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本に結ばれた人~知識と生存の本〜(ネギを握りしめて異世界に落ちた私の、のんびりサバイバル)  作者: 式文紫
第3章 冬霞~森に広がる新たな縁~

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第104話 石垣の向こう

第104話 石垣の向こう


 紬は、石垣のすぐそばまで歩いてきた。


 雪を踏みしめる音だけが、静かな森に響いている。


 石垣に手をかけ、そっと外を眺めた。


 外では、雪がしんしんと降り続いていた。


 空から舞い落ちる白い雪は、地面だけでなく、木々の枝にもたっぷりと積もっている。枝は雪の重みに耐えるようにしなり、森全体が白い静寂に包まれていた。


 ここから見る限り、いつもと変わらない冬の森だ。


 紬は石垣の上から、ゆっくりと手を外へ伸ばした。


 指先が、石垣の外の空気に触れる。


 ――冷たい。


 石壁の内側とは、まるで違う。


 冷気が指先に触れた途端、手をきゅっと締めつけられるような感覚が走った。


 「……っ!」


 紬は慌てて手を引っ込めた。


 思わず、もう片方の手で指先を包み込む。


 ほんの少し外へ出しただけなのに、こんなにも違うなんて。


 ここまで冷たいとは思わなかった。


 紬が自分の手を見つめていた、そのときだった。


 ――ギリギリギリギリ……。


 遠くから、嫌な音が聞こえてきた。


 何か硬いものを、無理やりこすり合わせているような音。


 紬は顔を上げた。


 「……何の音?」


 ギリギリギリギリ……。


 音は、森の奥から聞こえてくる。


 その瞬間、ルーチェが動いた。


 石垣のそばにいたルーチェは、大きく羽ばたくと、紬を追い越して石垣の上へと飛び立った。


 そして、全身の羽根を逆立たせる。


 いつもなら、どこか余裕を感じさせるルーチェの姿。


 けれど、今は違った。


 羽根の一枚一枚が鋭く立ち、身体全体から強い警戒が伝わってくる。


 ルーチェは、森の奥をまっすぐに見据えた。


 そして――。


 【ギュアァアアアア!】


 紬は息をのんだ。


 聞いたことのない声だった。


 いつもの鳴き声とは、まるで違う。


 鋭く、激しく、森を震わせるような叫び。


 ルーチェが、こんな声を出すなんて。


 紬が驚きに固まっている間にも、嫌な音は続いていた。


 ――ギリギリギリギリ……。


 先ほどよりも、音が大きくなっている。


 ギリギリギリギリ……。


 ギリギリギリギリ……。


 音が近づくにつれ、紬の胸の奥がざわついた。


 何かがいる。


 森の奥から、こちらへ向かってきている。


 そう感じた瞬間、木々の間で黒いものが動いた。


 最初は、ただの影に見えた。


 けれど、それは違った。


 木々の間から現れたのは、漆黒の霧に包まれた、巨大な口だった。


 口の中には、鋭く尖ったギザギザの歯が並んでいる。


 それらが、ぎりぎりと音を立てて噛み合わされていた。


 ギリギリギリギリ。


 黒い霧は口の周囲にまとわりつき、輪郭を曖昧にしている。


 その奥に、巨大な目があった。


 ひとつの目が、まっすぐにこちらを見ていた。


 紬は動けなかった。


 目が合った。


 そう思った瞬間、身体の奥がひやりと冷たくなる。


 あれは、何だろう。


 生き物なのだろうか。


 それとも、別の何かなのだろうか。


 わからない。


 ただ、あれがこちらを見ていることだけは、はっきりとわかった。


 ギリギリギリギリ……。


 歯の鳴る音が、さらに大きくなる。


 紬は、無意識に一歩後ろへ下がった。


 その瞬間だった。


 黒いものが、動いた。


 雪を蹴散らし、木々の間を抜け、こちらへ向かって走り出す。


 速い。


 あまりにも、速かった。


 「――っ!」


 紬が声を上げるよりも早く、左右から小さな身体が飛び込んできた。


 ルーチェとルリだ。


 ふたりは紬の襟をつかみ、後ろへ引っ張った。


 「きゃっ!」


 紬の身体が後ろへ倒れる。


 雪が舞い上がり、視界が白く染まった。


 その直後。


 黒いものは、石垣のすぐ前まで迫っていた。


 巨大な口が開く。


 ギザギザの歯が、紬たちへと向けられた。


 来る。


 そう思った瞬間――。


 ガキィィィンンッ!


 耳をつんざくような音が響いた。


 黒いものの巨体が、何かにぶつかったかのように大きく弾かれた。


 雪が激しく舞い上がる。


 けれど、石垣は揺れていなかった。


 傷ひとつ、ついていない。


 黒いものは、石垣を越えられなかった。


 まるで、その先に見えない壁が存在しているかのように。


 紬は雪の上に倒れたまま、目を見開いていた。


 目の前にいるのは、確かに巨大な何かだった。


 漆黒の霧に包まれた口。


 ギリギリと鳴る歯。


 こちらを見据える、巨大な目。


 それが、すぐそこにいる。


 けれど、こちら側には入ってこられない。


 黒いものは、再び石垣へ向かって身体を押しつけた。


 ガリ、ガリ、ガリ……。


 歯が鳴る。


 霧が揺れる。


 それでも、見えない何かに阻まれ、先へ進めない。


 その後も、怪物は何度か石垣にぶつかった。


 ガキィンッ!


 ガキィンッ!


 そのたびに、黒い巨体は弾き返される。


 やがて、いくら試しても通れないとわかったのか、怪物は動きを止めた。


 ギリギリギリギリ……。


 忌々しげに歯を鳴らしながら、巨大な目が紬を捉える。


 まるで、目の前にいる紬だけは逃がさないとでも言うように。


 そのときだった。


 ガキィンッ!


 再び石垣にぶつかった衝撃で、怪物を包んでいた黒い霧が大きく剥がれた。


 紬は、息を止めた。


 霧の奥から現れたのは、巨大な狐のような姿だった。


 黒々とした身体に、長い四肢。


 けれど、普通の狐とは明らかに違っていた。


 口が、異様に長い。


 いや、長いというだけではない。


 その口は鼻先から首元にまで続いているかのように大きく裂け、内側には鋭い歯がずらりと並んでいた。


 ギリギリギリギリ……。


 歯が噛み合わされるたび、あの不快な音が響いている。


 怪物は、再び紬を見た。


 巨大な目が、じっとこちらを睨みつける。


 身体を包んでいた黒い霧が揺らめき、傷ついた輪郭を覆い隠そうとしていた。


 紬は動けなかった。


 怖い。


 頭の中に浮かぶのは、それだけだった。


 その前に、白い影が立った。


 ルーチェだった。


 紬を庇うように両翼を広げ、怪物を真っ直ぐに睨みつける。


 いつものルーチェとは違う。


 その姿からは、近づくことすら許さないという強い意志が伝わってきた。


 ルーチェは、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 胸が大きく膨らむ。


 嘴の奥に、白い光が生まれた。


 淡い光は瞬く間に強まり、ルーチェの嘴を包み込んでいく。


 やがて、その光は目を開けていられないほどの眩しさになった。


 そして――。


 シュンッ!


 白い光が、一直線に飛んだ。


 怪物に届いた瞬間。


 ぎゃあああああああああァ”ァ”ァ”ァ”ァ”――!


 森を震わせる、凄まじい悲鳴が上がった。


 黒い身体が激しくのたうつ。


 光を受けた部分は焼け爛れたように変色し、まとわりついていた黒い霧が大きく乱れた。


 怪物は石垣から後ずさった。


 ギリギリギリギリ……!


 歯を鳴らしながら、再び紬を睨みつける。


 その目には、怒りと憎しみが浮かんでいるように見えた。


 紬は、ルーチェの背中越しにその姿を見つめていた。


 逃げなければ。


 そう思うのに、足が動かない。


 そのとき。


 背後から、聞き慣れないほど鋭い鳴き声が響いた。


 【キョアアアアア!】


 紬は、はっとして振り返った。


 そこに立っていたのは、アルブレーヴだった。


 雪の中でも際立つ白い毛並み。


 二本の角。


 いつもは穏やかに見えるその姿から、今は強い威圧感が放たれていた。


 アルブレーヴが姿を現した瞬間、怪物の動きが止まった。


 巨大な目が見開かれる。


 それまで紬を睨みつけていた視線が、アルブレーヴへと移った。


 そして。


 怪物は、一歩、後退した。


 アルブレーヴは、紬の横を静かに通り過ぎた。


 石垣の内側から、外へ。


 紬は思わず手を伸ばしかけた。


 「アルブレーヴ……!」


 けれど、アルブレーヴは振り返らなかった。


 雪の降り続く森へ足を踏み出し、怪物と正面から向き合う。


 両者の間に、張り詰めた静寂が落ちた。


 アルブレーヴが、一歩進む。


 怪物は、一歩下がった。


 もう一歩。


 怪物もまた、後退する。


 先ほどまで石垣を何度も打ち破ろうとしていた存在が、今はアルブレーヴから距離を取ろうとしていた。


 アルブレーヴは、静かに顔を上げた。


 【キョアアアアア!】


 鋭い鳴き声が、雪の森に響き渡る。


 そして、次の瞬間。


 【去れ】


 短い言葉だった。


 けれど、その声には逆らうことを許さない、絶対的な重みがあった。


 怪物の身体が震えた。


 巨大な目が、アルブレーヴを見つめる。


 ギリ……ギリギリ……。


 歯が、かすかに鳴った。


 それでも、もう前へは進まなかった。


 やがて怪物は、身を翻した。


 黒い霧が大きく揺れ、巨大な身体が雪の中へと駆け出す。


 木々の間へ。


 白い景色の奥へ。


 その姿は、あっという間に遠ざかっていった。


 最後まで、ギリギリという不快な音だけを残して。


 やがて、その音も聞こえなくなった。


 森に、静けさが戻る。


 雪は何事もなかったかのように、しんしんと降り続けていた。


 アルブレーヴは、しばらく森の奥を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと振り返る。


 雪を踏みしめながら石垣の内側へ戻ってくると、紬のすぐそばまで歩み寄った。


 その途端、小さな影が紬の顔の前に飛んできた。


 ルリだった。


 「ツムギ、ダイジョウブ?」


 いつもの好奇心いっぱいの声とは違う。


 小さな顔には、心配そうな色が浮かんでいた。


 「……うん」


 そう答えようとしたけれど、声が少しかすれた。


 アルブレーヴがそっと顔を寄せ、紬の頬に自分の頬を触れさせる。


 温かな毛並みが、冷えた頬に触れた。


 そして、後ろからも。


 ルーチェが、紬の背中にぴとっと身体を寄せてきた。


 いつもなら頼もしく、堂々としているルーチェ。


 けれど今は、紬の様子を確かめるように、ぴったりとくっついて離れなかった。


 ルリも、アルブレーヴも、ルーチェも。


 みんな、紬を心配してくれている。


 そのことがわかると、張り詰めていたものが、少しずつほどけていった。


 紬は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。


 そして、ゆっくりと吐き出す。


 もう一度、深く息を吸って。


 ようやく、身体の震えが少し落ち着いた。


 「……はぁ。びっくりしたぁ」


 紬は苦笑いを浮かべた。


 「ごめんね。ちょっと……腰、抜けちゃった」


 立ち上がろうとしても、足に力が入らない。


 自分でも情けないと思うけれど、あんなものを目の前にして、平気でいられるはずもなかった。


 紬は、そばにいてくれるみんなを見回した。


 「助けてくれて、ありがとう」


 ルリが、ほっとしたように小さく羽ばたく。


 ルーチェは背中に寄り添ったまま、アルブレーヴは頬を寄せたまま、紬のそばにいてくれた。


 紬は、もう一度みんなの顔を見て、柔らかく笑った。


 「……みんな、本当にありがとう」


 降り続く雪の中。


 紬は、温かな仲間たちに囲まれていた。

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