第108話 目覚め
第108話 目覚め
――あたたかい。
身体を包み込むようなぬくもりに、ババロの意識がゆっくりと浮かび上がった。
ずっと寒かった気がする。
身体の奥まで冷えきって、動くこともできなくて。
痛みと苦しさの中で、ただ目を閉じていた。
それなのに、今はあたたかい。
どこからか、ぱちぱちと小さな音が聞こえる。
鼻をくすぐるのは、木の燃える匂い。
ババロは重たいまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。
ぼんやりとした視界の中に、何かが映る。
青い髪。
大きな瞳。
そして、顔。
……近い。
あまりにも近い。
視界いっぱいに、小さな顔があった。
【…………】
ババロは固まった。
相手も、じっとこちらを見ている。
次の瞬間。
【――ッ!?】
ババロの身体が、びくっと跳ねた。
【わっ! 起きた!】
目の前の小さな存在が、ぱっと顔を離す。
ババロは慌てて身体を起こそうとした。
けれど、思うように力が入らない。
【っ……!】
腹部に鈍い痛みが走り、思わず手を当てた。
あの魔物の爪に裂かれたはずの場所。
そこには、傷口が塞がった痕が残るだけだった。
ババロは困惑しながら、改めて目の前の相手を見た。
小さな身体に、青い髪。
背中には、透き通った四枚の羽。
【……フェアリー?】
【ルリだよ〜!】
ルリは嬉しそうに胸を張った。
【ルリ! ルリっていうの!】
【……ルリ……】
ババロは、まだぼんやりとした頭でその名を繰り返した。
そして、何かを思い出したように顔を上げる。
【……君が……助けて、くれたのか……?】
【うーん、皆でだよ】
ルリは少し考えてから、部屋の奥を指さした。
【ルリが見つけて、ツムギと一緒に穴から引っ張り出したんだよ! ルーチェもアルブレーヴもいたんだよ!】
ババロは、ゆっくりと周囲を見回した。
目に入ったのは、しっかりと組まれた石壁。
生活に使われている道具が置かれ、すぐそばでは暖炉の火が燃えている。
どうやら、どこかの家の中らしい。
そして、視界の端に虹色の羽根が映った。
【…………】
ババロの目が、みるみる見開かれる。
暖炉のそばにいる、大きな鳥。
赤や青、緑や紫。いくつもの色が重なり、光の加減で美しく輝く羽。
【……聖鳥ッ!?】
思わず腰を引いた。
すると、背後から低い鼻息が聞こえた。
【フンス】
【…………え?】
恐る恐る振り返る。
そこには、白い毛並みに二本の角を持つ大きな獣が立っていた。
ババロはゆっくりと顔を上げ、さらに見上げる。
そして、目が合った。
【…………】
聖鳥。
そして、目の前にいる白き獣。
あまりのことに、ババロは言葉を失った。
そんな彼を見て、ルリが不思議そうに首を傾げる。
【ねえねえ、お名前は?】
ババロは、はっとしたようにルリへ視線を戻した。
【……あ、ああ。俺は……ノームの、ババロだ】
【ババロ! ババロっていうんだね!】
ルリは嬉しそうに、くるりと宙を舞った。
すると、暖炉のそばにいた虹色の鳥が、一歩前へ出た。
【私はアルカンシエルのルーチェよ】
【……アルカンシエル……!?】
ババロは再び目を見開いた。
空を守護する存在。その名を知らないわけがなかった。
さらに、白き獣が静かに口を開く。
【アルブレーヴだ】
【…………】
ババロは、もう何も言えなかった。
どうして、こんな方々が一緒にいるのだろう。
混乱するババロを見て、ルーチェは部屋の奥へ視線を向けた。
【そして、あそこで寝ているのが紬よ】
毛布にくるまって眠る少女。
【俺たち皆で、お前を見つけたんだ】
アルブレーヴが静かに告げる。
【木の根元にあった穴の中で、ルリがお前を見つけた。紬と一緒に引きずり出し、ここまで連れてきたんだ】
【……そう、だったのか……】
ババロは、眠っている紬を見つめた。
自分を見つけてくれた者。
そして、傷を治してくれた者。
まだ何も分からない。けれど、生きていることだけは確かだった。
【……助けて、いただいて……ありがとう、ございます……】
声はかすれ、言葉も途切れ途切れだった。
ルリはにっこりと笑う。
【うん! 元気になってよかったね!】
ババロは小さく頷いた。
それから、ふと疑問が浮かんだように顔を上げる。
【……あの……どうして、人間と……あなた方が、一緒に……?】
ルーチェは一瞬だけ紬へ目を向けた。
【まあ、色々あるのよ】
【……色々……?】
【ええ。それより、ババロ。あなたのほうこそ、何があったの?】
穏やかな声だったが、その眼差しは真剣だった。
【あんな傷を負って、森の中で倒れていた。いったい何に襲われたの?】
ババロは、毛布を握る手に力を込めた。
【……秋の、終わり頃でした】
途切れがちな声で、ゆっくりと話し始める。
【仲間たちと息子と……いつもの秋の収穫に出かけたんです】
毎年、秋になると行う収穫。
その日も、いつもと変わらないはずだった。
【俺たちは、地中にいたんです。いつものように……土の中を通って、収穫をしていました】
けれど、突然だった。
地中にいたはずの自分たちが、魔物に見つかった。
【……気づいたときには、すぐ近くにいました。黒い霧のようなものをまとった……大きな魔物です】
逃げなければ。
その場にいた者たちは、すぐに逃げ始めた。
しかし、魔物は執拗に追いかけてきた。
【……あいつは、すぐには殺さなかったんです】
ババロの声が、かすかに震えた。
【傷を負わせて……動けなくなりそうになると、少し離れる。俺が、また逃げられるようになると……追ってくるんです】
殺さず、生かさず。
逃げる力を奪うように傷つけては、再び追い立ててくる。
【……このままじゃ、みんな逃げ切れないと思いました】
仲間たちも、すでに逃げるだけで精いっぱいだった。
このままでは、いずれ全員が追いつかれてしまう。
そう考えたババロは、決断した。
【だから……俺が殿を務めることにしたんです】
【お前ひとりで、魔物を引きつけたのか】
アルブレーヴの問いに、ババロは小さく頷いた。
【……はい。みんなには、先に逃げてもらいました。俺が時間を稼いでいる間に……できるだけ遠くへ息子は仲間に頼みました。】
仲間たちが無事に逃げ切れたのか。息子は無事なのか。
それを確かめる余裕はなかった。
振り返れば、追いつかれてしまう。
だから、ババロはひとりで魔物を引きつけ、逃げ続けた。
【……本当は、村に帰りたかったんです】
その言葉は、先ほどまでよりもずっと小さかった。
【みんなと一緒に家族の元に……村へ帰るつもりだった。いつものように、収穫したものを持って……】
けれど、その当たり前だったはずの帰り道は、もう分からなくなっていた。
逃げても、隠れても、魔物は追ってくる。
何日も逃げ続けるうちに、身体は限界を迎えようとしていた。
【……それで、先祖の話を思い出したんです】
【先祖の話?】
ルーチェが静かに聞き返す。
【はい……昔、俺たちの先祖が……助けを求めた場所があると】
ババロは、息を整えながら言葉を続けた。
【光のある場所……そこへ行けば、助けてもらえるかもしれないって……】
詳しい場所も、そこに何があるのかも、はっきりとは知らなかった。
それでも、ほかに頼れるものはなかった。
【……村へ帰ることも、できなくて……。だから、そこを目指しました】
最後の力を振り絞り、先祖が伝えた光の場所を探した。
そして、木の根元に穴を見つけたところで、とうとう身体が動かなくなった。
【……そこから先は、覚えていません】
ババロは眠る紬へ視線を向けた。
【……本当に、助かりました】
もう一度、感謝を伝えようとした。
けれど、言葉を続けるだけでも息が切れる。
ルーチェは静かに頷いた。
【話してくれてありがとう。でも、今は身体を休めなさい。まだ無理はできないでしょう?】
【……はい】
ババロは、ゆっくりと毛布に身を沈めた。
仲間たちは無事に逃げられただろうか。
今も、あの魔物から逃げているのだろうか。
できることなら、すぐにでも村へ戻りたい。
けれど、今の身体では、それも叶わない。
ババロは目を閉じた。
暖炉のぬくもりが、冷えきった身体を包んでいる。
今はただ、この温かさに身を委ねるしかなかった。




