第104話 石垣の向こう
第104話 石垣の向こう
紬は、石垣のすぐそばまで歩いてきた。
雪を踏みしめる音だけが、静かな森に響いている。
石垣に手をかけ、そっと外を眺めた。
外では、雪がしんしんと降り続いていた。
空から舞い落ちる白い雪は、地面だけでなく、木々の枝にもたっぷりと積もっている。枝は雪の重みに耐えるようにしなり、森全体が白い静寂に包まれていた。
ここから見る限り、いつもと変わらない冬の森だ。
紬は石垣の上から、ゆっくりと手を外へ伸ばした。
指先が、石垣の外の空気に触れる。
――冷たい。
石壁の内側とは、まるで違う。
冷気が指先に触れた途端、手をきゅっと締めつけられるような感覚が走った。
「……っ!」
紬は慌てて手を引っ込めた。
思わず、もう片方の手で指先を包み込む。
ほんの少し外へ出しただけなのに、こんなにも違うなんて。
ここまで冷たいとは思わなかった。
紬が自分の手を見つめていた、そのときだった。
――ギリギリギリギリ……。
遠くから、嫌な音が聞こえてきた。
何か硬いものを、無理やりこすり合わせているような音。
紬は顔を上げた。
「……何の音?」
ギリギリギリギリ……。
音は、森の奥から聞こえてくる。
その瞬間、ルーチェが動いた。
石垣のそばにいたルーチェは、大きく羽ばたくと、紬を追い越して石垣の上へと飛び立った。
そして、全身の羽根を逆立たせる。
いつもなら、どこか余裕を感じさせるルーチェの姿。
けれど、今は違った。
羽根の一枚一枚が鋭く立ち、身体全体から強い警戒が伝わってくる。
ルーチェは、森の奥をまっすぐに見据えた。
そして――。
【ギュアァアアアア!】
紬は息をのんだ。
聞いたことのない声だった。
いつもの鳴き声とは、まるで違う。
鋭く、激しく、森を震わせるような叫び。
ルーチェが、こんな声を出すなんて。
紬が驚きに固まっている間にも、嫌な音は続いていた。
――ギリギリギリギリ……。
先ほどよりも、音が大きくなっている。
ギリギリギリギリ……。
ギリギリギリギリ……。
音が近づくにつれ、紬の胸の奥がざわついた。
何かがいる。
森の奥から、こちらへ向かってきている。
そう感じた瞬間、木々の間で黒いものが動いた。
最初は、ただの影に見えた。
けれど、それは違った。
木々の間から現れたのは、漆黒の霧に包まれた、巨大な口だった。
口の中には、鋭く尖ったギザギザの歯が並んでいる。
それらが、ぎりぎりと音を立てて噛み合わされていた。
ギリギリギリギリ。
黒い霧は口の周囲にまとわりつき、輪郭を曖昧にしている。
その奥に、巨大な目があった。
ひとつの目が、まっすぐにこちらを見ていた。
紬は動けなかった。
目が合った。
そう思った瞬間、身体の奥がひやりと冷たくなる。
あれは、何だろう。
生き物なのだろうか。
それとも、別の何かなのだろうか。
わからない。
ただ、あれがこちらを見ていることだけは、はっきりとわかった。
ギリギリギリギリ……。
歯の鳴る音が、さらに大きくなる。
紬は、無意識に一歩後ろへ下がった。
その瞬間だった。
黒いものが、動いた。
雪を蹴散らし、木々の間を抜け、こちらへ向かって走り出す。
速い。
あまりにも、速かった。
「――っ!」
紬が声を上げるよりも早く、左右から小さな身体が飛び込んできた。
ルーチェとルリだ。
ふたりは紬の襟をつかみ、後ろへ引っ張った。
「きゃっ!」
紬の身体が後ろへ倒れる。
雪が舞い上がり、視界が白く染まった。
その直後。
黒いものは、石垣のすぐ前まで迫っていた。
巨大な口が開く。
ギザギザの歯が、紬たちへと向けられた。
来る。
そう思った瞬間――。
ガキィィィンンッ!
耳をつんざくような音が響いた。
黒いものの巨体が、何かにぶつかったかのように大きく弾かれた。
雪が激しく舞い上がる。
けれど、石垣は揺れていなかった。
傷ひとつ、ついていない。
黒いものは、石垣を越えられなかった。
まるで、その先に見えない壁が存在しているかのように。
紬は雪の上に倒れたまま、目を見開いていた。
目の前にいるのは、確かに巨大な何かだった。
漆黒の霧に包まれた口。
ギリギリと鳴る歯。
こちらを見据える、巨大な目。
それが、すぐそこにいる。
けれど、こちら側には入ってこられない。
黒いものは、再び石垣へ向かって身体を押しつけた。
ガリ、ガリ、ガリ……。
歯が鳴る。
霧が揺れる。
それでも、見えない何かに阻まれ、先へ進めない。
その後も、怪物は何度か石垣にぶつかった。
ガキィンッ!
ガキィンッ!
そのたびに、黒い巨体は弾き返される。
やがて、いくら試しても通れないとわかったのか、怪物は動きを止めた。
ギリギリギリギリ……。
忌々しげに歯を鳴らしながら、巨大な目が紬を捉える。
まるで、目の前にいる紬だけは逃がさないとでも言うように。
そのときだった。
ガキィンッ!
再び石垣にぶつかった衝撃で、怪物を包んでいた黒い霧が大きく剥がれた。
紬は、息を止めた。
霧の奥から現れたのは、巨大な狐のような姿だった。
黒々とした身体に、長い四肢。
けれど、普通の狐とは明らかに違っていた。
口が、異様に長い。
いや、長いというだけではない。
その口は鼻先から首元にまで続いているかのように大きく裂け、内側には鋭い歯がずらりと並んでいた。
ギリギリギリギリ……。
歯が噛み合わされるたび、あの不快な音が響いている。
怪物は、再び紬を見た。
巨大な目が、じっとこちらを睨みつける。
身体を包んでいた黒い霧が揺らめき、傷ついた輪郭を覆い隠そうとしていた。
紬は動けなかった。
怖い。
頭の中に浮かぶのは、それだけだった。
その前に、白い影が立った。
ルーチェだった。
紬を庇うように両翼を広げ、怪物を真っ直ぐに睨みつける。
いつものルーチェとは違う。
その姿からは、近づくことすら許さないという強い意志が伝わってきた。
ルーチェは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸が大きく膨らむ。
嘴の奥に、白い光が生まれた。
淡い光は瞬く間に強まり、ルーチェの嘴を包み込んでいく。
やがて、その光は目を開けていられないほどの眩しさになった。
そして――。
シュンッ!
白い光が、一直線に飛んだ。
怪物に届いた瞬間。
ぎゃあああああああああァ”ァ”ァ”ァ”ァ”――!
森を震わせる、凄まじい悲鳴が上がった。
黒い身体が激しくのたうつ。
光を受けた部分は焼け爛れたように変色し、まとわりついていた黒い霧が大きく乱れた。
怪物は石垣から後ずさった。
ギリギリギリギリ……!
歯を鳴らしながら、再び紬を睨みつける。
その目には、怒りと憎しみが浮かんでいるように見えた。
紬は、ルーチェの背中越しにその姿を見つめていた。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
そのとき。
背後から、聞き慣れないほど鋭い鳴き声が響いた。
【キョアアアアア!】
紬は、はっとして振り返った。
そこに立っていたのは、アルブレーヴだった。
雪の中でも際立つ白い毛並み。
二本の角。
いつもは穏やかに見えるその姿から、今は強い威圧感が放たれていた。
アルブレーヴが姿を現した瞬間、怪物の動きが止まった。
巨大な目が見開かれる。
それまで紬を睨みつけていた視線が、アルブレーヴへと移った。
そして。
怪物は、一歩、後退した。
アルブレーヴは、紬の横を静かに通り過ぎた。
石垣の内側から、外へ。
紬は思わず手を伸ばしかけた。
「アルブレーヴ……!」
けれど、アルブレーヴは振り返らなかった。
雪の降り続く森へ足を踏み出し、怪物と正面から向き合う。
両者の間に、張り詰めた静寂が落ちた。
アルブレーヴが、一歩進む。
怪物は、一歩下がった。
もう一歩。
怪物もまた、後退する。
先ほどまで石垣を何度も打ち破ろうとしていた存在が、今はアルブレーヴから距離を取ろうとしていた。
アルブレーヴは、静かに顔を上げた。
【キョアアアアア!】
鋭い鳴き声が、雪の森に響き渡る。
そして、次の瞬間。
【去れ】
短い言葉だった。
けれど、その声には逆らうことを許さない、絶対的な重みがあった。
怪物の身体が震えた。
巨大な目が、アルブレーヴを見つめる。
ギリ……ギリギリ……。
歯が、かすかに鳴った。
それでも、もう前へは進まなかった。
やがて怪物は、身を翻した。
黒い霧が大きく揺れ、巨大な身体が雪の中へと駆け出す。
木々の間へ。
白い景色の奥へ。
その姿は、あっという間に遠ざかっていった。
最後まで、ギリギリという不快な音だけを残して。
やがて、その音も聞こえなくなった。
森に、静けさが戻る。
雪は何事もなかったかのように、しんしんと降り続けていた。
アルブレーヴは、しばらく森の奥を見つめていた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
雪を踏みしめながら石垣の内側へ戻ってくると、紬のすぐそばまで歩み寄った。
その途端、小さな影が紬の顔の前に飛んできた。
ルリだった。
「ツムギ、ダイジョウブ?」
いつもの好奇心いっぱいの声とは違う。
小さな顔には、心配そうな色が浮かんでいた。
「……うん」
そう答えようとしたけれど、声が少しかすれた。
アルブレーヴがそっと顔を寄せ、紬の頬に自分の頬を触れさせる。
温かな毛並みが、冷えた頬に触れた。
そして、後ろからも。
ルーチェが、紬の背中にぴとっと身体を寄せてきた。
いつもなら頼もしく、堂々としているルーチェ。
けれど今は、紬の様子を確かめるように、ぴったりとくっついて離れなかった。
ルリも、アルブレーヴも、ルーチェも。
みんな、紬を心配してくれている。
そのことがわかると、張り詰めていたものが、少しずつほどけていった。
紬は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
もう一度、深く息を吸って。
ようやく、身体の震えが少し落ち着いた。
「……はぁ。びっくりしたぁ」
紬は苦笑いを浮かべた。
「ごめんね。ちょっと……腰、抜けちゃった」
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
自分でも情けないと思うけれど、あんなものを目の前にして、平気でいられるはずもなかった。
紬は、そばにいてくれるみんなを見回した。
「助けてくれて、ありがとう」
ルリが、ほっとしたように小さく羽ばたく。
ルーチェは背中に寄り添ったまま、アルブレーヴは頬を寄せたまま、紬のそばにいてくれた。
紬は、もう一度みんなの顔を見て、柔らかく笑った。
「……みんな、本当にありがとう」
降り続く雪の中。
紬は、温かな仲間たちに囲まれていた。




