第97話 雪の境界
第97話 雪の境界
朝、家の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れ、その向こうから白い小さな粒がふわりふわりと舞い込んできた。
「……あれ?」
不思議に思って手を伸ばすと、掌に落ちた雪は、触れた途端に小さな水滴となって消えてしまった。
「雪……!」
扉の向こうには、細かな雪が静かに降り続ける冬の森が広がっていた。
空から舞い落ちる雪は、地面へ向かってまっすぐ落ちるものもあれば、そよ風に乗ってくるくると回りながら降りてくるものもあり、朝の淡い光を受けるたびに、まるで小さな光の欠片が空中を漂っているようにきらめいていた。
「わぁ……きれい」
思わず、そんな言葉が口からこぼれる。
夏には緑に包まれていた木々も、秋には色づいた葉をまとっていた枝も、今はすっかり冬の装いへと変わりつつあった。
まだ深く積もるほどの雪ではないけれど、地面や草の上には薄く白いものが残り、枝先には小さな雪の粒がいくつも乗っている。
同じ森なのに、季節が変わるだけで、こんなにも違う景色になるんだ。
しばらく扉の前で眺めていたわたしは、せっかく雪が降っているのだから、石垣の内側を少し歩いてみようと思った。
もちろん、外へ出るつもりはない。
昨日、ほんの少し扉を開けただけで、外の冷たさに驚いてしまったばかりだし、今はまだ、どれくらい寒くなるのかも分からないのだから、無理をする必要はない。
秋のうちに集めておいた薪も、食料もある。
暖かい家もあるのだから、冬の間はここでゆっくり過ごせばいい。
そう考えながら、わたしは厚手の上着を羽織り、手袋をつけてから、暖炉のそばにいるルーチェへ声をかけた。
「ルーチェ、雪が降っているよ。ちょっと一緒にお散歩しない?」
声をかけられたルーチェは、整えていた羽を止めて、こちらへ顔を向けた。
「ギョ?」
「ほら、外。雪がきらきらしていて、きれいなんだよ」
わたしが扉の向こうを指さすと、ルーチェはゆっくりと窓辺へ歩いていき、外の様子を確かめるように顔を近づけた。
それから、空を見上げるように首を動かすと、どこか楽しそうに翼を大きく広げた。
「ギョエ!」
「ふふっ。ルーチェも行きたいんだね」
その様子を見ていたルリも、わたしの周りをくるくると飛び回り始めた。
「ゆき! ゆきー!」
「うん、雪だよ。ルリも一緒に行こうね」
「いく!」
元気よく返事をするルリに笑いかけてから、わたしは扉を開けた。
外へ出ると、冷たい空気が頬を撫でたけれど、昨日のように思わず飛び上がるほどではなく、上着を着ていれば、少し歩くくらいなら大丈夫そうだった。
細かな雪が髪や肩に触れ、手袋の上にも白い粒がいくつか落ちてくる。
わたしがゆっくり歩き始めると、ルリはふわりと飛んできて、肩の上にちょこんと腰を下ろした。
「ルリ、そこがいいの?」
「うん!」
小さな手でわたしの服をつまみ、落ちないように身体を安定させている姿が可愛らしくて、思わず頬が緩んだ。
肩の上から見る雪景色は、わたしの目の高さから見るものとは少し違うのかもしれない。
ルリはときどき顔を左右に動かし、枝から落ちる雪や、空中を漂う白い粒を興味深そうに追いかけていた。
石垣の内側をゆっくり歩いていくと、雪は相変わらず穏やかに降り続けていた。
木々の枝には薄く雪が積もり始め、地面に残った草も、ところどころ白い衣をまとったようになっている。
風は強くなく、空から落ちてくる雪は、まるで誰かがそっと白い粉を撒いているかのように、静かに森を満たしていた。
朝の光を受けた雪の粒は、目を凝らすとひとつひとつが小さく輝いている。
それは、以前の世界で見たことのあるスノーダストを思わせる光景だった。
「……スノーダストみたい」
懐かしい言葉を呟きながら、わたしは近くの枝へ目を向けた。
枝先に乗っていた雪が、風に揺られてふわりと落ちる。
その雪が空中でばらばらに散り、光を受けながら地面へと消えていった。
「きらきらー!」
肩の上のルリも、同じものを見ていたらしい。
小さな声を上げると、わたしの肩から飛び立ち、降ってくる雪の中を楽しそうにくるくると回り始めた。
透明な四枚の羽が雪の粒を受けて、淡く光っているように見える。
ルリは目の前を流れていく雪を追いかけ、両手を伸ばした。
けれど、指先が触れるよりも先に、雪は風に流されてしまう。
「……あれ?」
ルリは不思議そうに首を傾げ、もう一度、今度は少し大きく両手を広げてみた。
それでも、雪は指の間をすり抜けるように落ちていく。
「ルリ、雪はすぐに溶けちゃうんだよ」
「とける?」
「うん。暖かいところに来ると、お水になるの」
「みず?」
「そう。お水だよ」
ルリは自分の手のひらをじっと見つめ、それから、また空から降ってくる雪へ目を向けた。
ちょうどそのとき、ひとつの雪の粒が指先に触れた。
ルリは嬉しそうに目を輝かせたけれど、次の瞬間には、その白い粒は小さな水滴となって消えてしまった。
「……ない!」
「ふふっ。なくなっちゃったね」
「ふしぎ!」
ルリはまだ納得しきれないような顔をしていたけれど、しばらくすると、また楽しそうに羽を動かして、わたしの肩へと戻ってきた。
そんな様子を見ていると、わたしまで自然と楽しい気持ちになってくる。
ひとりで眺めていてもきれいな景色だけれど、こうして誰かと一緒に見ていると、同じものでも少し違って感じられるから不思議だ。
やがて、少し先を歩いていたルーチェが、足を止めて空を見上げた。
大きな翼をゆっくりと広げ、降り続く雪を受け止めるように、その場に立っている。
「ルーチェ?」
わたしが声をかけると、ルーチェは振り返ることなく、もう一度大きく翼を動かした。
バサッ、バササッ!
羽ばたきによって、翼や背中に乗りかけていた雪が一斉に舞い上がった。
白い粒がルーチェの周囲に広がり、朝の光を受けて、きらきらと輝きながら落ちていく。
「わぁ……!」
思わず足を止めて見入ってしまった。
ルーチェは楽しそうに、もう一度翼を広げた。
バサッ!
今度は、地面に積もりかけていた雪までふわりと舞い上がり、ルーチェの身体を囲むように白い粒が広がった。
「ギョエ!」
その鳴き声は、いつもより少し弾んで聞こえた。
まるで、雪を散らして遊んでいるみたいだ。
「ルーチェ、楽しそうだね」
そう声をかけると、ルーチェはようやくこちらを振り返り、翼を少しだけ持ち上げた。
その仕草が、なんだか得意げに見えて、わたしは小さく笑った。
ルリも、そんなルーチェの姿を見てじっとしてはいられなかったらしい。
肩から飛び立つと、ルーチェの背中へと降り立った。
「ルーチェ!」
ルーチェは背中に乗ったルリをちらりと見たけれど、嫌がる様子もなく、そのままゆっくりと歩き始めた。
ルリはルーチェの背中にちょこんと座り、少し高いところから雪の森を眺めている。
ときどき、わたしのほうへ顔を向けては、嬉しそうに手を振ってくれた。
「ふふっ。今度はルーチェの背中なんだね」
ルーチェの大きな背中は、ルリにとってちょうどいい場所なのかもしれない。
わたしはふたりの後ろを歩きながら、もう一度、周囲の景色を見渡した。
白くなり始めた地面。
雪をまとった木々。
空から降り続ける細かな雪。
風は穏やかで、森は静かだった。
冬の森には、冬にしかない美しさがある。
そんなことを感じながら歩いていると、ふと、石垣の向こう側が気になった。
内側は、こんなにも穏やかだ。
雪はゆっくりと舞い落ち、風もほとんど気にならない。
けれど、石垣の外はどうなっているのだろう。
昨日は扉を開けた途端に冷たい空気に驚いて、すぐに家へ戻ってしまったから、外の様子をゆっくり見る余裕はなかった。
今なら、石垣の内側から様子を確かめるくらいはできるかもしれない。
「ねえ、ルーチェ。石垣の外も見に行ってみない?」
わたしが声をかけると、ルーチェは歩みを止め、こちらへ顔を向けた。
「ギョ?」
「外がどうなっているのか、ちょっと気になって。ここはこんなに穏やかだけど、向こうも同じなのかなって」
ルーチェは、わたしの言葉を聞くようにしばらくこちらを見ていたけれど、やがて石垣のほうへ向き直った。
わたしも、その後を追って歩き始める。
ルリはルーチェの背中からふわりと飛び立ち、今度はわたしの肩へ戻ってきた。
石垣が近づくにつれて、その向こうに広がる森の景色が少しずつ見えてくる。
そして、境目の近くまで来たとき、わたしは思わず足を止めた。
「……え?」
石垣の外は、まるで別の世界だった。
雪が、激しく吹き荒れている。
空から降る雪だけではなく、地面に積もった雪までが強い風に巻き上げられ、白い渦となって森の中を駆け抜けていた。
木々は大きく揺れ、枝がしなるたびに、積もっていた雪がばさりと落ちる。
風に煽られた雪は横殴りに流れ、遠くの景色を白く塗りつぶしていた。
少し先にあるはずの木の姿さえ、はっきりとは見えない。
雪は上から降るだけではなかった。
横から、下から、あらゆる方向から吹きつけているように見えた。
「……うそ。こんなにすごいの?」
思わず呟いた。
さっきまで歩いていた石垣の内側は、あんなに穏やかだったのに。
同じ場所で、同じ空から降っている雪なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。
わたしは、石垣の内側へと振り返った。
そこでは、細かな雪がふんわりと舞い続けている。
風は穏やかで、木々も静かに立っていた。
雪の粒が光を受けてきらきらと輝き、先ほどまで歩いていた景色が、そのまま広がっている。
境目を挟んで、まるで違う冬が存在しているみたいだった。
「……こんなに、違うんだ」
今まで、石垣の内側と外側で、目に見えるほどの違いを感じたことはなかった。
もちろん、森の奥には危険な生き物がいるし、知らない場所へ行けば何が起こるか分からない。
それでも、風や雪までがこんなふうに違うとは、考えたこともなかった。
わたしは改めて、目の前にそびえる石垣を見上げた。
高く、円を描くように続く石の壁。
ここで暮らし始めた頃から、ずっとそこにあったもの。
雨の日も、風の日も、何も言わずにわたしたちを囲んでいた。
わたしにとっては、家の周りにある大きな壁。
そんな認識だった。
けれど、今は違う。
もしかしたら、この石垣は、ただ場所を区切っているだけではないのかもしれない。
外から吹きつける風や、激しい雪。
そうしたものから、この場所を守ってくれているのだろうか。
「……石垣が、守ってくれているのかな」
答えは分からない。
石垣にどんな力があるのかも、どうして内側だけが穏やかなのかも、わたしには分からなかった。
でも、少なくとも今、目の前にある景色は、その違いをはっきりと示していた。
この場所は、わたしが思っていた以上に守られている。
そう感じた。
秋のうちに食料を蓄え、薪を集め、家を整えておいたことも、今になって改めてよかったと思う。
この石垣の内側であれば、冬の間も無理をせずに過ごせるかもしれない。
食べ物はある。
薪もある。
暖かい寝具も、少しずつ揃えてきた。
外の様子を見れば見るほど、無理に出かける必要はないと思えた。
「……冬の間は、外へ出ないほうがいいね」
わたしは吹雪に霞む森を見つめながら、そう呟いた。
あの風の中を歩くのは危険すぎる。
視界も悪いし、足元がどうなっているかも分からない。
何かあったとき、家まで戻れる保証もない。
今は、石垣の内側で大人しく過ごすのが一番だ。
そう決めて、そろそろみんなと家へ戻ろうとした、そのときだった。
吹き荒れる雪の向こう。
木々の間を、何か黒いものが横切った気がした。
「……え?」
わたしは足を止めた。
今、何かいた?
白く煙る森の中で、一瞬だけ見えた黒い影。
風に揺れた木の影だろうか。
それとも、吹雪で舞い上がった雪が、そう見えただけなのだろうか。
目を凝らしてみる。
けれど、そこには揺れる木々と、激しく流れる雪があるだけだった。
黒い影は、もうどこにも見えない。
「……気のせい、かな?」
そう呟いたものの、なぜかすぐには視線を外せなかった。
そのとき、肩に乗っていたルリが、小さな手でわたしの服をきゅっと掴んだ。
「つむぎ……」
「ん? どうしたの、ルリ?」
振り返ると、ルリは吹雪の向こうをじっと見つめていた。
いつものように、きらきらした雪を追いかける様子はない。
小さな顔は、どこか真剣だった。
「……そと、あぶない」
「え……?」
思わず、ルリの顔を見つめた。
ルリはもう一度、石垣の外へ目を向けた。
「そと……あぶない」
拙い言葉。
けれど、その意味はちゃんと伝わってきた。
わたしは、もう一度吹雪の森を見つめた。
さっきの黒い影。
そして、ルリの言葉。
偶然なのだろうか。
それとも、本当に何かがいるのだろうか。
わたしには、まだ分からない。
隣にいたルーチェが、一歩前へ出た。
大きな翼をわずかに広げ、わたしとルリを守るように立つ。
「ギョ……」
低く、小さな鳴き声だった。
先ほどまで雪を散らして楽しそうに遊んでいたルーチェは、もう翼を広げていなかった。
その視線は、吹雪の向こうにある森へとまっすぐ向けられている。
ルーチェもまた、何かを警戒しているように見えた。
胸の奥が、少しだけざわつく。
……やっぱり、気のせいじゃないのかな。
わたしはルリをそっと抱き寄せた。
「……うん。今日はもう帰ろう」
ルリは小さく頷き、わたしの肩へ身を寄せた。
ルーチェもこちらを振り返り、ゆっくりと歩き始める。
わたしは、もう一度だけ石垣の外を見た。
吹雪は変わらず、森を白く覆い尽くしている。
黒い影の姿は、もう見えなかった。
けれど、ルリの言葉が耳に残っていた。
――そと、あぶない。
わたしは視線を戻し、みんなと一緒に家へ向かった。
石垣の内側では、相変わらず細かな雪が静かに舞っていた。
まるで何事もなかったかのように、きらきらと輝きながら。
それでも、わたしはもう、さっきまでと同じ気持ちではいられなかった。




