春来たるらし
「ただいま」
実家のドアを開けて玄関に入ると、洗面所の方から部屋着姿の千紘がひょっこり顔をのぞかせた。
「あれ、お帰りお兄ちゃん。今週末もこっち?」
「別にいいじゃんか、帰ってきたって」
僕は適当に反応しつつ靴を脱いで、リビングへと歩いて行った。後ろから千紘もついてきた。
テレビの前に置かれた大きめのソファに、仕事で疲れた体を落とすと、ついてきた千紘がその隣におさまった。
「あれから眠れるようになった?」
僕はテレビのリモコンを操作しながら訊ねた。
「それがだめなんだよねえ。変な夢ばっか見ちゃう」
「え? 温度とか変えてもダメだった?」
千紘の方へ顔を向けると、千紘はひじ掛けに頬杖をついて首を振っている。
「ちゃんとエアコンとかつけて、お母さんの部屋から加湿器借りてみてもダメだったよ」
「じゃあ、やっぱり悪夢を運ぶ白い猫のせい……?」
僕が神妙な顔でそういうと、千紘はケラケラ笑った。キッチンの方に目を向けると、母さんまで夕飯の準備をしながら失笑している。
ある程度真面目に言ったつもりだったので、何となく恥ずかしい気分になった。
「でも、早く何とかしちゃいたいな。せっかく今度久しぶりにおじいちゃんち行けるのに、ちゃんと眠れないんじゃ楽しくなくなっちゃうよ」
千紘は、一転深刻そうな表情を浮かべた。
「ソフトボールの朝練にも響くだろうしなあ……また新藤さんに聞いてみようかな」
「新藤さんって、この前寝るときに室温とか気を付けるようにアドバイスしてくれた人?」
「そうだよ。一見女子高生にしか見えない感じだけど、すごく頭が良くて……」
「え! 新藤さんって女の子だったの!?」
僕が何気ない一言のつもりで言ったセリフに、千紘が大きく反応した。あまりの勢いに僕は軽く面食らってしまう。
「あれ、言ってなかったっけ」
言ってからデジャブを感じた。どうやらここのところ色々説明が足りていないことが多いようだ。アマチュアとはいえ、小説書きとして気をつけねば。
「そうかあ……ふうん……むふふ」
「なんだよ、気持ち悪い笑い方してさ」
「いやあ、いよいよお兄ちゃんにも春が来るのかぁ」
8つ下の妹がにやにやと不敵な笑みを浮かべながら妙なことを言い出した。
これまで僕に浮いた話の一つもなかったことを受けてのリアクションのようだ。別に新藤さんと何かがあったわけではないが、そうやって冷やかされると少しくすぐったい。
先ほどまで深刻そうに悩んでいたはずの千紘が、すっかり好奇に瞳を輝かせて、身を乗り出してきた。
「ねえねえ、新藤さんってどんな人なの?」
「うーん、どんな人、かあ……」
僕は新藤さんのことを頭に思い浮かべる。
女子高生どころか、女子中学生と言われても服装によってはうっかり信じてしまいそうな容姿を持ち、そのくせ信じられないくらいの大食いで、何でも知っているのではないかというくらい圧倒的な量の知識を持っていて……。
こうして考えると、まだまだ新藤さんについては知らないことが多いような気がする。そういえば同じ高校のはずなのに、高校で彼女を見かけた覚えもない……いや、覚えていないだけなのだろうか?
「見た目は女子高生に見えるくらいだけど、科学のことなら何でも知ってる同い年の女の子だよ」
「ええー、それだけ?」
僕が何とか持ってる情報をまとめた紹介に、千紘は不満げに頬を膨らませた。
「まあ、それだけ……かな?」
「ふうん……一回会ってみたいな、お兄ちゃんの彼女候補!」
ソファからずり落ちそうになった。
「ちょっ、いや、そんなんじゃないよ」
「ふうん……ほおう……」
千紘は意味深な相槌を打ってキッチンの方へ向かってしまった。ふと見えた横顔は、それはそれは楽しそうにニヤニヤしていた。間違いなく母さんに吹き込む気だ。
早く止めないと、もっと面倒なことになる。場合によっては赤飯など炊かれかねない。
「絶対引き合わせてやるものか」
僕は小さく呟いて千紘の暴走を止めに行くのであった。




