ソフトボール女子は白猫の夢を見るか?
「やっぱり実家は最高だな」
母さんが焼いてくれたサクサクの食パンを頬張りながら、僕はしみじみ独りごちた。
誰かに向けて言ったつもりでは無かったが、自分の分の食パンを持ってキッチンから出てきた母さんが反応した。
「康隆、向こうでもちゃんと朝ごはん作って食べてる?」
「いやー、一人暮らしだとどうしてもギリギリまで寝ちゃうからね……」
痛いところを突かれた僕は右手で襟足のあたりを掻くモーションでおどけて言った。
僕は普段は職場の小さな本屋の近くに借りたアパートで一人暮らしをしている。
とは言っても、大学を卒業する時に、いつまでも親元でスネを齧ってはいられないという名目で、一人暮らしをしたいがために家を出ただけなので、実家から大して遠くない位置に住んでいる。
そんな訳で喜び勇んで始めた一人暮らしだったが、いざ暮らしてみると何もしなくても三食出てきた実家が恋しくなり、結局こうして土日に休みが取れるとちょくちょく実家に帰ってきているのだった。
僕は皿に乗った目玉焼きに塩をふり、フォークで適当に切り分けた一切れを口に運んだ。程よく焼き目のついた白身と、とろりと旨い黄身が舌を踊らせる。やはり僕が適当に作った黄身の固い目玉焼きとは違う。断然美味しい。
これだから実家はやめられない。
「そういえば、千紘はまだ起きてこないの?」
僕の対面に座って一口目の食パンを飲み込んだ母さんが口元を隠して言った。
「ああ、いつもなら休みの日でもやたらと早く起きてるのにね」
千紘とは、僕の8つ下の妹のことだ。学生時代、毎日のように図書館に通いつめていた僕とは違って、千紘は高校のソフトボール部でバリバリ活躍するアウトドア派の女の子だ。
身長はそんなに高くないし、筋肉質な訳でもないように見えるが、2年生にしてスタメンに抜擢される名選手だ、と自分で言っていた。
彼女の通う高校は地元の中堅校で、文武両道を掲げているだけあって部活動にも力を入れているらしい。千紘の所属する女子ソフトボール部も例外ではなく、暗くなるまで練習をして夜遅くに帰ってくることも珍しくない。
平日に朝練もあるので、普段から早い時間に起き慣れているからか、部活のないはずの休日にも大体6時くらいには起きているのだが……。
僕は体をひねって、後ろの壁にかけられた時計を見た。
色鉛筆を模したカラフルな時針と分針は、およそ午前8時半を示す配置にいた。
確かに、今日はいつになく起きるのが遅い気がする。
まあ、そのうち起きてくるよ。と言おうとして息を吸った時、寝室のある2階から階段を下りてくる音がして、リビングに千紘がふらふらと現れた。
肩につかない程度の短い髪の毛が、いかにも起き抜けですと言わんばかりに好き勝手にいろんな方向へ跳ねている。
「おはよう、遅かったね」
「お兄ちゃん、おはよう。なんか最近ちゃんと眠れなくてさ…」
千紘は眠たそうに目をこすって食卓の席に着いた。
「眠れないなんて、珍しいね。いつもは昼でも夜でもお構いなしにすぐ寝ちゃうくせに」
自分のご飯をさっさと済ませた母さんが、キッチンに戻りながらからかうように言った。
「うん、ちょっとね……」
それに千紘は元気なさげに答える。
いつもなら、もう少し威勢よく言い返したりするのだが、どうしてしまったのだろう。
「何かあったの? 体調悪いとか?」
僕が訊ねると、千紘はゆっくりと首を振った。
「ねえ、お兄ちゃん。悪夢を運ぶ白い猫の話って聞いたことある?」
「悪夢を運ぶ白い猫ぉ?」
キッチンから反応した母さんの声と、僕の声が間の抜けたシンクロをした。千紘は神妙な顔つきで頷いた。
「いや、知らないな。どんな話?」
日頃からお化けや妖怪の類は信じないと豪語している千紘がこんな話をするなんて珍しいので、僕はつい興味を惹かれてしまった。
「一人で夜道を歩いていると、奇妙な目をした真っ白い猫が現れるんだってさ。その猫は、なんとかいう悪夢を見せる悪魔の遣いで、猫の目を見た人はその後悪夢にうなされるようになるんだってさ」
「なにそれ、変なの。都市伝説みたいなものね」
千紘の分の食パンを焼いた母さんが、ついでにコーヒーを淹れて戻ってきながら言った。
どうせなら僕の分もついでに淹れてほしかった。
「あたしも最初友達に聞いた時は馬鹿らしいと思ったんだけどね……この前見ちゃってさ」
「悪夢を運ぶ白い猫を?」
僕の質問に千紘は首肯する。
「あの猫がそうだったのかは分かんないけど、確かに片目だけ赤く光ってたんだよね……それから頻繁に悪夢を見るようになっちゃってさ」
どうやら相当参っているらしい。いつもの鬱陶しいほどの元気はどこへ行ってしまったのだろうというくらいぼんやりしている。
「また病院とか行って睡眠薬とか飲んだほうがいいのかなぁ……誰かこういう病気とか健康とかに詳しい人がいればいいんだけど」
千紘がぼそりと呟いた言葉で、僕はある人物を思い浮かべたのだった。




