第106話 皆で1つの命を
第106話 皆で1つの命を
紬は腕の中の小さな人を抱え直し、石垣へと近づいた。
家へ帰るまで、あと少し。けれど、普段なら何でもない石垣を乗り越えることさえ、今は慎重にならなければならなかった。
腕の中の体を揺らさないように。傷に触れないように。
紬は足元を確かめながら、一歩ずつ石垣を乗り越えていく。
アルブレーヴがすぐそばで見守り、ルーチェは先に石垣の内側へ飛び移った。
「……よし。もう少しだからね」
紬は腕の中の小さな人に声をかけた。返事はない。それでも、呼吸は続いている。そのことを確かめるたび、紬はほんの少しだけ安心することができた。
やがて石垣を越え終えた紬は、急いで家へと向かった。 扉を開けると、暖炉の暖かな空気が頬を包んだ。いつもなら、帰ってきたことにほっとする場所。だが、今は立ち止まっている場合ではなかった。
「ルーチェ、お願い! 寝室にある布団を持ってきてくれる?」
「ギョ!」
ルーチェはすぐに寝室へと向かった。紬は居間の一角に、できるだけ暖かく、落ち着いて寝かせられる場所を探した。
その間にも、腕の中の小さな人の呼吸を確かめる。
まだ、息をしている。大丈夫。
今は、できることをひとつずつ。ほどなくして、ルーチェが布団をくわえて戻ってきた。
「ありがとう、ルーチェ」
紬は布団を受け取り、暖炉から少し離れた場所に広げた。
火に近すぎず、それでいて寒くならない場所。そこへ、小さな人をそっと横たえた。
上着を外すと、血に汚れた服が目に入った。
「……まずは、怪我を確かめないと」
紬はお湯を用意することにした。
暖炉のそばに器を置き、水を入れて火にかける。湯が沸くまでの間に、清潔な布を何枚か用意した。それから、小さな人のそばへ戻る。
「ごめんね。服を少し脱がせるよ」
紬はできるだけ体を動かさないよう気をつけながら、血で汚れた服をゆっくりと脱がせていった。布が傷に張りついているところは、無理に引っ張らない。お湯で湿らせた布を使い、少しずつ汚れを落としていく。
そうして、ようやく腹部が見えたとき。
「……っ」
紬は思わず息をのんだ。
そこには、痛々しい爪痕が残されていた。鋭い爪で深く引っかかれたような傷が、腹部を横切っている。
傷の周りは赤く腫れ、血が乾いた部分と、まだ滲んでいる部分があった。あの魔獣の爪。
木の幹に残されていた傷とシロエナガの傷が、頭の中によみがえる。
あれほど大きな爪で引っかかれたのなら、この小さな体にどれほどの負担がかかったのだろう。
「……こんなに、ひどい怪我を……」
声がかすれた。紬は目をそらさなかった。怖いからといって、見ないわけにはいかない。助けたいと思ったのは、自分だ。ならば、今できることを探さなければならない。
紬は傷の様子を確かめ、これ以上触れないようにそっと布をかけた。
「アルブレーヴ……」
白い体が、すぐそばへ近づいてきた。
「シロエナガのときみたいに、私の怪我を治してくれたでしょう? この人も治してあげられる?」
アルブレーヴは小さな人を見つめたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「……そっか」
紬は唇を結んだ。
あのとき、アルブレーヴが自分の傷を治してくれたことを思い出す。あの不思議な力なら、今回も助けられるかもしれない。そう期待していた。けれど、アルブレーヴにできないこともある。ルリが、心配そうに小さな人を見下ろした。
「……ケガ、オッキイ。ムリ」
「怪我が、大きすぎるの……?」
ルリはこくりとうなずいた。紬はもう一度、小さな人を見つめる。まだ、生きている。だからこそ、何とかして助けたかった。
「……わかった。別の方法を探そう」
紬は立ち上がり、パントリーへ向かった。
棚には、これまで集めてきた薬草や、調合した薬が並んでいる。傷に使えるもの。体力を回復させるもの。今の状態に使える薬がないか、紬はひとつずつ確かめていった。けれど、どれも決め手にはならなかった。この傷に使ってよいのか。
今の状態で使って、体に負担はないのか。考えるほどに、簡単には手を伸ばせなくなっていく。そのとき、棚の奥に置かれた小さな容器が目に入った。
白く、とろみのある液体。
「……フルエールポーション」
紬はそっと容器を手に取った。
ルーチェとルリと紬で、不思議な素材を使って作り上げた特別な薬。調合のとき、二匹が材料を確かめ、必要なものを用意してくれたことを思い出す。
この薬を使えば、目の前の小さな人を助けられるかもしれない。紬は白い本を取り出し、ページを開いた。
探していた項目は、すぐに見つかった。
【種族】ノーム
【名前】不明
【状態】瀕死
【症状】魔物による挫傷。衰弱。怪我による発熱。
【備考】至急対処が必要。
「……瀕死……?」
紬の顔から、すっと血の気が引いた。呼吸をしている。けれど、それだけで安心できる状態ではなかったのだ。
魔物による怪我に、衰弱、発熱。小さな体は、今も必死に命をつないでいる。
「……すぐに、助けなきゃ」
紬は本を閉じ、フルエールポーションを手に取った。
暖炉の前では、ルーチェとルリ、アルブレーヴが布団の周りに集まっていた。
ルーチェは翼を広げ、小さな人に冷たい風が当たらないようにしている。
ルリもそばに寄り、両手をこすり合わせながら、少しでも暖かさを分けようとしていた。
アルブレーヴは布団のすぐそばに伏せ、その大きな体で冷気を遮っている。
三匹とも、じっと小さな人を見守っていた。
「……みんな、ありがとう」
紬は三匹の顔を順番に見た。
心配してくれている。
助けようとしてくれている。
その気持ちが伝わってきて、張りつめていた胸が少しだけ温かくなった。
「この子を助けようね」
紬は容器の蓋を開けた。
暖炉の炎が白い液体を照らす。
とろりとした表面に、柔らかな光が揺れていた。
紬は容器を傾け、腹部に残る大きな爪痕へ、そっと一滴を落とした。
ぽたり。
液体が傷口に触れた、その瞬間。
ふわりと、虹色の光が広がった。
「……わっ!」
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
いくつもの色が溶け合い、優しい光となって小さな体を包み込んでいく。
暖炉の炎に照らされたポーションは、まるで小さな星のように輝いていた。
光は強くなり、部屋いっぱいに広がった。
あまりの眩しさに、紬は思わず目を閉じる。
ルーチェも翼を少し広げ、ルリは両手で目を覆った。
アルブレーヴは動かず、光に包まれる小さな人を見守っている。
やがて、光がゆっくりと薄れていった。
紬は恐る恐る目を開けた。
「……えっ?」
腹部にあった深い爪痕が、変わっていた。
傷口は塞がっている。
けれど、元の肌に戻ったわけではなかった。
そこには、赤みを帯びた、蚯蚓腫れのような跡が残っている。
それでも、さっきまで開いていた傷は、もう見当たらなかった。
「……すごい」
紬は、思わず声を漏らした。
一滴だけ。
ほんの一滴のポーションで、あれほど痛々しかった傷が塞がったのだ。
「本当に……治ったんだ」
驚きと安堵が、胸の中いっぱいに広がっていく。
ルリも傷をのぞき込み、小さく声を上げた。
「……ナオッタ?」
「うん。傷が塞がってるよ」
紬が答えると、ルリは嬉しそうに宙をくるりと回った。
ルーチェも「ギョ!」と鳴き、翼を軽く広げる。
アルブレーヴは小さく鼻を鳴らし、紬の肩へ鼻先を寄せた。
けれど、まだ安心するには早い。
傷が塞がったからといって、ほかの怪我まで治っているとは限らない。
「……ほかにも傷がないか、確かめよう」
紬は立ち上がり、鍋の様子を見に行った。
用意していたお湯は、ちょうどよい温度になっていた。
布を浸し、熱すぎないことを確かめてから、しっかりと絞る。
それを持って戻ると、小さな人のそばに膝をついた。
「ごめんね。もう少しだけ、体を拭かせてね」
紬は、まず血で汚れた腕をそっと拭いた。
布に赤い色が移る。
汚れを落とすたび、肌の様子が少しずつ見えてきた。
腕には細かな擦り傷がいくつもあった。
足にも、背中にも、枝や爪で傷つけられたような跡が残っている。
紬はひとつずつ確かめながら、無理にこすらないよう、丁寧に体を拭いていった。
そのたびに、どうしてこの小さな人が、こんな目に遭わなければならなかったのだろうと思う。
けれど、今は理由を考えるよりも、助けることが先だった。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てる。
三匹は変わらず、布団の周りで小さな人を温めていた。
紬は新しい布を手に取り、まだ確かめていない場所へ目を向ける。
「……もう少しだからね」
静かな声でそう告げ、紬は再び手を動かし始めた。




