兆しは音もなく
港は、今日も変わらず忙しかった。
荷を下ろす声。縄が張る音。
潮と油の混じった匂い。
「……平和だな」
誰かが、何気なくそう呟いた。
だが、その言葉に頷いた者はいなかった。
港湾管理棟の二階。
帳簿を広げていた役人が、ふと手を止める。
「……おかしい」
数字は合っている。記録も正確だ。
だが――
「先月より、出入りの回数が多い……?」
船の数は変わらない。航路も、ほぼ同じ。
それなのに、“寄港だけして何も積まない船”が増えていた。
「点検か?」
自分に言い聞かせるように呟き、帳簿を閉じる。その違和感は、報告に上がるほどのものではなかった。
まだ。
同じ頃。
西へ向かう街道沿いの宿場町。
「――金は?」
「ある。十分すぎるほどな」
低い声。顔を伏せたままの男たち。
「武器は?」
「順に届く」
笑い声が、短く漏れた。
王都。
近衛の詰所で、隊長は訓練の様子を眺めていた。
整った動き。揃った呼吸。
「……悪くない」
だが、視線は自然と倉庫の方へ向く。
昨日、引き取った“例の物”。
まだ封も切っていない箱。
「早すぎるか……いや」
彼は小さく息を吐いた。
「備えは、遅れるより早い方がいい」
誰に言うでもなく、そう呟く。
その頃、領内。
セリアは机の上に並んだ報告書を、静かに見下ろしていた。
港。
倉庫。
工房。
街道。
どれも、大きな異常は無い。
「……全部、静かすぎるわね」
指先で紙を整え、立ち上がる。
「動く時は、いつもこう」
何も起きていない時ほど、水面の下では流れが速い。
彼女は窓の外を見る。
冬の終わりを告げる、柔らかな陽光。
「春、か……」
その声は、どこか冷えていた。
誰も、まだ気付いていない。
だが確かに、駒は置かれ始めていた。
それも、音を立てずに。
そして、冬は終わりを告げた。
朝の空気から、刺すような冷たさが消え、
港を渡る風も、どこか湿り気を帯び始める。
「……暖かいな」
誰かが言い、誰もがそれを、ただの季節の移ろいとして受け取った。
春の訪れだった。
――だが。
訪れたのは、春だけではなかった。
西側地区。夜明け前。
最初の火は、小さな倉庫だった。
老朽化した壁。人気の無い裏路地。
「失火だろう」
そう片付けられ、消された。
だが、その三日後。
今度は、通りを挟んだ商家。
さらにその翌日には、街道沿いの休憩所。
いずれも共通していた。
夜明け前。人の少ない時間帯。
そして、火元が不自然に分散している事。
「……偶然にしちゃ、出来過ぎてるな」
報告を受けた近衛の一人が、そう漏らす。
火そのものは小さい。
死者も、まだ出ていない。
だが――
「試している」
その言葉が、詰所の中で静かに共有された。
即座に、警戒は引き上げられた。
夜間巡回の増強。要所への配置換え。
倉庫、街道、港湾部への目配り。
「反乱の兆候と見る」
その判断に、異を唱える者はいなかった。
まだ、何も起きていないからこそ。
王都の空気が、僅かに変わる。
市民は、まだ気付かない。
春の陽気に浮かれ、火の噂も遠くで聞くだけだ。
だが、剣を持つ者たちは知っていた。
これは、合図だ。
「始まりの、火種だ」
暖かな風は、火を消す為に吹くのではない。
広げる為に、吹く事もある。
誰も口にはしなかったが、皆が同じ事を思っていた。
――春は、戦を連れて来る事がある。
そして今、その兆しは、確かに燃え始めていた。




