第102話 雪の森に灯るもの~呼吸~
第102話 雪の森に灯るもの
紬は、完成したばかりのフルエールポーションを両手でそっと持ち上げた。
ブルーバンブーの容器に収められた、白くとろみのある液体。光を受けると、表面がわずかにきらめいて見える。
《知識と生存》に記された内容を、もう一度確かめる。
【名称】フルエールポーション(アルカンシエル特別仕様)
【分類】希少治癒薬
【属性】光・水
【状態】良好
【特徴】白く、とろみのある液体。
【性質】極めて高い治癒力を持つ。
【能力】一滴で全身を治癒する。
【備考】極めて希少なポーション。特殊な素材に加え、アルカンシエルの抜け羽を用いて調合された特別な一品。
改めて読むと、とんでもないものを作ってしまった気がする。
けれど、材料を集めてくれたルリとルーチェの姿を思い出すと、自然と頬が緩んだ。
紬は容器の蓋をしっかり閉め、倒れたり傷ついたりしないよう、ほかの道具とは分けて大切にしまった。
これで、もしものときにも役立てられる。
そんな安心を胸に、紬は暖炉のそばへと戻っていった。
外では、雪が静かに降り続いている。
石壁の内側を包む白い景色は穏やかで、森の木々も雪の重みに耐えながら、じっと春を待っているようだった。
けれど、雪に覆われた森が眠っているわけではない。
その白い世界を、ひとつの影が音もなく駆け抜けていた。
白銀の毛並みを持つ、二本の角の鹿。
アルブレーヴである。
その身体は、降り積もった雪と見分けがつかないほど白かった。木々の間を通り抜けるたび、柔らかな光が毛先に宿り、細かな雪の粒とともにきらきらと輝く。
角の先には、小さな白い鳥たちがちょこんと止まっていた。
シロエナガの家族だ。
ふわふわの羽毛を膨らませた彼らは、風に揺られながらも楽しそうに周囲を見回している。
アルブレーヴが雪の上を軽やかに跳ぶと、鳥たちの身体も小さく揺れた。
【ココ、ココ!】
【ユキ、イッパイ!】
【オチル、オチル!】
騒がしい声に、アルブレーヴは耳をぴくりと動かした。
【落ちないように気をつけろ。お前たちが落ちても、私は拾ってやらないぞ】
【ダイジョウブ!】
【オチナイ!】
【ホント?】
【……タブン!】
自信たっぷりに答えたかと思えば、最後には頼りない返事が混じる。
アルブレーヴは、わずかに目を細めた。
この小さな鳥たちは、いつもこんな調子だ。
それでも、森の変化にはよく気がつく。小さな身体であちこちを飛び回り、仲間たちと情報を伝え合っているのだから、侮れない。
やがて、見慣れた石壁が木々の向こうに現れた。
紬の住まいである。
アルブレーヴは家の前を通り過ぎるように、雪の積もった庭のそばを軽く駆けた。
そのとき、角に止まっていたシロエナガの一羽が、ひょいと地面へ降り立った。
雪の隙間から顔をのぞかせている、緑色の葉。
それを見つけた途端、小鳥の目が輝いた。
【ミドリノフエター!】
【アッタ! アッタ!】
小鳥は雪を払い、ネギの葉を傷つけないように、そっと根元を確かめた。
そして、一本だけ抜き取ると、大切そうにくちばしでくわえた。
【コレ、モラウ!】
【ツムギ、クレタ!】
【ミドリ、イッパイ!】
仲間たちも次々に集まってくる。
【ココ、ウエル!】
【アッチモ!】
【コレモ、ウエル!】
【マダ、アル!】
どうやら、一本だけ持ち帰るつもりではなかったらしい。
アルブレーヴは足を止め、鳥たちを見下ろした。
【……あの子からもらったものを、ずいぶん大切にしているのだな】
【タイセツ!】
【ツムギ、クレタ!】
【ダイジ!】
シロエナガたちは、声をそろえるように答えた。
【デモ、ココ、セマイ!】
【ウエル?】
【デキナイ!】
【ムリ!】
ひとしきり騒いだあと、彼らはそれぞれネギをくわえ、森の奥へと飛び立っていった。
アルブレーヴも、再び歩き始める。
冬の森を見回るのは、いつもの務めだった。
雪の深さ。凍りついた水の流れ。風に折れた枝。冬を越す生き物たちの気配。
確かめることは多い。
だが、今日の森には、いつもと違うものがあった。
雪の合間から、緑の葉が顔を出している。
一本、また一本。
木の根元や岩陰、雪が浅く積もった場所。そこかしこに、ネギが育ち始めていた。
紬の庭から遠く離れた場所にも。
小さな白いネズミが土を掘り、白いリスが前足で土を寄せる。シロエナガたちは、くわえてきたネギを仲間と協力して植えていた。
誰かに命じられたわけではない。
彼らはただ、紬からもらったものを大切にしようとしているだけだった。
その小さな行いが、少しずつ森へ広がっていた。
そして、ネギの葉には不思議な変化が現れ始めていた。
淡い白色の光。
強く輝くわけではない。雪明かりに紛れてしまいそうなほど、やさしい光だった。
けれど、葉先からこぼれた光の粒は、雪の上に落ちるとふわりと広がり、周囲をほんのりと照らしていた。
【ミドリノフエター!】
シロエナガが声を上げる。
【キラキラ〜!】
【キレイ!】
【フシギ!】
彼らは光の正体を知らない。
ただ、きれいだと思った。
だから、今日もネギを植える。
森のあちこちに、緑を増やしていく。
アルブレーヴは、その様子を静かに見守った。
この森には、長い時間をかけて積み重なったものがある。
人の知らない約束も、忘れられた祈りも、今では誰も語らないほど古いものも。
そのすべてが、完全に失われたわけではない。
そう感じさせる何かが、白い森の奥で、かすかに息づいていた。
アルブレーヴは、やがて進路を変えた。
向かう先は、岩山の麓にある洞窟だった。
かつて紬が迷い込み、地下の水辺へとたどり着いた場所。
入口には雪が吹き込んでいたが、奥へ進むにつれて冷たい風は弱まり、壁や天井には光源草の淡い光が浮かび上がっていた。
アルブレーヴは慣れた足取りで進んでいく。
やがて、人工物のような石段が現れた。
その先にあるのは、広い地下の空間。
澄んだ水をたたえた場所の中央には、小さな島があり、石の橋がそこへと続いている。
島の中央には、古びた碑石が静かに立っていた。
白い花々に囲まれ、天井から差し込む光を受け止めるように。
アルブレーヴは、石橋を渡って島へと進んだ。
以前、この場所を訪れたときには、花の一部が弱り、今にも枯れそうになっていた。
その傍らには、小さなネギが植えられていた。
今、その場所は様変わりしていた。
ネギが、わさわさと葉を広げている。
一本や二本ではない。
雪の森で見たものと同じ緑が、碑石の周囲にいくつも育ち、白い花々の根元を埋めるように広がっていた。
葉先からこぼれる淡い光が、足元の土を照らしている。
その光は、少しずつ集まり、碑石の表面へと流れていった。
アルブレーヴは、足を止めた。
碑石は、何も語らない。
刻まれた模様も、文字とも図形ともつかない古い跡も、以前と変わらず沈黙を守っている。
けれど。
ふ、と。
碑石の表面に集まった光が、わずかに吸い込まれた。
まるで、息を吸うように。
しばらくの静寂。
そして、また、ふ、と。
ネギの葉からこぼれた白い光が、ゆっくりと碑石の内側へ消えていく。
吸って、止まる。
吸って、止まる。
その繰り返しは、あまりにも静かで、見落としてしまいそうなほどだった。静かな呼吸のようだ。
シロエナガたちも、いつの間にか声を潜めていた。
【……コレデ、ダイジョウブ?】
小さな問いかけが、地下の空間に響く。
別の一羽が、すぐに答えた。
【ダイジョウブ!】
【ホント?】
【ダイジョウブ!】
返事をした鳥も、本当のことを知っているわけではないのだろう。
それでも、そう答えたかったのだ。
アルブレーヴは、碑石を見つめたまま、静かに目を細めた。
その奥にあるもの。
長い時間、かろうじて命をつないできた何か。
今にも途切れそうだったものが、ほんの少しずつ、息を吹き返そうとしている。
アルブレーヴには、それがわかった。
【……生きながらえたな】
シロエナガたちが、互いの顔を見合わせる。
【ギリギリ、ダッタ?】
【デモ、ダイジョウブ?】
【ヨカッタ……】
【ヨカッタネ!】
アルブレーヴは、ゆっくりとうなずいた。
【ああ。もう少し遅ければ、危なかっただろう】
碑石は、何も答えない。
ただ、静かに呼吸を続けていた。
ネギの葉から生まれる淡い光が、その呼吸に合わせるように、ゆっくりと吸い込まれていく。
アルブレーヴは、しばらくその場を動かなかった。
やがて、シロエナガたちを角に乗せ直し、静かに踵を返す。
【……ああ。今は、もう大丈夫だ】
その言葉を最後に、地下の空間には再び静寂が戻った。
白い光は、今日も絶えることなく、そこにあった。
それが何を守り、何をつなぎとめているのか。
まだ、誰も知らない。
ただ、雪に覆われた森のあちこちで、緑の葉が小さく揺れていた。
その葉先には、やさしい光が灯っていた。




