スーパーアドバイザー
「ここが東橋大学……」
岡本に新藤さんの話を聞いた数日後、僕は地域でも指折りの名門、東橋大学のキャンパスに溢れる知性のオーラに圧倒されて立ち竦んでいた。構内は綺麗に整備され、散り際の桜がそこかしこに淡いピンク色を添えていた。道行く学生たちはいずれも聡明さを仄かに香らせて、まるで彼らのさりげない所作すら、小難しい理論や数式にいちいち裏打ちされているかのように感じてしまう。
僕は春先の空気を肺に仕入れ、竦む足に新鮮な酸素を送り、構内マップを頼りに歩き始めた。
ここに来たのは、もちろん新藤さんに会うためだった。
彼女、新藤真悠は岡本の元クラスメイトにして、バドミントン部の元チームメイトだったそうだ。僕とは真逆の根っからの理系で、図書室の常連さんであり、高校時代から成績はトップクラス。今は創薬を志して、東橋大学薬学部の薬品合成化学研究室で博士過程一年だそうだ。
そこまで話を聞いても、どうやら彼女のことを覚えてはいなかったが、高校の同級生に薬のエキスパートがいたとなれば渡りに船。「友達の友達は友達」という言葉を掲げて僕は東橋大学に乗り込んだのだった。
岡本が予め連絡を取ってくれたので、僕は彼女から指定されたという大学の薬学部棟の近くにあるカフェテラスに向かった。
休日ということもあってか、昼ごはん時を少し過ぎたカフェテラスには人は疎らで、ほとんど空のコーヒーカップを机に置いて話し込む女性と、椅子に埋まるように座ってぼんやりとお茶を飲む黒パーカーの青年、頬杖をついて暇そうにアイスを食べる赤いニットワンピースの少女しかいないようであった。
今でこそ人の少ないここにも、きっと平日昼頃には天才秀才が集ってきて、彼らは優雅にランチをとりながら、僕は存在すら知らないような最新の知見について語り合うのだろう。
そこかしこの机に眼鏡で高身長で利口そうな整った顔立ちの美男美女がいて、彼らが上品にコーヒーカップを置くその机上には難解な英語の論文が積まれていて、彼らはあたかも昨日見た映画について談笑するがごとく、高度で建設的な議論を交わすのだ。きっとそうであるに違いない。
僕は店内を少し見回して、どうやらトップクラスの頭脳を持つ才媛と思わしき人物がいないことを確認し、適当な席に腰を落ち着けた。
件の新藤さんとはどのような人なのだろうか。薬学部の博士課程というフレーズから、何となく白衣を着た女性を想像してしまう。
先ほどまで僕の想像の中で集っていた眼鏡で高身長で利口そうな整った顔立ちの美男美女の集団に、白衣を身にまとった女性が加わる。彼女は爽やかな笑顔で彼らと挨拶を交わすとそこに積まれた論文の一つを一瞥し、その内容の持つ学術的な価値について……。
妄想にふける僕の視界にアイスがニュっと現れた。
驚いて椅子から転げ落ちそうになりながら視線を上げると、案の定不機嫌そうな顔をした少女がアイスを差し出していた。
「ほれ、私が新藤真悠だよ。河野康隆くん」
「えっ……ああ」
僕は差し出されたアイスを受け取って曖昧に返した。
アイスを渡した彼女はその様子を確認し、仏頂面で言った。
「その様子だとやっぱり認知されていなかったみたいだね。まあ、あんまり期待はしてなかったよ」
「うっ……だってほとんど初対面だし……」
よく見れば、確かにこんな感じの人がいたような気がしないでもない。
言いわけがましくそう答えると、彼女はふうっとため息を吐いた。
「私も君も、毎日のように図書室に来てたんだし、少しくらいピンと来てくれても良いと思うけどな」
彼女は拗ねたように視線を外すと、僕の正面の席に座った。
実際、僕としてもいくら人の顔を覚えるのが苦手とはいえ、図書室の常連さんなら顔を見れば思い出すことができるだろうと思っていた。岡本に話を聞いた時は何も思い出せなかったが、図書室では会話も少ないから、何年何組の誰かは知らないが、顔だけ覚えているなんてことはよくある。しかし、新藤さんのような人はどうも僕の記憶からは出てこない。
栗色の髪は後頭部でまとめてポニーテールにされており、前髪はスッキリとした眉にかからないくらいに整えられている。薄くピンク色をしたメタルフレームの眼鏡の奥に存在感を放つ大きな黒目は、小さな丸顔と相まってあどけないながらに落ち着いた顔立ちを形作っていた。
そのかわいらしい出で立ちは、先ほどまで想像していた「眼鏡で高身長で利口そうな整った顔立ちの美男美女」のイメージとは違っていた。女子高生だと紹介されたら、うっかり信じてしまいそうな童顔である。
なんなら、女子中学生だと言われてもぎりぎり信じてしまうかもしれない。
「で、どういったご用件で?」
「あぁ、そうだった……これを読んでみてほしいんだけど」
彼女の声で僕は我に帰り、同時に彼女に見とれていたことを悟った。僕はカバンから筆記用具と原稿用紙の束を取り出し、机に置く。とりあえず分からないなりに、何とか書いてみた創作小説の原稿だ。
「読めって……私は小論文の先生ではないんだけど?」
新藤さんは、やや不機嫌な表情のまま少しだけ眉根を下げた。
「小論文じゃなくて小説なんだけど…毒薬を使った推理小説を書いてみたんだけど、毒とかよく分からなくて」
僕の説明を聞いて、彼女は納得したように頷いた。
「なるほどね、毒や薬のエキスパートとして進言がほしいと」
「文系まっしぐらだったもんで……調べてもさっぱり分からないんだ……」
「ふうん……」
「いきなりやってきてこんなこと頼むのは図々しいのも承知なんだけど、頼めないかな?」
僕はそう言って手を合わせ、頭を下げてお願いしますのポーズをとる。彼女は原稿を眺めて、ふむと小さく声を漏らして何か考えているようだった。ふと視線を上げた彼女と目が合うと、ぷいっと目を逸らされてしまった。
「…いいでしょう」
彼女は少し間をおいて不承不承ながらという素振りを見せて答えた。
「私のことを覚えててくれなかったのはショックだけど、苦手ながらに科学と向き合おうとする姿勢に免じて許そう。教えたげる」
「本当に!? ありがとう!」
「ただし!」
僕がお礼を言いきる前に、彼女が食い気味に言葉を遮った。厳し気な物言いに、自然とこちらも緊張してしまう。
「夕飯をおごりなさい」
「え?」
「え、じゃない。私だって暇じゃないんだ。労働に見合う報酬をもらわないとな」
僕は思わず財布の中を確認したい気持ちになった。普段本を買う以外にお金を無駄には使わないが、そんなに裕福な暮らしをしているわけではない。とはいえ、この機を逃せば、僕の毒薬ミステリーは今生完成しない気がするし、何よりここまで来たら引き返せない。二人分の夕飯代がかかるのはやや憂鬱であったが、僕は投資だと思って彼女の提案に乗るとした。
「分かった。夕飯をおごろう」
「よし来た! じゃあ、読ませてもらうね」
彼女は原稿を手に取り、眼鏡を上げるとスッと目を細めた。自分の原稿を読まれているからという事もあるかもしれないが、その動きで何となく緊張感が漂う。彼女は一枚、また一枚と原稿用紙を捲っていく。彼女は無言で読み進め、原稿をめくる小気味よい音の他に余計な音は立てなかった。普段から難解な参考文献や論文を読んでいるからか、まるでこの原稿の文字の海の中を、自在に泳ぐかのような速さだった。
「青酸カリ……ねぇ……」
彼女は原稿を読みながら、呟くように言った。
「うん、推理小説の定番かなって思って……」
「まず言っておくけど」
彼女は原稿から目を離すと、すらりと人差し指を立ててこちらを見た。
「青酸カリは殺人には向かないと思う」




