第107話 眠る命と、森の異変
第107話 眠る命と、森の異変
紬は、ノームの身体を拭き終えると、汚れた布を脇へ置いた。
暖炉の火は静かに燃え、部屋の中を暖めている。
傷口は、もう塞がっていた。
あれほど深く刻まれていた爪痕は、赤く盛り上がった痕を残すだけになっている。けれど、小さな身体はまだぐったりとしていて、呼吸も弱々しい。
紬はそっと《知識と生存》を開いた。
白いページに、ノームの状態が表示される。
【種族】ノーム
【名前】不明
【状態】衰弱
【症状】衰弱。怪我による発熱。
【備考】安静と十分な休息が必要。
「……よかった。瀕死じゃなくなってる」
紬は胸を撫で下ろした。
治療を始める前、ページに表示されていたのは瀕死という文字だった。
あのときの小さな身体を思い出し、紬はそっとノームの顔を覗き込む。
傷は治っても、失われた体力まですぐに戻るわけではないらしい。
今は、ゆっくり休ませてあげることが大切だ。
「まだ、苦しいのかな……」
返事はない。
紬は濡らした布を絞り、ノームの額にそっと当てた。
小さな額は、まだ熱を持っている。
フルエールポーションは、一滴で全身を治癒するほどの力を持っていた。それでも、傷が塞がったことと、元気になることは同じではないのだろう。
どれほど強い薬でも、身体が本来の調子を取り戻すには時間が必要なのかもしれない。
「早く元気になってね」
紬はそう呟き、ノームの身体に掛け物を整えた。
自分の知らない場所で、どんな暮らしをしていたのだろう。
家族はいるのだろうか。
仲間はいるのだろうか。
どうして、あんな魔物に追われていたのだろう。
聞きたいことはたくさんあった。
けれど、今は何も聞けない。
目を覚ましてくれること。それが、今の紬にとって一番の願いだった。
紬はもう一度、ノームの呼吸を確かめた。
小さな胸が、ゆっくりと上下している。
「……うん。大丈夫」
自分自身にも言い聞かせるように呟いて、紬はようやく息を吐いた。
暖炉の近くには、ルーチェとルリ、アルブレーヴが集まっている。
誰もが、眠るノームを気にかけていた。
ルーチェは首を伸ばして様子を窺い、ルリは小さな手を胸の前で組んでいる。アルブレーヴは少し離れた場所から、静かにノームを見守っていた。
「みんな、ありがとう。そばにいてくれて」
紬が微笑むと、ルーチェは小さく鳴いた。
「ギョ」
その声を聞き、紬の表情も少し和らいだ。
ひとりだったら、どうしていいか分からなかったかもしれない。
怪我をしたノームを見つけたときも、治療をしている間も、みんながそばにいてくれた。
そのことが、今になってじんわりと胸に広がってくる。
ルリも紬の肩に乗り、頬を寄せた。
「ツムギ、ネテー」
「え? でも、この子が起きたら……」
紬はノームへ視線を向けた。
まだ心配なことはたくさんある。
目を覚ましたとき、痛みはないだろうか。お腹が空いているかもしれないし、知らない場所で目覚めることを怖がるかもしれない。
何より、怪我をするほどのことがあったのだ。
目を離している間に、また何か起きたら。
そんな考えが浮かび、紬はすぐに首を振った。
今は、みんなを信じよう。
ルーチェが紬の背中を翼で軽く押す。
「ギョ、ギョエ」
「……ふふ。分かった。少しだけ休むね」
紬は小さく笑った。
自分も疲れていることは分かっていた。
あの魔物を目の前にしたとき、足がすくんで動けなくなった。みんなが助けてくれたから無事に戻れたけれど、気持ちまで平気だったわけではない。
思い返すと、今でも胸がどきどきする。
それでも、こうして暖炉の前に座っていると、少しずつ安心できた。
紬は毛布を広げ、暖炉のそばに横になった。
「ノームさんが目を覚ましたら、教えてね。何かあったときも、すぐに起こして」
ルーチェとルリが頷き、アルブレーヴも静かに目を細める。
「おやすみ、みんな」
紬はそう言って目を閉じた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく弾ける。
温かな空気に包まれ、身体から少しずつ力が抜けていった。
今日は、いろいろなことがあった。
雪の森へ出て、見たことのない魔物に遭遇したこと。
ルーチェたちが自分を守ってくれたこと。
そして、傷だらけの小さな命を見つけたこと。
考えたいことは、まだたくさんある。
けれど、今は眠ろう。
明日になれば、きっとまた何かできることがある。
疲れきっていた身体は、思っていた以上に早く眠りへと沈んでいった。
やがて、紬の呼吸がゆっくりと整う。
その寝顔を確かめてから、ルリはそっと肩から降りた。
そして、ルーチェとアルブレーヴのもとへ向かう。
【……眠ったね】
【ええ。今日は色々あったからね】
ルーチェは紬を振り返り、声を潜めた。
【本当に、次から次へと事件が起きるわね】
【だけど、今ちょー楽しいよ!】
ルリは楽しそうに羽を揺らした。
ルーチェは呆れたように片目を細める。
【あなたはそうでしょうね】
【だって、毎日ちがうことがあるもん! おいしいものも、いっぱい!】
【……フェアリーらしいな…】
アルブレーヴが小さく息を吐いた。
ルリは気にした様子もなく、眠るノームへ目を向ける。
【でも、この子はたいへんだったね】
【ああ】
アルブレーヴの表情がわずかに険しくなった。
【あの魔物が、ここまで来るとはな】
その言葉に、ルーチェの羽がぴくりと動く。
【秋から気配を感じていた、あの影ね】
【そうだ。あれは高位の魔物だ】
部屋の空気が、少しだけ張り詰めた。
高位の魔物が、帰らずの森の奥から姿を現した。
そして、石垣のすぐ外までやって来た。
それだけでも、普段の森では考えにくいことだった。
【ノームを追っていたのは間違いないだろう。だが、あの魔物が、あの小さな者を追うためだけに縄張りを出たのか……】
【何か、ほかにも理由があるかもしれないってことね】
ルーチェの言葉に、アルブレーヴは頷いた。
【高位の魔物が森の奥から動けば、周囲の魔物も影響を受ける。弱い魔物が住処を追われ、一斉に移動することもあるだろう】
【森の中が、落ち着かなくなるんだね】
【ああ。これから何が起きるか、注意しておく必要がある】
ルリは耳をぴんと立て、窓の向こうへ目を向けた。
外では、雪が静かに降り続いている。
石垣の内側は穏やかで、暖炉の火も変わらず温かい。
けれど、その向こう側には、厳しい冬の森が広がっていた。
【……でも、あの魔物、どうして石垣を何度も壊そうとしたの?】
ルリの問いに、ルーチェはすぐには答えなかった。
あの魔物は、ただ逃げていったわけではない。
見えない壁にぶつかりながらも、何度も何度も結界を突破しようとしていた。
まるで、そこに何かがあると知っているかのように。
【結界の力が弱まっていると、感じ取ったのかもしれないわね】
【……そうかもしれない】
アルブレーヴは静かに目を伏せた。
【だが、結界は破られなかった】
【うん。あれだけぶつかっても、びくともしなかったね】
ルーチェは、部屋の外にある石垣を思い浮かべる。
長い年月の中で、結界を支える力が弱まっていたことは確かだった。
以前と同じ状態ではない。
それなのに、あの魔物は最後まで内側へ入ることができなかった。
【以前なら、もっと危うかったかもしれないけれど……】
ルーチェの言葉に、アルブレーヴがふと思い出したように口を開いた。
【そういえば、石碑の周囲にも変化があった】
【石碑?】
【ああ。紬が育てているネギだ。あれが、森のあちこちに増えている】
【いっぱい増えてるよね! 動物たちも植えてるもん!】
ルリが楽しそうに頷いた。
紬が育てているネギは、いつの間にか森の中へと広がっていた。
小さな動物たちが運び、土に植え、また別の場所へと増やしている。
それは、誰かが命じたわけでもない。
紬が大切に育て、動物たちと分け合ってきたものを、森の仲間たちも自然と広げていたのだ。
【石碑の周りにも、たくさん生えていた。あのネギから出る光が、石碑に吸い込まれていたのだ】
アルブレーヴの言葉に、ルーチェはわずかに目を見開いた。
【……ネギの力を、石碑が取り込んでいる?】
【そう見えた】
アルブレーヴは、少し考えるように間を置いた。
【あの石碑は、結界を支えるものだ。ネギの力が関係しているのなら……弱まっていた結界を補っている可能性もある】
【じゃあ、あの魔物が突破できなかったのも?】
【それだけが理由とは限らない。だが、無関係とも言い切れないだろう】
ルーチェは、眠っている紬へ視線を向けた。
【本人は、そんなこと考えてもいないでしょうけどね】
【ツムギいっぱい、そだてる!】
ルリは胸を張った。
まるで、自分のことのように誇らしげだ。
アルブレーヴは、そんなルリを見て小さく息を吐く。
【……ああ。あの子が育てたものが、森を守る力になっているのかもしれないな】
紬は、ただネギを育てているだけだ。
食べるために。
料理に使うために。
そして、動物たちが喜んでくれるから、分け合うために。
結界を強くしようなどと、考えたこともないだろう。
それでも、紬が日々積み重ねてきた小さな営みは、思いもよらないところへ影響を広げているのかもしれなかった。
もちろん、今の段階では何も断定できない。
石碑がネギの力を取り込んでいるとしても、それが結界にどれほど影響しているのかは分からない。
あの魔物が突破できなかった理由も、ひとつとは限らない。
【……しばらくは、警戒を続けましょう】
ルーチェの言葉に、アルブレーヴが頷いた。
【ああ。森の様子も、よく見ておこう】
【うん! ルリも見てくる!】
【あなたは、まず目の前のことを見ていなさい】
【えー! ちゃんと見てるよ!】
ルリが頬を膨らませる。
ルーチェは小さく笑い、アルブレーヴもわずかに表情を和らげた。
いつもと変わらないやり取り。
けれど、三者の意識は、森の奥へと向いていた。
なぜ高位の魔物がノームを追っていたのか。
なぜ石垣を越えようとしたのか。
そして、帰らずの森の奥で何が起きているのか。
今は、どれも答えが出ない。
ただ、いつもとは違う何かが、確かに動き始めている。
【……紬と、この小さな命を守らなければ】
アルブレーヴの言葉に、ルーチェが静かに頷いた。
【ええ。ここは、あの子の家だもの】
【ルリも守るよ!】
三者の視線が、眠る紬とノームへと向けられた。
暖炉の火は、変わらず穏やかに燃えている。
紬は何も知らず、静かな寝息を立てていた。
そのそばには、彼女を守る者たちがいる。
そして、森の奥では。
冬の静けさに隠れるように、小さな異変が少しずつ広がり始めていた。
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どうぞこれからも紬の物語を楽しんでください!
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