第110話 はじめての言葉
第110話 はじめての言葉
朝の食事を終え、紬が使い終わった器を片付けていると、そばで休んでいたアルブレーヴが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、扉の前まで歩いていくと、鼻先を扉に近づける。
ふんす、ふんす。
何度も鼻を鳴らしながら、扉の前を行ったり来たりしていた。
その様子を見た紬は、思わず頬を緩めた。
『アルブレーヴ、お外に行きたいの?』
アルブレーヴは振り返り、紬を見つめる。
紬は小さく頷くと、扉を開けてあげた。
すると、アルブレーヴは嬉しそうに外へと歩き出す。
雪に覆われた石垣の内側は、今日も静かだった。
そのとき、ぱたぱたと羽音がして、ルーチェが紬のそばを通り過ぎた。
そして、外へ出たアルブレーヴを追いかけるように飛んでいくと、その二本の角の片方に、ちょこんと止まった。
まるで、そこが自分の席だとでもいうように。
『あれ? ルーチェも行くの?』
紬が不思議そうに尋ねると、近くを飛んでいたルリが答えた。
『みまわりー。そとのー』
『そっか、見回りなんだね』
紬は二匹の姿を見つめた。
アルブレーヴは、森の様子を見に行くことがある。きっと今日も、雪の積もった森に異変がないか確かめに行くのだろう。
そこにルーチェも一緒に行くのなら、心強い。
それでも、外はまだ冬の森だ。
紬は少し心配そうに二匹へ声を掛けた。
『気をつけてね。無理しないでね』
すると、ルーチェはアルブレーヴの角の上で、胸を張るように体を起こした。
「ギョェー!」
朝の森に響き渡る、大きな鳴き声。
それはまるで、心配はいらないと答えているようだった。
アルブレーヴもゆっくりと顔を上げる。
二匹はそのまま、雪に覆われた森へと向かっていった。
白い景色の向こうへ、小さくなっていく二つの姿。
紬は見えなくなるまで見送ると、そっと扉を閉めた。
今日も二匹が、森を守ってくれている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
* * *
部屋へ戻ると、ババロが毛布を肩に掛けたまま、こちらを見ていた。
まだ体は本調子ではない。
けれど、昨日よりも顔色はよくなっているようだった。
紬は安心したように微笑むと、ババロのそばへ歩み寄った。
そして、少し考える。
昨日は、ルリに助けてもらいながら、なんとか気持ちを伝えることができた。
けれど、ルリがいつもそばにいてくれるとは限らない。
それに、目の前にいるババロと、もっといろいろな話ができたら嬉しい。
せっかく出会えたのだから、少しでも言葉が分かるようになりたい。
紬は近くを飛んでいたルリを呼んだ。
『ルリ、お願いがあるんだけど……』
『なーにー?』
『ババロの言葉を、教えてもらえないかな?』
ルリはぱちぱちと目を瞬かせた。
『ババロ、ことば?』
『うん。ババロが話している言葉。紬も少しずつ覚えたいの』
ルリは紬の顔を見て、それからババロのほうへ向き直った。
そして、妖精の言葉で話しかける。
【ババロ、ツムギ、ことば、おしえてほしいってー】
ババロは一瞬、目を丸くした。
それから、紬の顔をじっと見つめた。
小さな体。
人間の子供にしても、ずいぶん幼く見える。
以前、ババロが見かけた人間たちは、もっと大きかった。体つきも違えば、話す言葉も違う。
それなのに、この子は大陸の言葉を話せない。
なぜなのだろう。
こんな森の奥深くで、どうして一人で暮らしているのだろう。
ルーチェも、ルリも、アルブレーヴもいる。
あの子たちが紬を守っているのだとしても、普通ならば子供が一人でこんな場所にいるはずがない。
ババロの胸に、いくつもの疑問が浮かんだ。
けれど、今は尋ねなかった。
自分にも子供がいる。
もし、バルバロが知らない場所で一人きりになっていたら。
もし、誰とも言葉が通じず、困っていたら。
きっと、誰かが手を差し伸べてくれることを願うだろう。
目の前の小さな子も、そうなのかもしれない。
事情は分からない。
けれど、言葉を覚えたいと願っているのなら、教えてやりたいと思った。
ババロは柔らかな表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
そして、紬に向かって口を開く。
「いいぞ」
紬には、その言葉の意味は分からなかった。
けれど、ババロの表情を見て、承諾してくれたのだと感じた。
『ありがとう!』
紬が嬉しそうに頭を下げると、ルリが二人の間を行ったり来たりした。
『ババロ、おしえるー。ツムギ、べんきょうー!』
『うん、勉強する!』
紬は小さく拳を握った。
こうして、紬の新しい勉強が始まった。
* * *
ババロはまず、紬の顔を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「おはよう」
紬は、聞き慣れない音に首を傾げた。
『おはよう……?』
ババロはもう一度、同じ言葉を口にする。
「おはよう」
そして、自分の胸に手を当てたあと、紬に向かって優しく微笑んだ。
朝に交わす挨拶なのだろう。
紬はそう考え、ババロの口元をじっと見つめた。
音を確かめるように、ゆっくりと口を動かす。
「ぉぉにゃおう……?」
少し違う。
けれど、ババロは笑わなかった。
小さく頷くと、もう一度、ゆっくりと言葉を繰り返した。
「おはよう」
「お……はよう」
今度は、さっきよりも近い音になった。
ババロの顔に、嬉しそうな笑みが浮かぶ。
紬もつられて笑った。
『おはよう!』
覚えた言葉を、もう一度。
今度は、少しだけ自信を持って口にした。
意味はまだ完全には分からない。
けれど、ババロが嬉しそうにしてくれることが、紬には嬉しかった。
次にババロは、自分の胸に手を当てた。
「ババロ」
紬は頷く。
「ばばろ」
続いて、ババロは紬を指差した。
「ツムギ」
『紬!』
ババロは自分と紬を交互に指差しながら、二人の名前を繰り返した。
「ババロ。ツムギ」
名前を呼び合う。
それだけのことなのに、昨日よりも少しだけ、お互いのことが近くなったような気がした。
* * *
名前と挨拶を何度か練習したあと、ババロは食卓に置かれた器に目を向けた。
そして、器の中に残っていたカチワリを指差す。
「カチワリ」
紬は、ぱっと顔を上げた。
それは、聞き覚えのある言葉だった。
この木の実は、紬にとっても馴染み深い食べ物だ。
ババロはもう一度、木の実を指差した。
「カチワリ」
紬は嬉しそうに頷いた。
そして、張り切って口を開く。
「かにゃわゃあ!」
……少し、違った。
紬自身も、思っていた音と違ったらしい。
口を閉じて、首を傾げる。
ババロは一瞬きょとんとしたあと、紬が一生懸命に真似をしているのだと分かり、目元を和らげた。
そして、ゆっくりと発音する。
「カ・チ・ワ・リ」
紬も、ババロの口の動きを真剣に見つめた。
「か……ち……わ……り」
今度は、少し近づいた。
けれど、最後の音がうまく出ない。
「かちわ……り?」
ババロは頷いた。
「そうだ。カチワリ」
紬の顔がぱっと明るくなる。
『カチワリ!』
今度は、自分でも分かるくらい、さっきより上手に言えた。
ババロは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、紬も笑う。
言葉を一つ覚えるだけで、こんなにも嬉しいものなのだろうか。
紬はカチワリを手に取り、もう一度、声に出した。
「カチワリ」
今度は、ちゃんと伝わった。
そのことが嬉しくて、何度も繰り返してしまう。
ババロはそんな紬を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
まるで、幼い子供に言葉を教えているようだった。
ひとつ覚えれば嬉しそうに笑い、うまくいかなければ一生懸命にやり直す。
その姿が、遠くにいる自分の子供たちと重なった。
……この子は、いったいどこから来たのだろう。
疑問は、まだ消えない。
けれど、今は無理に聞く必要はないと思った。
いつか、この子が話してくれる日が来るかもしれない。
それまでは、こうして言葉を教えてやればいい。
ババロは、紬の手元にあるカチワリを指差し、もう一度、ゆっくりと発音した。
「カチワリ」
紬は真剣な顔で頷いた。
「カチワリ!」
ルリも二人の間を飛び回り、嬉しそうに声を上げた。
『ツムギ、じょうずー!』
『えへへ……』
紬は照れくさそうに笑った。
覚えた言葉は、まだほんの少し。
それでも、紬にとっては、この世界で初めて出会った人の言葉だった。
ババロにとっても、目の前の小さな子に教える時間は、思いのほか心地よいものになっていた。
外では、雪が静かに降り続いている。
森の見回りに出たルーチェとアルブレーヴは、まだ戻らない。
けれど、家の中には温かな空気が満ちていた。
紬は今日覚えた言葉を、忘れないように何度も口の中で繰り返す。
「おはよう」
「カチワリ」
まだ、二人の会話は成り立たない。
伝えたいことの多くは、表情や仕草に頼るしかない。
それでも、昨日よりほんの少しだけ、相手のことが分かった気がした。
ババロは、そんな紬を見守りながら、次に教える言葉を考えていた。
急がなくていい。
ひとつずつ、ゆっくりと。
この小さな子が、いつか自分の気持ちを言葉で伝えられるようになるまで。
今日覚えた言葉は、ほんの少し。
けれど、それは二人の間に生まれた、小さな橋のようなものだった。




