか。
その答えがどんなものであっても。
今はまだ、分からない。
けれど、その問いを胸に抱きながら、紬は今日も一歩ずつ、この世界を生きていく。




