第105話 雪の森に残されたもの
第105話 雪の森に残されたもの
「……オカシイ。コンナ、チカク……アマリ、コナイ」
ルリの小さな声が、静かな森に消えていった。
紬は、石垣の向こうへ目を向けた。
先ほどまで、あの恐ろしい魔物がいた場所。
今はもう姿も見えず、雪の降る森は何事もなかったかのように静まり返っている。
「……何かあったのかな」
あの大きな生き物は、どうしてここまで近づいてきたのだろう。
ただ森を歩いていただけなら、わざわざ石垣に向かって何度も体当たりする必要はないはずだ。
それに、あの口。
黒い霧の中から現れた、鋭い牙が並ぶ大きな口を思い出し、紬は思わず自分の肩を抱いた。
考えれば考えるほど、わからないことばかりだった。
「アルブレーヴ。さっきの、あれは何だったの?」
そばに立つ白い体を見上げる。
アルブレーヴは紬を見返したあと、森の奥へと顔を向けた。
「……わからないの?」
問いかけても、言葉は返ってこない。
ただ、アルブレーヴの耳がぴくりと動き、角の間から白い息がこぼれた。
それから、前足で雪を踏みしめる。
フンス、フンス。
地面の匂いを確かめるように鼻を動かしていた。
「匂いを調べているのかな……?」
紬がつぶやくと、アルブレーヴはもう一度、フンスフンスと鼻を鳴らした。
ルーチェも石垣の上から森を見回している。
「ギョェー!」
いつもより鋭い鳴き声が響いた。
紬はびくりと肩を揺らす。
「ルーチェ、何かわかったの?」
ルーチェは返事の代わりに、翼を大きく広げた。
そして、森の奥へ向かって一度だけ鳴く。
「ギョッ!」
まるで、何かを警戒しているようだった。
ルリもルーチェを見上げ、小さな手を振りながら妖精の言葉で話しかける。
【ЖК……ღ¿♯?】
ルーチェは首を傾け、短く鳴いた。
「ギョ」
そのあと、ルリはアルブレーヴにも話しかけた。
【ЖКИЙ……♯Ж?】
アルブレーヴは森から目を離さないまま、低く鼻を鳴らす。
フンス。
それを聞いたルリは、少しだけ眉を寄せた。
紬には、何を話しているのかさっぱりわからない。
「……みんな、何か知っているの?」
尋ねると、三匹がそろって紬を見た。
ルーチェは小さく首を傾げ、アルブレーヴは一歩近づく。
ルリだけは、少し考えるように宙に浮かんでいた。
「さっきの生き物のこと。どうしてあんなに怒っていたのかなって」
あれほど大きな生き物が、あれほど激しく石垣にぶつかっていた。
もし、あの壁がなかったら。
もし、ルーチェたちが助けてくれなかったら。
考えかけて、紬は小さく首を振った。
今は、そんな想像をしても仕方がない。
それよりも、知りたいことがあった。
「……あれは、森に住んでいる生き物なの?」
ルリが、ゆっくりと紬の目の前まで飛んできた。
「……マモノ」
「え?」
「アレ、マモノだょ」
紬は目を瞬かせた。
「魔物……?」
ルリはこくりとうなずく。
「……ウン。マモノ」
その言葉を聞いて、紬はもう一度、森の奥を見た。
この世界に魔物がいることは、《知識と生存》を通して知っていた。
けれど、実際に目の前に現れたのは初めてだった。
しかも、あんなにも恐ろしい姿をしているなんて。
「……あんなに大きな魔物がいるんだね」
思わずこぼれた言葉に、ルリはうなずきかけて、途中で止まった。
それから、何かを考えるように視線を落とす。
「……デモ、オカシイ」
「やっぱり、いつもと違うの?」
「……ウン」
ルリは小さな手を胸の前で握った。
「コンナ、チカク……コナイ」
その声には、いつもの無邪気さがなかった。
紬はルリを手のひらに乗せ、そっと背中をなでた。
「そっか……。何かあったのかもしれないね」
原因はわからない。
けれど、何もないのにあの魔物がやってきたとは思えなかった。
紬は、石垣の向こうを見つめた。
「……もう少しだけ、外の様子を見てみたいの」
ルーチェが、石垣の上から紬を見下ろした。
ルリも小さな顔を上げる。
「でも、危ないことはしないよ。壁の近くから、周りを見るだけ」
そう言って、紬はアルブレーヴを見上げた。
「アルブレーヴも、一緒に来てくれる?」
アルブレーヴは紬の顔をじっと見つめたあと、静かにうなずいた。
それから、紬のそばへ一歩近づく。
大きな体が寄り添うと、少しだけ心強くなった。
「ありがとう。無理はしないからね」
紬はルリを肩に乗せ、石垣の上にいるルーチェを見上げた。
「ルーチェも、お願いね」
「ギョ!」
短い返事が返ってくる。
ルーチェは翼を広げ、石垣の外側へと飛び移った。
紬も慎重に石垣の外へ足を踏み出す。
雪を踏む音が、静かな森に小さく響いた。
冷たい風が頬を撫でる。
家の中とは違う、肌を刺すような寒さだった。
「……寒いね」
思わず肩をすくめる。
けれど、足元には雪が積もり、周囲の木々は白く染まっていた。
あの魔物が通った跡を探すのは難しくなさそうだった。
地面には、大きな足跡がいくつも残されている。
深く沈んだ跡は、あの巨体がどれほど重かったのかを物語っていた。
「こんなに大きな足跡……」
紬はそのひとつに近づき、しゃがみ込んだ。
自分の足を並べてみると、あまりの大きさに思わず息をのむ。
こんなものが、すぐ近くまで来ていたのだ。
足跡は石垣の前で乱れていた。
何度もぶつかったせいなのか、雪が踏み荒らされ、地面がむき出しになっているところもある。
そのそばには、アルブレーヴの足跡もあった。
白い毛並みの下にある足は、雪を踏みしめるたび、しっかりと地面を捉えている。
けれど、紬が見つめていたのは、その二種類の足跡だけではなかった。
「……あれ?」
大きな足跡から少し離れた場所。
雪の上に、もうひとつ、見慣れない跡が残っていた。
小さい。
アルブレーヴのものとは比べものにならないほど、小さな足跡だった。
しかも、まっすぐ続いているわけではない。
途中で乱れたり、間隔が不自然に広がったりしていた。
まるで、何かに追われながら、必死に逃げていたように見える。
「……誰の足跡だろう」
紬が目で追っていくと、その先に赤いものが見えた。
雪に、ぽつりと落ちた赤いしみ。
さらに少し先にも、もうひとつ。
「……血?」
背筋に冷たいものが走った。
足跡のそばに、血痕が続いている。
その量は多くない。
けれど、白い雪の上では、嫌でも目に入った。
「誰か、怪我をしているの……?」
紬は立ち上がり、血痕の続く先を見つめた。
ルリが、紬の肩からふわりと飛び立った。
「……コッチ」
「ルリ?」
ルリは小さな足跡をたどり始めた。
紬も慌てて、その後を追う。
ルーチェが頭上を飛び、アルブレーヴも紬から離れないように歩いてくれた。
やがて、足跡は少し大きめの木へと続いていた。
太い幹を持つその木は、雪をまとった枝を広げている。
けれど、近づいてみると、幹の表面に不自然な傷がいくつも残っていた。
深く、鋭い傷。
まるで、大きな爪で何度も引っかかれたかのようだった。
「……これって、さっきの魔物が?」
紬が問いかけると、アルブレーヴは木の幹へ鼻先を近づけた。
フンス、フンス。
匂いを確かめるように鼻を動かし、それから傷のついた幹を見上げる。
ルーチェも枝にとまり、傷を見下ろしていた。
「ギョェ……」
いつもの鳴き声よりも、低く慎重な声だった。
ルリは木の周りを飛び回り、根元へと回り込んだ。
雪に覆われた太い根の下。
そこには、小さな穴が口を開けていた。
「……穴?」
紬がのぞき込むと、奥は暗く、外からでは何も見えなかった。
小さな足跡は、そこへ続いている。
そして、穴の入口にも、わずかな血痕が残されていた。
「……ここに隠れているの?」
返事を待つ間もなく、ルリが穴の中へと入っていった。
「ルリ、待って!」
呼び止める声は届かなかった。
小さな青い光が、暗がりの奥へと消えていく。
紬は不安を押し殺しながら、穴の前にしゃがみ込んだ。
「ルリ……? 何か見つけた?」
しばらく、何の音もしなかった。
雪が木の枝から落ちる音だけが、静かに響く。
ルーチェは枝から飛び立ち、穴の前へと降りてきた。
「ギョ?」
心配そうに穴をのぞき込む。
アルブレーヴも、紬のそばに立ったまま、じっと暗がりを見つめていた。
そして――。
「……ツムギ!」
穴の奥から、ルリの声がした。
紬が身を乗り出すと、暗がりから青い光が近づいてくる。
ルリが戻ってきた。
その小さな手は、穴の奥へと伸ばされている。
そして、もう片方の手で、何かを引っ張っていた。
小さな手だった。
ルリの手よりも大きいけれど、紬の手と比べれば、ずっと小さい。
その手は、赤黒い血で汚れていた。
「……っ!」
紬は息をのんだ。
「ルリ、今、引っ張るから!」
急いで穴の中へ手を差し入れる。
指先に、冷たい肌が触れた。
紬はその手をしっかりと握り、傷つけないように気をつけながら、ゆっくりと引き寄せた。
けれど、穴の中の体は思った以上に重く、力が入らない。
「お願い……もう少し……!」
アルブレーヴがそばに寄り、紬の背中を支えるように体を添わせた。
その助けを借りて、紬はもう一度、力を込めた。
ルーチェも、紬の肩のそばで翼を広げ、いつでも手を貸せるように身構えている。
やがて、穴の中から小さな体が少しずつ姿を現した。
雪にこすれた服。
血に濡れた髪。
そして、力なく垂れ下がった手足。
紬は最後の力を振り絞り、その体を雪の上へと引き出した。
「……そんな……」
そこに横たわっていたのは、小さな人だった。
体も、服も、髪も、あちこちが血に染まっている。
雪の白さの中で、その赤だけがひどく鮮明に見えた。
紬は震える手を伸ばし、その小さな人のそばに膝をついた。
「……大丈夫……?」
返事はない。
紬は顔をのぞき込み、呼吸を確かめようと身をかがめた。
どうか、無事でいてほしい。
どうか、まだ間に合ってほしい。
降り続く雪が、小さな体の上に静かに積もり始めていた。




