第99話 水辺のフェアリーと、見えない石
第99話 水辺のフェアリーと、見えない石
沢の水は、絶え間なく流れ続けていた。
雪をかぶった岩の隙間を、澄んだ水がすり抜けていく。流れの緩やかな場所には薄い氷が張り、水の勢いが強いところでは、氷の縁を揺らしながら透明な流れが続いていた。
いつも見ていたはずの沢なのに、雪に覆われた森の中では、まるで別の場所のように感じられる。
わたしは沢を覗き込みながら、ルリの言う「あんなか」が何を指しているのか考えていた。
……まさか、本当に水の中に入れってことじゃないよね?
そんなことを考えていた、そのときだった。
水面の下で、何かが動いた。
「……あれ?」
透明な水の中を、淡い光がふわりと横切った。
魚……ではない。
細く透き通った羽が、ゆっくりと開いたように見えた。
次の瞬間。
水の中から、ふわり。
一匹の蝶々が浮かび上がってきた。
その羽は半透明で、冬の光を受けるたび、淡くきらめいている。輪郭ははっきりしているのに、羽の向こう側にある景色が透けて見えた。
そして、不思議なことに。
水の中から出てきたはずなのに、羽には一滴の水もついていなかった。
「えっ……?」
蝶々は水面の上を、何事もなかったかのようにふわふわと飛んでいる。
濡れていない。
そもそも、どうやって水の中から出てきたんだろう。
わたしは目を凝らした。
半透明の羽。小さな身体。どこか普通の蝶々とは違う、不思議な気配。
「……あれ? あの蝶々、もしかして……」
そのとき、ルリがふわりと飛び立った。
蝶々を見つけると、楽しそうに近づいていく。
すぐそばまで飛んでいき、しばらくその周りをくるくると回った。
蝶々もルリに気づいたのか、羽ばたきを止めて振り返った。
その瞬間。
ルリが、蝶々の後ろへ回り込んだ。
そして――。
「わっ!」
小さな声とともに、両手を広げて飛び出した。
ぽんっ!
軽い音が、沢の上に響いた。
半透明の蝶々が、淡い光に包まれる。
光は一瞬だけ大きく広がり、すぐに小さな人影へと変わった。
そこに現れたのは、白っぽい姿をした小さなフェアリーだった。
髪はふんわりと白く、毛先だけが半透明になっている。光を受けるたび、その先端が水のように透き通って見えた。
背中には、薄く透き通った羽。
そして、その顔は――。
きゅっと目が吊り上がっていた。
【ЖКИЙЗ! ∅※◇ーー!】
フェアリーはルリを指さし、何やら勢いよく叫んだ。
ルリは楽しそうに笑いながら、ひらりと飛び上がった。
白いフェアリーも、すぐさま後を追う。
【ღ¿♯ЖКИЙЗーー!】
こらー!
そんな声が聞こえてきそうな勢いだった。
ルリは沢の上を、右へ左へと飛び回る。
白いフェアリーは頬を膨らませ、必死に追いかけていた。
けれど、とうとう逃げ道を塞がれてしまったらしい。
【ЖКИЙЗーーー!】
白いフェアリーが両手を伸ばし、ルリを捕まえた。
そして、その小さな頭に――ぽこんっ。
小さなたんこぶができた。
「ルリ、大丈夫?」
思わず声をかけると、ルリはまったく懲りた様子もなく、楽しそうに笑っていた。
むしろ、面白いことがあったとでもいうように、羽をぱたぱたさせている。
【∅※◇ーー!】
白いフェアリーは何やら怒鳴りながら、ルリを指さした。
……うん。
どう見ても、怒っている。
わたしが苦笑いを浮かべていると、白いフェアリーがふと動きを止めた。
ぴたり、と。
まるで時間が止まったかのように、空中で静止する。
そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。
次の瞬間。
【ЖЖЖーーー!?】
白いフェアリーが、驚きの声を上げた。
そのままルリの胸元を両手でつかむと、ぐいっと持ち上げた。
【∅※◇!? ღ¿♯ЖКИЙЗーーー!】
ルリの身体が、左右にぶんぶんと揺れる。
白いフェアリーは、わたしを指さし、それからルリを見て、またわたしを指さした。
【ЖКИЙЗ!? ∅※◇……!】
どうやら、ものすごく言いたいことがあるらしい。
その様子を見ていると、言葉がわからなくても、なんとなく伝わってくる。
――なんで人間を連れてきたの!
たぶん、そんなところだろう。
わたしは思わず、自分を指さした。
「……えっと、わたし?」
白いフェアリーの動きが、またぴたりと止まった。
そして、じっとわたしを見つめる。
……あれ?
もしかして、わたし、歓迎されていない?
すると、ルリが突然、白いフェアリーの手をぎゅっと握った。
【∅※◇!?】
白いフェアリーが驚いた声を上げる。
けれど、ルリはお構いなしだった。
【ღ¿♯ЖКИЙЗ!】
弾むような声で話しかけながら、ルリは白いフェアリーの手を引っ張った。
【ЖКИЙЗーー! ∅※◇……!】
白いフェアリーは必死に何かを訴えている。
それでもルリは手を離さない。
ふわり、ふわり。
二人は沢の上を飛びながら、わたしのほうへ近づいてくる。
ルリはとても楽しそうだった。
まるで、ねえねえ、こっちこっち! と友達を連れてくる子どものようだ。
対する白いフェアリーは、まだ何かを叫んでいる。
【∅※◇ーー! ЖКИЙЗーーー!】
……ずいぶん怒っているみたいだけど、大丈夫なのかな。
そんなことを考えているうちに、二人はわたしの目の前までやってきた。
ルリは白いフェアリーの手を握ったまま、ぱっと顔を輝かせた。
「つむぎー! ともだちー!」
嬉しそうに笑いながら、白いフェアリーをわたしに紹介する。
まるで、新しくできた友達を見せにきた子どものようだった。
けれど、連れてこられた白いフェアリーは、わたしの姿を見た途端、ぴたりと動きを止めた。
そして、そろそろとルリの背後に隠れる。
握られた手はそのままに、顔だけを少し出して、わたしをじっと見つめていた。
「……こんにちは?」
わたしが声をかけても、返事はない。
ただ、白いフェアリーの瞳が、警戒するようにわたしを見つめ続けていた。
その隣では、ルリが満足そうににこにこと笑っている。
……えっと。
ルリにとっては、もう友達なんだね。
でも、この子のほうは、まだそう思ってくれていないみたい。
わたしは少し考えてから、腰に提げていたポーチに手を入れた。
「そうだ。おやつ、食べる?」
取り出したのは、アカツブのドライフルーツだ。秋に収穫して乾燥させておいたもので、甘酸っぱい味がする。保存も利くので、こういう散歩のときにも持ち歩いている。
わたしは一つを半分に分けた。
「はい、ルリ。半分こね」
「やったー!」
ルリはぱっと顔を輝かせ、差し出したドライフルーツを受け取った。
さっきまで白いフェアリーを引っ張ってきたことなど、もうすっかり忘れているようだ。
小さな手でドライフルーツを持ち、嬉しそうに眺めている。
わたしは、もう半分を白いフェアリーに差し出した。
「あなたも、よかったらどうぞ」
白いフェアリーは、びくりと肩を揺らした。
わたしの顔と、手のひらに載ったドライフルーツを交互に見ている。
すぐには受け取ろうとしなかった。
……やっぱり、知らない人から食べ物をもらうのは怖いよね。
そう思って手を引っ込めようとした、そのとき。
隣から、ルーチェが顔を寄せてきた。
「ギョ!」
そして、わたしの手元に視線を向ける。
……あ。
「ルーチェも食べたいの?」
「ギョ!」
今度ははっきりとした返事だった。
まるで、わたしにもくれ、と言っているみたいだ。
「はいはい。ちゃんとあるからね」
苦笑しながら、ポーチからもう一つ取り出す。
ルーチェは満足そうに受け取った。
その様子を、白いフェアリーがじっと見ていた。
ルーチェも、ルリも、わたしから食べ物をもらうことを当たり前のように受け入れている。
それを見て、少し安心したのだろうか。
白いフェアリーは、そろそろと手を伸ばした。
そして、わたしの手からドライフルーツを受け取った。
「……うん。どうぞ」
わたしが微笑むと、白いフェアリーは少しだけ身体を引いた。
受け取ったドライフルーツを両手で持ち、じっと見つめている。
くん、くん。
小さな鼻を近づけて、匂いを確かめ始めた。
甘酸っぱい香りが気になったのか、今度は少し角度を変えて、もう一度匂いを嗅いでいる。
その慎重な様子に、わたしは思わず頬を緩めた。
ルリはすでにドライフルーツを食べ始めている。
「おいしー!」
その声を聞いて、白いフェアリーがルリのほうをちらりと見た。
ルリは頬を緩ませながら、幸せそうに食べている。
ルーチェも、ゆっくりとドライフルーツを味わっていた。
白いフェアリーは、もう一度、手の中のドライフルーツに目を落とした。
そして、そっと口元へ運んだ。
小さな口が、もぐもぐと動いた。
もう一口。
そして、最後の欠片まで食べ終えると、ほんの少しだけ目を丸くした。
どうやら、気に入ってくれたらしい。
けれど、わたしと目が合うと、すぐにルリの背後へ隠れてしまった。
……まだ、ちょっと怖いのかな。
無理に仲良くなろうとしなくてもいい。少しずつ、わたしのことを知ってもらえたらいいな。
「ここに座ろうか」
わたしは沢の岸辺に目を向けた。
雪が積もったままでは冷たそうなので、手で雪を払い、地面が見える場所を作る。そこに腰を下ろすと、冷たい空気の中にも、レッドドリンクで温まった身体のぬくもりが残っていた。
流れる水の音が、すぐそばで絶え間なく響いている。
ルーチェはわたしの近くに降り立ち、ルリは白いフェアリーの手を握ったまま、わたしの目の前をふわふわと飛んでいた。
【∅※◇……?】
【ღ¿♯ЖКИЙЗ!】
白いフェアリーが何かを尋ねると、ルリが嬉しそうに答える。
今度はルーチェも会話に加わった。
「ギョ、ギョエ」
【ЖКИЙЗ……】
【∅※◇!】
三人は、まるで以前からこうして話していたかのように、自然に言葉を交わしている。
もちろん、わたしには何を話しているのかさっぱりわからない。
でも、さっきまで怒っていた白いフェアリーも、今は少し落ち着いたように見えた。
ルリが何かを話すたびに、白いフェアリーは表情を変え、時には身振りを交えて答えている。
……フェアリー同士だと、普通にお話しできるんだね。
わたしも、いつかルリともっとたくさんお話しできるようになったらいいな。
そんなことを思いながら、膝の上に置いていた《知識と生存》を開いた。
せっかく出会えた、不思議なフェアリーだ。
どんな子なのか、少し調べてみよう。
わたしは、白い髪と半透明の毛先を思い浮かべながら、ページをめくった。
すると、しばらくして文字が浮かび上がってきた。
【名称】水のフェアリー
【分類】妖精
【属性】水
【状態】良好
【特徴】半透明の羽と、白っぽい髪を持つ小さな人型の妖精。髪の毛先は半透明で、光の加減によって水のように透き通って見える。
【生息地】沢、川、湖などの水辺。
【性質】水辺を好み、水の中を泳いだり、水面付近を飛んだりして過ごす。
【能力】水中での活動。水と親和性が高く、水中でも自由に行動できる。
【備考】水辺で暮らす妖精。水の中にいても濡れることはない。
「へえ……!」
思わず声が出た。
やっぱり、水のフェアリーだったんだ。
水の中からふわっと出てきたのに、少しも濡れていなかった理由もわかった。
水の中を泳ぐことができて、水辺で暮らしている妖精。
わたしが知らないだけで、この森には、まだまだ不思議な生き物がいるんだ。
わたしは本の記録をもう一度読み返した。
水の中でも自由に活動できるなんて、ちょっとうらやましい。
……でも、わたしは普通の人間だから、真冬の沢に入るのは遠慮したいかな。
目の前では、ルリと水のフェアリーがまだ楽しそうに話していた。
ルーチェも時折、短く鳴いて会話に加わっている。
その光景を眺めながら、わたしは本をそっと閉じた。
そのときだった。
水のフェアリーが、ふいにこちらを向いた。
じっとわたしを見つめたあと、小さくこくりと頷く。
「……?」
何だろう?
わたしが首を傾げていると、水のフェアリーはルリの手をそっと離し、すっと立ち上がった。
そして、沢のほうへ向き直る。
半透明の羽が、冬の光を受けて淡くきらめいた。
「あ、ちょっと……?」
呼び止める間もなかった。
水のフェアリーは、ためらうことなく沢へ向かって飛び立った。
ふわりと水面の上を横切り、そのまま――。
ぽちゃん。
小さな水音を立てて、澄んだ沢の中へ飛び込んでいった。
「えっ!?」
わたしは思わず身を乗り出した。
水の中へ消えていく白い姿。
けれど、慌てる様子はまったくない。
水面に小さな波紋が広がり、すぐに流れの中へ溶けていった。
「……な、何をするつもりなんだろう?」
わたしは沢を覗き込みながら、目を凝らした。
ルリはというと、心配するどころか、わくわくした様子で水面を見つめている。
ルーチェも静かに沢の中へ視線を向けていた。
……もしかして、何か見せてくれるのかな?
そう思ったわたしは、冷たい水に近づきすぎないよう気をつけながら、その子が戻ってくるのを待つことにした。
しばらくすると、水面の奥で白い影が動いた。
「あっ!」
水のフェアリーだ。
ふわりと水面から姿を現したその子は、何かを両手で抱えていた。
……何だろう?
けれど、抱えているはずのものが見えない。
水のフェアリーは、何もない空間を抱きかかえているように見えた。
それなのに、動きはどこかぎこちない。小さな身体を傾け、重い荷物を運ぶように、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
途中で、ルリが気づいた。
「てつだうー!」
ルリはすぐに飛び立ち、水のフェアリーのそばへ向かった。
【∅※◇……!】
水のフェアリーが何かを言う。
【ღ¿♯ЖКИЙЗ!】
ルリは元気よく返事をすると、見えない何かの反対側へ回り込んだ。
二人で何かを支えるようにして、少しずつ岸辺へ近づいてくる。
……やっぱり、何かを持っているんだ。
でも、わたしにはまったく見えない。
水のフェアリーも、ルリも、何もない場所に向かって手を伸ばしているようにしか見えなかった。
やがて二人は、わたしの目の前までやってきた。
そして――。
コツッ。
小さな音が、足元から聞こえた。
「えっ?」
二人が何かを置いたらしい。
わたしは目を凝らした。
……何もない。
雪の上にも、地面にも、何も見えなかった。
けれど、確かに音がした。
それに、二人は何かを運び終えたような顔をしている。
「これ……何かあるの?」
わたしが尋ねると、水のフェアリーは小さく頷いた。
ルリも、うんうんと頷いている。
どうやら、そこに何かがあるのは間違いないらしい。
わたしは少しだけ迷ってから、そっと手を伸ばした。
指先を前へ。
何も見えない空間に触れた、その瞬間。
「……あっ!」
指に、硬い感触があった。
そこから手のひらを滑らせてみる。
つるりとしていて、丸い。
少しずつ形を確かめていくと、手のひらに収まるくらいの、硬い石のようなものだとわかった。
けれど、目には見えない。
触れているのに、そこにあるはずなのに、視線を向けても何も映らない。
「な、何これ……?」
わたしは指先で、もう一度その表面を確かめた。
丸い石。
少なくとも、触った感触はそうだった。
けれど、今まで出会った不思議なものとは違う。
光っているわけでも、色が変わるわけでもない。
ただ、完全に見えないのだ。
不思議すぎる。
わたしが困惑していると、ルーチェがそばへ寄ってきた。
「ギョ?」
ルーチェは見えない石らしきものを覗き込むように首を傾けた。
そして、くちばしをそっと近づける。
コツン。
軽くつついた、その瞬間だった。
「あっ……!」
何もなかったはずの場所に、ほんのわずかな輪郭が浮かび上がった。
丸い形。
淡く、白く、柔らかな光をまとったような姿。
まるで、真珠のようだった。
けれど、まだはっきりとは見えない。
光の加減によって、そこにあることがかろうじてわかる程度だった。
わたしは息を止め、目を凝らした。
「……真珠、みたい」
声が、自然と小さくなる。
目には見えないほど透明なのに、触れると硬い。
ルーチェがつついたら、ほんの少しだけ姿が見えるようになった。
どうして?
何のために、こんなものがあるんだろう。
わたしは、丸い石らしきものから目を離せなくなっていた。
水のフェアリーは、そんなわたしの様子を静かに見つめている。
ルリも隣で、嬉しそうに羽を揺らしていた。
冬の沢で見つかった、目には見えない不思議な石。
その正体は、まだわからなかった。




