静かに変わる視線
朝市は、いつも通りだった。
魚の声。野菜を並べる音。
値切り合う声に、笑い声。
「春だねぇ」
誰かが言い誰かが頷く。
冬を越えた町は、どこか浮かれていた。
――少なくとも、その時までは。
「おい……聞いたか?」
魚屋の親父が、声を潜めた。
「また、西の方で燃えたらしい」
「またぁ? この前も言ってなかった?」
「今回はな、倉庫だけじゃねぇ。人が泊まってた休憩所だ」
手が止まる。
「……死人は?」
「いない。だが、火の回り方が妙だってよ」
その一言で、市場の空気が、わずかに沈んだ。
昼前。
近衛の巡回が増えている事に、誰かが気付く。
「最近、多くない?」
「昨日も夜、鎧の音が聞こえた」
「演習じゃないの?」
そう言って、笑おうとした女の声が、途中で止まった。
――その先に、焦げ跡の残る建物が見えたからだ。
壁は黒く、板は焼け落ち、まだ、微かに炭の匂いが残っている。
「……こんなの、昨日は無かったよね?」
誰も、即答出来なかった。
夕刻。
酒場では、話題が一つに集まっていた。
「火事が多すぎる」
「しかも、消え方が綺麗すぎる」
「普通、もっと延焼するだろ?」
杯を置く音が、やけに大きく響く。
「なあ……」
誰かが、恐る恐る言った。
「これ……盗賊とかじゃないよな?」
その言葉に、誰も笑わなかった。
夜。
戸締りを念入りにする家が増えた。
子供を早く寝かせる母。
灯りを早めに落とす店。
「火の元、ちゃんと見た?」
「大丈夫。何度も見た」
安心させる言葉が、どこか自分自身に言い聞かせるようだった。
そして、誰かが気付く。
「……おかしい」
火事の話が出るたび、近衛は慌てていない。
だが、確実に数を増やし、配置を変えている。
それは――
「知ってる奴の動きだ」
と、元兵の老人が、ぽつりと漏らした。
春の風は、暖かい。だがその風の中に、確かに混じり始めていた。
焦げた木の匂いと、言葉にされない不安が。
この日を境に、市民は初めて理解する。
――これは、事故ではない。
――まだ名前の付かない、何かが始まりつつあるのだと。
町は、まだ平穏だった。
けれど。
誰もが、夜の闇を、少しだけ長く感じ始めていた。




