第112話 光の障壁
第112話 光の障壁
ババロの身体は、少しずつ回復していた。
深い傷は塞がり、まだ傷痕こそ残っているものの、以前に比べれば顔色もよくなっている。
今では寝台から起き上がり、家の中を歩けるようにもなっていた。
けれど、まだ本調子ではない。
紬に助けられてからというもの、ババロは家の中で過ごす時間が続いていた。
寝台に横になり、ぼんやりと天井を眺める。
静かな家の中。
時折、ルリが顔を出したり、紬が食事を運んできたりするものの、やはり退屈だった。
そんなババロの様子を見ていた紬が、ふと思いついたように寝台のそばへやってきた。
「ババロ、そとぉ、いきぅ」
紬は戸口の方を指さし、それから外へ歩いていくような仕草をした。
「……?」
ババロは首を傾げた。
紬はもう一度、戸口を指さす。
「そとぉ! いきぅ!」
どうやら、外へ行こうと言っているらしい。
ババロは少し考え、それから自分の足を見下ろした。
確かに、以前より身体は動く。
ゆっくりなら歩くこともできるだろう。
「……外へ、ということか?」
言葉は通じなくても、紬の身振りから意図をくみ取ったババロは、寝台から足を下ろした。
紬は嬉しそうに頷く。
「うん!」
ババロは小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。
こうして、紬に誘われるまま、二人は戸口へと向かった。
そして、外へ出た瞬間――。
ババロは、目の前に広がる景色に息をのんだ。
そこには、一面の銀世界が広がっていた。
地面も、木々も、あたり一面が雪に覆われている。
空からは、今も絶え間なく雪が降り続いていた。
けれど、家の周りは不思議なほど穏やかだった。
ふと、頭上から小さな鳴き声が聞こえてくる。
【チチッ、チチチッ】
見上げると、屋根の上にシロエナガたちがいた。
白い羽毛をふくらませながら、こちらをじっと見つめている。
まるで、ババロが外へ出てくるのを待っていたかのようだった。
ババロは、目の前の景色をゆっくりと見回した。
冬の森。
雪に覆われた大地。
そして、寒さの中でも青々と葉を伸ばしているネギ。
家の周りに育つネギは、雪の白さの中で鮮やかな緑を見せていた。
ババロの目には、その葉の周囲に細かな白い光の粒が、ふわり、ふわりと漂っているのが見えた。
石垣に囲まれたこの場所は、外の森とは何かが違う。
冷たい冬の只中にあるはずなのに、どこか温もりを感じる。
大地も、植物も、そこに生きるものたちも、優しい光に包まれているようだった。
――まさか。
ババロの胸に、遠い昔から語り継がれてきた言葉がよみがえる。
光のある場所。
ノームの一族に伝えられてきた、遠い伝承。
いつか、たどり着くべき場所があるのだと。
その言葉を信じてきたわけではない。
けれど、忘れたこともなかった。
「……ここが、俺の……たどり着きたかった場所なのか」
声が、かすかに震えた。
そのとき、雪の上を小さな影が走った。
白い子ネズミのラタと、小さな白いリスのカーバンクルだ。
二匹は雪の上にちょこんと足跡を残しながら、家の近くを駆けていく。
その何気ない姿さえ、ババロには眩しく見えた。
「……本当に、あったんだな……」
頬を伝うものに気づき、ババロはそっと目元を押さえた。
祖先たちが語り継いできた話。
長い年月の中で、伝承となり、遠い夢のようになっていた場所。
それが今、目の前にある。
ババロの目から、涙がこぼれ落ちた。
「えっ……?」
隣にいた紬は、突然泣き出したババロを見て、目を丸くした。
『ど、どうしたの?』
紬には、ババロが何に心を動かされたのか分からなかった。
いつもの家。
いつもの石垣。
雪が積もってはいるけれど、見慣れた冬の景色だ。
紬にとっては、いつもと変わらない場所だった。
それなのに、ババロは涙を流している。
『えっと……だいじょうぶ?』
紬は困ったように首を傾げ、ババロの顔をのぞき込んだ。
ババロは小さく息を吐き、涙をぬぐった。
「……すまない。少し、昔のことを思い出したんだ」
その言葉が紬に伝わったかどうかは分からない。
けれど、紬が心配そうに見つめていることは伝わった。
ババロは、そっと紬の頭に手を置いた。
「ありがとう」
その声は、先ほどよりも穏やかだった。
しばらくして、ババロは周囲を見回した。
雪は深い。
このままでは、少し歩くだけでも足を取られてしまうだろう。
ババロは地面に手をかざした。
「大地よ、道を開けてくれ」
静かに唱えると、足元の雪がゆっくりと動き始めた。
雪の下にある土が、わずかに盛り上がる。
その動きに合わせるように、積もった雪が左右へ押し分けられていった。
やがて、二人が歩けるだけの道が現れる。
雪を無理に吹き飛ばすのではなく、大地の力を借りて、道を作る。
それは、ノームの一族に代々受け継がれてきた土魔法だった。
そして、強い魔力を持つノームに受け継がれる、もうひとつの名。
――真実の魔術師。
ババロはその名を胸に刻みながら、静かに歩き出した。
『わぁー!』
目の前で雪が左右に分かれ、道ができていく様子に、紬は目を輝かせた。
『すごい! すごいね!』
紬はできたばかりの道を見つめ、何度も足元とババロの顔を見比べた。
ババロは、そんな紬の反応に小さく笑った。
「土魔法だ。ノームなら、多少の雪はこうしてどけられる」
もちろん、その言葉は紬にはほとんど理解できない。
それでも、ババロが魔法を使ったことだけは分かったようだった。
紬は嬉しそうに、作られた道を歩いていく。
その後ろを、ババロもゆっくりとついていった。
やがて、石垣が見えてきた。
家を囲む、古い石垣。
その手前まで来たところで、ババロの足が止まった。
石垣の向こうには、森が広がっている。
けれど、その景色は、先ほどまで見ていたものとはまるで違っていた。
外は、猛吹雪だった。
風が唸り、雪が渦を巻き、視界のすべてを白く塗りつぶしている。
木々の姿さえ、吹き荒れる雪の向こうにぼんやりと浮かぶだけだった。
ババロは目を細めた。
ほんの少し前まで、自分たちがいた場所とは思えない。
そして、何よりも異様だったのは――。
石垣から、光の壁が伸びていたことだ。
淡く、けれど確かな光。
石垣を起点に広がるそれは、目には見えない何かの境界を示すように、雪の世界を内と外に分けていた。
光の壁の内側では、雪は降っていても穏やかだった。
けれど、その外側では、まるで何かに拒まれるように、吹雪が荒れ狂っている。
ババロは、ただ呆然と立ち尽くした。
「……なんだ、これは……」
魔法の気配は感じる。
だが、これほど広い範囲に、これほど自然に溶け込んだ力を、ババロは知らなかった。
石垣そのものから光が伸びているように見える。
それなのに、どこにも術者の姿はない。
誰が、何のために。
そして、この光の壁は、いったい何を守っているのだろう。
ババロは、目の前の光景から目を離せなかった。
外の吹雪は、ただの冬の嵐とは思えないほど異様だった。
風の唸り声が、何かを追い払おうとするかのように響いている。
そのとき。
背後から、羽ばたきの音と、雪を踏む静かな足音が近づいてきた。
「ギョェ」
振り返ると、ルーチェが翼を揺らしながら歩み寄ってくる。
その隣には、二本の角を持つ白い姿――アルブレーヴがいた。
二体は石垣の向こうを見つめ、しばらく静かに立っていた。
やがて、アルブレーヴがババロたちへと視線を向ける。
【今は、外へ出ない方がいい】
その声は、静かだった。
けれど、そこには確かな警告が込められていた。
【あの吹雪の中へ進むのは危険だ。ここで、しばらく休むといい】
ババロは、アルブレーヴを見つめた。
言葉の意味をすべて理解できたわけではない。
それでも、その声に込められた気遣いは伝わってきた。
ルーチェもまた、ババロのそばへ寄り、心配するように小さく鳴いた。
「ギョ」
ババロはもう一度、光の壁と、その向こうの猛吹雪を見つめた。
自分が探していた場所。
祖先たちが語り継いできた、光のある場所。
そこへたどり着いたはずなのに、まだ分からないことばかりだった。
だが、今は進めない。
ババロはゆっくりと息を吐き、静かにうなずいた。
「……分かった。今は、ここで休ませてもらおう」
光の壁の向こうでは、吹雪がなおも荒れ狂っていた。




