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腐触

 夕方になり、フィエニャはギルの部屋の扉をノックした。

 しばらく待ってみても、反応はない。寝ているのだろうかと思いながら、フィエニャはそっと扉を開いた。

「フィエニャ……」

 部屋の床には彫金道具や素材やらが足の踏み場もないほどに散らばっていだ。ギルはベッドの上で毛布にくるまり、ひとしきり暴れてすっきりしたのだろう、顔からは悲しみの表情が薄れて、疲れと気まずさの入り混じった目でフィエニャを見上げていた。

「落ち着いた?」

「うん……」

 フィエニャはギルに寄り添うようにベッドに腰掛け、その背中を毛布越しに優しく撫でた。

「大丈夫よ。誰もあなたのこと責めたりしないわ。シルヴェストルだって、口は悪いけど本当はギルのことを心配してる」

「うん。わかってる」

 ギルはうなずく。

「わかってるけど、止められないの。頭の中がぐちゃぐちゃになって、自分でもわけがわかんなくなる」

「よしよし。パニックになっちゃったのね」

「……あたしね、すごく怖い。誰かに否定されることが怖い。誰かに傷つけられるのも、傷つけるのも怖い。もうどうしていいかわかんないよ……」

「大丈夫。ギルはとっても素敵な娘よ。みんなに愛される娘。誰だってきっと、ギルのいいところを知ったらあなたのこと大好きになるわ」

「……そうかなぁ」

「そうよ。でもね、もし誰がギルのことを傷つけたって、あなたには私がいるわ。あなたのことが大好きな、私が」

「……ありがと」

 ギルはそこでようやく微笑みを見せた。しかしすぐにその微笑みに陰が落ちる。

「ねぇ、あたし間違ってるかな? あたしはユウリの話を聞いて、この人ために彫金しようって、魔具を作ってあげようって、本気で思った。ユウリの力になってあげたいって。でもそれって、本当にユウリのためなのかな? ユウリに魔具を作ってあげることって、正しいことなのかな? それって、ユウリを不幸にするだけなんじゃないの?」

「そんなこと……ないわよ。きっとユウリなら、ギルの魔具を正しく使ってくれると思うわ。私はユウリのこと、誠実な男の子だと思う。私は信頼してる」

「そうかもしれない。だけどあたしは能力者が不幸になるのを何度も見てきた……! あたしだって、ユウリのことは信用してるよ。きっと傷つけるためじゃなくて、誰かを守るために魔具を使ってくれると思ってる。だけどね、それでもユウリが能力者であるかぎり、どうしようもない不幸の渦にユウリは巻き込まれていっちゃう気がするの。……だってフィエニャだってそうでしょ!?」

 ギルはそっとフィエニャの左腕に触れた。フィエニャはそのギルの小さな手をそっと握りしめる。

「ねぇ、フィエニャ。腕を見せて」

「だめよ……」

 フィエニャは困ったように首を振る。

「お願い。見せて」

 ギルはもう一度、きっぱりと言った。ギルの頑固さはよく知っている。フィエニャはため息をついて、そっと左腕の袖を捲くりはじめた。

 白くてなめらかなフィエニャの肌の上には、まるで白磁に走るひびのように黒い痣が走っていた。

 それはとても歪な紋章だった。

 本来なら魔具として、金属の上表面に刻まれるべき美しい紋章が、醜悪な形をとってフィエニャの腕に刻み込まれている。

 その歪な紋章はフィエニャの魔力・・に反応し、腐蝕してフィエニャの左腕を蝕んでいた。フィエニャの体内を流れる魔力を歪ませて、フィエニャを能力者として不具にしていた。


 フィエニャは左腕の自由と引き換えに、能力者であることを捨てたのだ。


「私は、今はとても幸せよ?」

 フィエニャは微笑み、左腕の腐蝕痕をそっと袖の中に隠した。

「だけど……! だけど、神経までやられちゃうんだよ!? 痛いでしょ、苦しいでしょ!? フィエニャが能力者でなかったらこんなことにはならなかったんだよ!?」

「ギル……。私はね、自分から能力者であることを捨てて、普通の人として生きることを選んだの。だから今、こうして平穏に、生まれ育ったこの街で過ごしていける。この腕はその代償。だけどリヨンは……私を守るために、自分から能力者であることを選んだ。私はリヨンのためにも、幸せに生きる覚悟をしているの。腕の一本くらいはなんでもないわ」

「紋章彫金って、不幸しか生まないの……?」

「能力者として生まれたことは、確かにたくさんの悲しみを伴う。だけど私は、少なくとも後悔はしてないわ。たぶん、リヨンもそう」

「フィエニャ……。あたし、わからないよ……」

 ギルは弱々しくフィエニャの服の袖を握りしめる。フィエニャはそんなギルを優しく抱きしめた。



 アリテは乱れた呼吸を必死になって押し殺した。

 恐怖で身体が震えていた。

 無秩序に散乱した瓦礫の中で息を殺し、気配を潜める。

 ここはかつての炭鉱だろうか? 今は廃墟となり、助けてくれる人はどこにもいない。

 ドブ川の悪臭が鼻を刺した。いっそこの川に飛び込めば、彼らの手から逃れられるだろうか。


 少女はごく平凡なメイドとして、さる貴族の屋敷で仕えていた。取り立てて秀でたところもなく、使用人の中でも身分は格下。働きぶりは真面目で器量も良かったが、言葉数少なな性格もあり目立たない存在だった。それでもいずれはどこかの農家か職人、あるいは運が良ければ小金持ちの商家の息子にでも見染められて嫁いでいったことだったろう。子どもが生まれ、苦労もあり、幸福とは言いきれないまでもそれなりに満ち足りた人生もあったことだろう。

 しかし少女の転落が始まったのは突然だった。

 それは屋敷の主人の実母、使用人たちから大奥様と呼ばれていた老婦人が変死したことに端を発した。

 死因は溺死。

 場所は自室。

 普段と代わり映えのしないティータイムのひと時のことだった。

 メイドが部屋に茶菓子を運び入れ、半刻ほど経った後、食器類を下げようともう一度部屋の前まで戻った時だった。扉をノックしても、呼びかけても返事がない。不審に思ったメイドがためらいながらもそっと扉を開けると、部屋の中で老女が溺れ死んでいた・・・・・・・

 もちろん、婦人の部屋に溺死につながるようなものは何ひとつ無かった。液体状の何かがあるとすれば、それはただ一杯の紅茶のみだった。


 能力者の仕業だ、と断定された。

 屋敷にはすぐさまたくさんの警吏が姿を現し、犯人探しが始まった。

 使用人たちが集められ、一人ひとり別室に連れて行かれた。少女も例外なく連れて行かれ、そこで指輪を嵌められた。

 ほんの微かな腐蝕痕だった。

 少女の嵌めた指輪に、紋章の跡が残ったのだ。

 少女は動転した。自身が能力を秘めていたことを、彼女自身も知らなかったのだ。それは能力者と呼べるかも定かでないような、わずかな力でしかなく、むろん、その力で一人の人間を殺すことなど到底出来たものではない。しかし警吏たちや屋敷の者たちは、能力を持つというだけで少女を恐れ、罪を被せ、断罪した。


 ――お前がやったのか


 少女は逮捕され、わけのわからないままに即時裁判にかけられた。なんの後ろ盾も持たない無力な少女には、権力に抗う術はなかった。

 少女は咎目にされ、監獄に入れられた。咎目であることを理由に、囚人たちからも恐れられ、忌み嫌われた。

 少女もまた怖れた。

 他ならぬ、自分自身の運命に。



 そして少女は、咎目の少年と出会った。

 少女は彼のために歌を歌った。幼い頃に、母や祖母から聞かされた歌。彼女の故郷で代々と伝えられてきた歌だ。

 その歌には癒やしの力があった。

 彼女自身の能力ではない。

 彼女の中に流れるほんの微々たる魔力では、他者を治癒するだけの能力は持ち得なかった。

 この癒やしの力は、神が与えてくださるのだ。そう母から聞かされていた。

 私はただ祈るだけ。

 どうか彼を癒やしてください。

 どうか彼を悪から守ってください。

 どうか彼を、そして私を救ってください。

 ……どうか、彼らを赦してください。


 その時、彼女の背後から物音が聞こえた。

 アリテの身体が竦み上がる。その華奢な腕を、男の手が鷲掴みにした。

「いやっ……! 助けて――――!」

 彼女の脳裏に浮かんだのは、無口で心優しい少年の姿だった。

 ユウリさん――――!

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