ローストアーモンドはお好き?
「えっ!?」
推理小説ジャンキーとしては、橦木で頭をどつかれたような気持ちだった。青酸カリといえば、言わずと知れた推理小説御用達の毒薬だ。アガサ・クリスティだって小説内で使ったし、実際に凶器として使われた事件だってあったはずだ。それでも彼女からすれば殺人には向かないと言うのか……。
「言いたいことはたくさんあるけど、まずはここのトリック」
彼女がその細い指で示した文章は、話の要となるトリックを探偵が解説しているシーンを記したものだった。なんとなくダメな予感はしていたが、いざ指摘されるとなると些か残念な気がする。
「このトリック、まずいかな?」
僕はおそるおそる訪ねた。
「リアリティを求めるなら、まずいね」
彼女は頬杖をついて、サラリと言い切った。さらに少し身を乗り出して指摘を続ける。
「まず青酸カリっていうのは、空気中で簡単に潮解して二酸化炭素と反応し、炭酸カリウムになっちゃう」
「チョウカイ……タンサンカリウム……」
まるで分からない単語だった。聞くだけでアレルギーを起こしそうな単語が並び始め、思わず眉間に皺が寄り、耳を塞ぎたくなる。そんな僕を見てか、彼女が助け舟を出してくれた。
「要するに、保存が難しいの。瓶かなにかに入れて日光を避けて保存しないといけない。さもないと毒性がなくなっていってしまう」
「な、なるほど……辛うじて分かった」
小説の中では、毒薬の入った瓶が誰かに見つかってバレたり怪しまれたりしないように、入手した青酸カリを盛り塩に偽装して保管するというトリックにしてあった。なるほどこれではすぐに無毒化してしまいそうだ。
「それから、青酸カリはきっとすごく不味い」
「えっ? 何でそんなことが言えるの?」
「粘膜を刺激する性質がある上、独特の臭気があり、強い塩基性を持つから……えーと、つまり多分すごく口の中が痛むし、変な匂いがするし、すぐ吐いちゃうと思うんだ」
彼女は説明の言葉を選んでいるのか、少し間をおきながらゆっくり話してくれた。
「じゃあ、青酸カリを食品に混ぜて飲ませることは、現実には難しいってこと?」
「たぶんね。ちなみに青酸カリは胃まで到達しないと毒性が少ないと思われるから、被害者が吐いてしまえば未遂に終わる可能性もある」
全く知らない知識だった。青酸カリは無味無臭で、飲めばすぐに死ぬものかと無意識に思っていた。いや、というよりも青酸カリの味なんてイメージしようとしたことすらない。少なくとも、今まで読んできた推理小説には青酸カリの味についての言及はなかったように思う。
「青酸カリの致死量は200~300ミリグラムと言われているんだけど、まずくて吐き出しちゃうだろうから、1グラムくらい飲ませないといけないと思うよ。そうすると、ここで使われている、包丁の片面に毒を塗るというトリックを使って殺人をするのは難しいんじゃないかな」
そういいながら彼女は右手で頬杖をついて、左手で原稿用紙をとんとんと叩いた。
今指摘された点は、今回の話の中で要となるトリックとして用いたものだ。
「うーん、そうするとまたトリックを考え直さないといけないのか……」
「あと、ここの被害者を見つけたシーンなんだけど」
考え込む僕をしり目に、彼女は原稿用紙をパラパラとめくり、指摘を続けた。僕はショックを受けるのも程々に、用意していたノートに『青酸カリはまずくて飲めない。保管は日光を避けて瓶で』と素早く書いて、次の言葉を受ける準備をした。
「探偵が匂いを嗅いで、香ばしい匂いと言ってるとこね」
「アーモンド臭ってやつだよね? これはちゃんと調べて書いたから……」
「これね、とってもありがちな誤解なんだわ」
またもや僕は驚愕に目を見張った。ここは自分ではひそかに自信を持っていた部分だったので、ショックもひと際大きい。
「えっ……じゃあ本当はアーモンド臭なんてしないのか?」
「アーモンドはアーモンドでも、アーモンドの花の匂いなの。例えば…杏仁豆腐みたいな甘酸っぱい匂い」
「なるほど…そこは表現を変えれば良さそうだ……」
「青酸カリっていうのは、胃酸みたいな酸と反応して青酸ガスって呼ばれるようなガスを出すわけ。その匂いが甘酸っぱいの」
僕はまたもや手元に視線を戻し、ノートに『アーモンド臭は杏仁豆腐みたいな匂い』と書き記す。かなり衝撃的な指摘ではあったが、この部分に関しては、何とかダメージは少なくて済みそうだ。僕は内心ほっとして視線をあげた。
「ただ…」
「ま、まだ何かあるの……?」
「嫌ならいいけど、たくさんあるよ」
彼女は顔を上げてしれっと言い放った。
「ぜひ、ご教授くださいませ」
正直、ここまで徹底的にダメだしされるとまいってくるが、教えてくれるというなら教えてもらわない手はない。何しろこちらからは夕飯を提供することになっているのだ。僕はすぐさま頭を下げて教えを乞うた。
「ふむ、そこまで言うなら仕方ないな」
ふふんと得意気に笑い、彼女は話を続けた。
「青酸ガスを吸うのはとても危険な行為なの。小説では被害者の妹が懸命に人工呼吸をしてるけど、そんなことをすれば彼女も死んでしまいかねないよ」
「そうだったのか……青酸カリを飲むと、こうして喉を抑えて苦しそうにすると書かれた小説が多いもんだから、人工呼吸すればいいのかと思っていた……」
僕は実際に自分の首を絞めるように両手を頸部にあてた。
「その考えは間違ってない。その所作はチョークサインっていうんだよ。青酸カリを飲めば酸素運搬が阻害されるから……あー、えーと……まあとにかくメカニズムからすれば息が苦しくなるはず」
彼女はそう言って、メガネを中指で直した。彼女の赤いワンピースの袖から、白く細い腕がのぞく。
少しずつ専門用語をわかりやすく噛み砕いてくれるのは、本当にありがたい。ありのまま正確に専門用語をぶつけられたら、きっと今頃全身に蕁麻疹が出て何とかショックを起こし、大学病院に緊急搬送されていたに違いない。
「そこで、この探偵が青酸カリによる中毒を悟るシーンなんだけど、十円玉を使うのはどうかな?」
「十円玉……?」
「そ、十円玉。古くなって黒ずんだ十円玉に少し水を浸して、被害者の呼気や吐瀉物にあてれば、黒ずみが取れるんじゃないかと思うんだよね」
「そんな方法が……」
「あくまで、青酸かもしれないというところまでしか分からないけどね。ま、小説のネタにはいいんじゃない?」
彼女はふわあと欠伸をしながら答えて、ぐいっと伸びをした。
「ねえ、ちょっと疲れちゃった。休憩にしよ」
「……うん、そうしようか」
僕はノートに彼女の言った簡易判別法を記して、倣うように伸びをした。
休憩というからには、まだまだダメ出しは続くのだろうか。僕一人ではどんなに本を読んでもわからなかったことを、新藤さんはすらすらと口にした。まさに舌を巻く心地だった。
正直、とても大学院生には見えない彼女のあどけない容姿を見たときは、ここまで適格なアドバイスをくれるとは思っていなかった。しかし今や、自分と同い年である彼女の持つ知識の膨大さに圧倒され、そんな不安はどこかに消し飛んでしまったようだった。
ふと見れば、その新藤さんは電池が切れたようにテーブルに突っ伏して、何やらむにゃむにゃ呟いている。
「ん? 何か言った?」
「……足りない」
「え?」
「糖分が足りない。なんかたべものない?」




