第91話 青いイタズラと、小さな妖精
第91話 青いイタズラと、小さな妖精
冬の森は、今日も静かにすぎていく。暖炉には火が灯り、家の中には薪のはぜる音が響いている。 外は冷たい風が吹いているけれど、石壁に囲まれたこの家の中は暖かい。紬はいつものように、朝の支度を始めていた。まずは、作業台の上を片づけよう。そう思って手を伸ばしたのだけれど。
「あれ?」
いつも置いているはずの石の刃物が見当たらなかった。
食材を切ったり、植物の皮を剥いだりするときに使う、わたしにとって大切な道具だ。昨日、使ったあとにここへ戻したはずなのに。作業台の上を見て、棚の周りを確かめる。
床に落ちていないかと覗き込んでみたけれど、どこにもなかった。
「また……?」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
ここ最近、どうもおかしいのだ。
片づけたはずの道具が別の場所に置かれていたり、棚にしまったものが少し離れたところに移動していたり。最初は、自分がうっかり置き場所を間違えたのだと思っていた。
作業に夢中になっていれば、置いた場所を忘れることだってある。けれど、それが何度も続くと、さすがに気になってくる。
「わたし、そんなにぼんやりしてるのかな……」
うーん、と唸りながら腕を組んだ。まさか、寝ている間に自分で動かしているとか?
夢遊病……なんてこと、ないよね?
自分で考えておきながら、少し不安になる。
寝ぼけて家の中を歩き回っている自分なんて、想像もつかなかった。
それに、最近は食べ物まで少しずつ減っている気がする。
もちろん、動物たちが食べた可能性もある。
でも、食べ物を置いている場所は、みんなが自由に出入りしている場所ではない。
「うーん……」
考えても答えは出なかった。ひとまず、別の道具を探そう。そう思って食事の支度を始めた、そのときだった。
暖炉のそばに置いていた食べ物を見て、わたしは首を傾げた。
「あれ? こんなに少なかったっけ?」
あとで食べようと思って取り分けておいたものが、半分ほどになっていた。
昨日のうちに食べた覚えはない。
もちろん、今朝もまだ口にしていなかった。
わたしは食べ物を見つめ、それから家の中を見回した。
ルーチェは、いつもの場所で羽を整えている。
ラタとカーバンクルも、少し離れたところで丸くなっていた。みんな、特に変わった様子はない。
「……やっぱり、わたしが忘れてるのかな」
食べたことまで忘れるなんて、いよいよ心配になってくる。
まさか、本当に夢遊病……?
いやいや。そんなことを考えている場合じゃない。
わたしは小さく首を振り、食事の支度を続けることにした。
けれど、家の隅から小さな物音がしたとき、わたしはぴたりと手を止めた。
カサッ。
何かが動いたような音だった。振り向いてみても、そこには何もいない。ただ、壁際に置いてある籠が、ほんの少しだけ揺れていた。
「……今、何かいた?」
そっと目を凝らしてみる。
けれど、籠の陰にも、棚の隙間にも、それらしいものは見当たらなかった。
気のせいだろうか。そう思って近づこうとした、そのとき。ルーチェが、すっと顔を上げた。
そして、迷いのない動きで部屋の隅へと歩いていく。
「ギョ」
いつもと変わらない鳴き声。
けれど、その目は何かをしっかりと捉えていた。
次の瞬間。
ルーチェが、くちばしをそっと閉じた。
その先には、小さな何かが挟まれていた。
「えっ……?」
わたしは思わず目を凝らした。
ルーチェのくちばしに捕まっていたのは、小さな人のような姿をした生き物だった。大きさは、わたしの手のひらにも乗りそうなくらい。
長い髪は、上のほうが深い青色で、毛先へ向かうにつれて淡い水色へと変わっている。
深い青の部分には、まるで夜空に散らばる星のような光が瞬いていた。
白と水色の花びらを重ねたような服。背中には、ガラス細工を思わせる透明な羽が四枚。その羽は、角度を変えるたびに淡い光を反射していた。
とても小さい。けれど、その表情は驚くほど不機嫌だった。小さな生き物は、ルーチェのくちばしに挟まれたまま、両手を振り上げた。
そして。
ぺしっ。
ぺしぺしっ。
小さな手で、ルーチェのくちばしを何度も叩き始めた。
まるで、離しなさいと抗議しているみたいだ。ルーチェは少しも慌てなかった。
くちばしに力を込めることもなく、ただ逃げられないように、そっと捕まえている。
その様子は、初めて見つけた相手を警戒しているというより、いつものイタズラを見つけて捕まえた、とでもいうようだった。
……ルーチェ、この子のことを知っているの?
わたしが近づこうとした、その瞬間だった。小さな生き物の体が、ふわりと青い光に包まれた。
次の瞬間、そこにいたのは一匹の青い蝶々だった。
「あっ!」
蝶々は、ルーチェのくちばしからするりと抜け出すと、ひらひらと空中へ舞い上がった。
青い羽が、光を受けてきらりと輝く。
その姿を見て、わたしは目を瞬かせた。
この蝶々……洞窟で見かけた子だ。
どうしてここにいるのだろう。そう思った次の瞬間、わたしははっとした。さっきまでルーチェに捕まっていた小さな子が、蝶々に変身したのだ。
「えっ……もしかして、同じ子なの?」
蝶々は答えず、ひらひらと棚の向こうへ飛んでいく。
その直後。
ルーチェが、もう一度動いた。
ひらりと舞い戻ってきた蝶々を、今度は逃がさないように、けれどやはり優しくくちばしで捕まえる。青い光が揺らいだ。そして、再び現れたのは、先ほどの小さな人影だった。
わたしは、思わず目を丸くした。深い青から淡い水色へと変わる長い髪は、星空を閉じ込めたようにきらきらと輝いている。
白と水色の花びらを重ねたような可愛らしい服。
背中には、ガラス細工のように透き通った四枚の羽があり、動くたびに淡い光がこぼれていた。
その姿は、まるで絵本の中から飛び出してきたようだった。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。
こんな可愛いメルヘンな妖精さんなんて!
絵本や物語の中でしか見たことのないような存在が、目の前にいる。
小さな体に、透き通る羽。きらきらと輝く髪。そのどれもが不思議で、綺麗で、目を離せなかった。もっと近くで見たい。そう思って一歩近づいた、そのとき。
妖精は、わたしを見上げると、何やら不満そうに眉を寄せた。そして、ルーチェのくちばしを、ぺしぺしと叩き始めた。
……まだ怒っているらしい。
ルーチェはというと、まったく気にした様子もなく、落ち着いたまま妖精を捕まえていた。
やがて妖精は、わたしのほうへ顔を向けた。
そして、小さな口を開く。
【∅※◇……!? ◇∴※!】
「えっ?」
聞いたことのない言葉だった。声は確かに言葉の形をしている。けれど、わたしには何を言っているのか、まったく理解できなかった。
妖精はさらに何かをまくしたてる。
【※∅◇! ∴∴……!】
「ご、ごめんね。何を言っているのか、わからないよ」
わたしが困っていると、手元に置いていた《知識と生存》が、ひとりでに開いた。
ページがゆっくりとめくられ、白い紙の上に文字が浮かび上がっていく。
そこに記されていたのは、二つの項目だった。
【名称】フェアリー
【分類】妖精
【属性】個体差あり
【状態】良好
【特徴】小さな人型の姿を持ち、背中に四枚の透明な羽がある。
【性質】好奇心旺盛で、イタズラを好む。動物と仲がよく、人間の前にはほとんど姿を現さない。
【能力】高度な魔法行使
【備考】色などによって属性が異なる。
その下には、もうひとつの記録が浮かんでいた。
【名称】フェアリー語
【分類】言語
【使用者】フェアリー
【特徴】妖精が使用する独自の言語。
【性質】動物などとの意思疎通が可能。
「フェアリー……」
わたしは、目の前の小さな存在を見つめた。
妖精。
本当に、妖精なんだ。
しかも、高度な魔法を使えるらしい。
あの蝶々に変身したのも、その能力なのだろうか。
そう考えていると、妖精は再び何かを話し始めた。
【∅◇※! ∴※◇……!】
けれど、やっぱりわからない。
《知識と生存》には、フェアリー語という言葉の存在が記されている。
でも、その意味までは教えてくれないようだった。
「うーん……。言葉がわからないと、お話もできないね」
困ったな。妖精は何かを伝えたいらしい。けれど、わたしには理解できない。どうしようかと考えていると。
ふっと、目の前の妖精の姿が消えた。
「えっ、いない!?」
慌てて周囲を見回す。
ルーチェのくちばしも、もう空だった。まさか、また逃げたのだろうか。そう思った次の瞬間。後ろ髪が、くいっと引っ張られた。
「えっ?」
振り返ろうとすると、また髪が引かれる。
くい、くいっ。
そこには、いつの間にか移動してきた妖精がいた。
小さな手でわたしの髪をつかみ、何かを訴えるように、すぐそばを指さしている。その先にあったのは、朝食用に用意していた食べ物だった。妖精は食べ物を指さし、それから自分のお腹をぽんぽんと叩いた。
そして、わたしを見上げる。
……もしかして。
「あっ、食べたいの?」
妖精は、こくりと頷いた。その動きは、とてもはっきりしていた。わたしは思わず目を丸くした。
さっきから、ずっと怒っているのかと思っていたけれど。
もしかして、この子は。
「お腹が空いていたの?」
妖精は答えず、もう一度、食べ物を指さした。その顔は真剣そのものだった。わたしは小さく息を吐いて、食べ物を少し取り分けることにした。
「わかったよ。食べていいからね」
小さなお皿に、食べやすい大きさにしたものを載せて、妖精の前へ置く。すると。
妖精の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
さっきまでの不機嫌そうな顔が、嘘のようだった。
妖精はお皿のそばにちょこんと座り、食べ物を手に取る。
そして、小さな口でぱくりとかじった。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
……食べるのに夢中だ。
わたしは、その様子を眺めながら、思わず頬を緩めた。
「ふふっ。おいしい?」
妖精は食べる手を止めず、こちらをちらりと見た。それから、ほんの少しだけ頷いた。その仕草が、なんだか可愛らしい。けれど、まだわからないことだらけだ。どうして石の刃物を隠したのか。どうして食べ物を半分も食べてしまったのか。
どうして、ルーチェはこの妖精を知っているような様子なのだろう。
わたしはルーチェを見上げた。
「ねえ、ルーチェ。この子のこと、知ってるの?」
ルーチェは、こちらを一度見た。
それから、妖精へと視線を戻す。
妖精は食べ物を頬張りながら、何事もなかったかのように座っていた。
ルーチェは小さく鳴いた。
「ギョェー」
それだけだった。
「……教えてくれないんだね」
ルーチェは答えない。
妖精も答えない。
ただ、妖精は食べ物を食べ終えると、満足したように小さく息をついた。
その背中では、四枚の透明な羽が、淡い青色の光を反射している。
わたしの家には、知らないうちに妖精が入り込んでいたらしい。
しかも、かなりのイタズラ好きで、食いしん坊。
これから、どうなるのだろう。
少し不安で。
でも、それ以上に、不思議な気持ちだった。
わたしは、食べ物をもう少し取り分けて、妖精のそばに置いた。
「まだ食べたいなら、こっちもどうぞ」
妖精は一瞬だけわたしを見つめた。
それから、何も言わずにお皿へ手を伸ばした。
その様子を見て、わたしはまた小さく笑った。
名前も、言葉も、まだわからない。
けれど、今日からこの家には、もうひとり、小さな住人が増えたのかもしれない。




