再び
「いってきまーす」
と言う声と、ドアを閉める音。パタパタと子どもが、マンションの廊下を走る音で目が覚めた。
昨日、彼女との電話を切った後、そのままソファーで眠ってしまった。体のあちこちが痛い。痛みが和らぐように、軽くストレッチをし、カーテンを開けた。
冬の朝は、どこかどんよりしている。
気持ちまで鬱屈しそうになるのを堪える。シャワーを浴びて洗濯をしよう。蔭山先生から「ちゃんと飯食ってんのか?」
と言われたことを思い出した。食事もちゃんと摂ろう。
シャワーと洗濯を済ませ食事の用意をする。コーヒーを淹れ、トーストとインスタントではあるけれどスープ。それにヨーグルト。
ここ数日のうちでは、一番まともな食事だった。スマホを手に取ると、メールがきていた。
〈お疲れ様です。イルミネーション二十日で大丈夫ですか? 七時前に精華医大の前で〉
というメッセージの最後に笑顔マークの絵文字があった。昨日の電話でのやりとりを、ぼんやり思い出す。
〈わかりました 大丈夫です〉
そう返信した。まだ先のことだと思っていたのに、点灯式は明日だった。
ジンクス通りになったという彼女の友人と、そうならなかった僕。当時、付き合っていた先輩は、病院でのボランティア活動で出会った、看護学部の子の知り合いだった。
その子を通して、初めて先輩に会ったのだった。そのうち、何となく二人で会うようになり、告白された。
自分に好意を寄せてくれている、ということが素直に嬉しかった。先輩は落ち着いた真面目な人だった。
当時、薬学部の六年生で、卒業試験や国家試験の勉強で忙しかったはずなのに、僕のことをいつも気にかけてくれていた。
病院実習を前にした実習室での様々なトレーニングで、僕が悩むことがあると、話を聴いてくれたし、一人で考えたいときは何も言わないでいてくれた。
それなのに、僕は先輩の話を一度たりとも聴くことがなかった。年上たがらと気を遣ってくれている先輩に、甘えていたのだと思う。
「ごめん。自分から告白しておいて、失礼な言い方だと思うけど。良平君に真剣に向き合うのがしんどくなったの。
気持ちを切り替えて、国家試験の勉強をもっと頑張りたい」
年が明ける前に、そう言われた。
当時の僕は、そう言われてもあまりショックを受けなかった気がする。きっと先輩に気持ちが向いていなかったからだ。
改めて当時を思い返し、僕が初めから先輩のことを気にかけて、同じように全力で向き合っていたら、今でも一緒にいることができたのだろうか。
でも、いくら想像してみても先輩の顔すら、ぼんやりとしか思い出せない。自分も失礼な奴だと思う。
僕は恋愛でも、自分の思いを持つことができていなかった。
あれ以来、点灯式には行っていないし、イルミネーションも通りすぎるだけだった。
十年近く経ってから、再び点灯式に行こうとしている。そのことが、不思議だった。
翌日は朝からよく晴れていて、優しい水色の空には、雲一つなかった。
日が沈むと東の空で星が輝き始めた。
確約できない、と彼女に話しておきながら、急患が入らないように、急変がないように、と祈る自分がいた。
その祈りが通じたのか、約束した時間の十分前に精華医大の正門前に着くことができた。そこには、ブラウンのロングコートにマフラーを巻いた、いつも通りの彼女がいた。
「お待たせしました」
と言うと「私もさっき着きました」と笑顔を見せた。
入口でチケットを見せ、久しぶりにキャンパス内に入る。図書館前の並木道を途中で曲がり、実習棟に沿って歩く。その突き当たりが、点灯式会場の広場だ。
そこには一本の大きなもみの木が植っている。点灯式のシンボルツリーだ。
それを囲むように、人が集まっていた。周りから聞こえてくる話し声は、どことなく弾んでいる。
「大きなもみの木ですね」
見上げてそう言う彼女の目線は、仕事中よりやはり上にあった。
時間になったのだろう。もみの木に当たっていた、スポットライトが消えた。周囲の騒めきも、小さくなっていき、やがて静かになる。
十年前と同じように、合唱サークルが讃美歌を歌う。すると辺りは幻想的な雰囲気に包まれた。
歌声の最後が、夜の闇に吸い込まれるように消えると同時に、シンボルツリーが輝く。
赤、黄、オレンジ……
歓声が上がる。ふと、彼女に目をやると、目を瞑り胸の前で、両手を組んで祈るような仕草をしていた。その佇まいが、あまりに神聖で、見てはいけないものを見たような気がした。
一方でその姿を見続けたいとも思った。この神聖な雰囲気は、どこからくるのか。
しばらくすると彼女は目を開け、ツリーを見つめた。そして、こちらを向いて言った。
「ありがとうございました。すごく素敵でした」
駅まで戻りながら、二人でぽつぽつと会話をした。
「若宮さんって背が高いですよね?」
「どちらかというと。百八十五に届かないくらいですね」
「この間、仕事中に会った時、私がスニーカーを履いていたら、すごく見上げる恰好になったから。驚きました」
その言葉を聞いて、僕も驚いた。同じことを思っていたのかと。
「同じこと思ってたんですね。僕も驚きました」
心の声をそのまま口にした。すると彼女が笑う。それにつられて、僕も笑った。
「名前、みずきっていうんですね。この間、子どもが『みずきせんせい』って」
「そうです。若宮さんの名前は?」
「良っていう字がつきます」
「え? クイズなんですか?」
意表を突かれたように言った後、良太、良介、良成と思いつくまま、名前を挙げ始める。
そして、いくつか外した後で
「良平」
と言ってくれたのだった。
「そう。それが正解」
と言うと「やっと当たった」と笑う。
駅に着くまでに、お互いに話したことは、彼女が僕より三つ下だということ。彼女には姉がいて、僕には妹がいるということだった。
駅前は賑やかだった。十二月はどこか人が華やいで、楽しそうに見える。
改札を通る前に、彼女は振り返った。
「今日はありがとうございました」
そう言って人混みの中に紛れて行った。
改札に背を向ける。病院を出る頃は、寒々としていた空気が、今はどこか温かい。さっきまで彼女が歩いていた、左側がじんわりと温かいことに気づく。
次に会う約束をしていないことが残念に思えた。
その夜は眠ろうとすると、光り輝くシンボルツリーと、それに祈りを捧げる彼女の横顔が、瞼の裏に鮮明に浮かんできて、なかなか寝付けなかった。
何度も寝返りを打ちながら「みずき」と、彼女の名前を心で呟いていた。




