第七章 文殊院
沈帰塵はバスの時刻表を確認した。
文殊院行きの便は、二十分後だった。
彼はベンチに座って待った。
隣には先ほどの猫のことがまだ残っているような静けさがあった。
風は弱く、空は薄く曇っている。
やがてバスが来た。
乗客はほとんどいない。
彼は一番後ろの席に座った。
バスはゆっくりと町を抜けていく。
商店街、住宅地、田畑。
景色は少しずつ色を失っていった。
窓の外に稲刈り後の田んぼが広がる。
切り揃えられた稲の跡が、整然と並んでいる。
その向こうに山が見える。
沈帰塵はその風景を見ながら、過去を思い出した。
長安。
秋の郊外。
渭水のほとり。
農民が刈り取った麦の茎を燃やしていた。
煙が空に溶けていく。
その横を馬で通った。
老農が手を挙げて柿を差し出した。
「どこから来た?」
「終南山だ。」
「そんな山から、なぜ都へ?」
「人を探している。」
「見つかったか?」
「まだだ。」
「まだ探すのか。」
「探す。」
老農は笑い、残りの柿を全部渡した。
バスは山道に入った。
道は細くなり、家が少なくなる。
やがて文殊院の近くで停車した。
沈帰塵は降りる。
空気が変わっていた。
少し冷たい。
湿り気がある。
土と草の匂いが濃くなる。
小さな売店でお茶を買った。
店のテレビでは天気予報が流れている。
明日は晴れ。
彼は頷きもせず外に出た。
文殊院へ続く細い農道を歩く。
稲刈りの終わった田んぼが左右に広がる。
風が吹くたびに草がかすかに揺れる。
誰もいない。
遠くで鳥が鳴いた。
やがて石の塀が見えてきた。
文殊院だった。
門の脇に銀杏の木がある。
葉は半分以上黄色くなっている。
境内の中では誰かが掃除をしていた。
白い衣を着た女性だった。
巫女のような装い。
長い髪を束ねている。
箒を持って、落ち葉を掃いていた。
動きはゆっくりだが、正確だった。
一枚ずつ葉を集めていく。
北側の落ち葉だけ、少し時間をかけていた。
沈帰塵はその動きを見ていた。
彼女は彼に気づいた。
顔を上げる。
一瞬だけ視線が交わる。
「いらっしゃいませ。」
静かな声だった。
沈帰塵は小さく頷いた。
「あなたに会いに来た。」
彼女の手が止まる。
「私に?」
「うん。」
沈帰塵は封筒を取り出した。
文殊院の印が押された封筒。
彼女の表情がわずかに変わる。
「それは……どこで?」
「奈良町の裏。箱の下に埋まっていた。」
彼女は封筒を受け取る。
中の写真を見た瞬間、言葉が止まった。
「この人は……」
沈帰塵は言う。
「知らない。ただ、あなたの曾祖父の友人らしい。」
彼女はゆっくり首を振る。
「曾祖父……?」
「駅前の噴水で、あなたの祖母に会った。そのとき同じような写真を見た。」
彼女は黙ったまま写真を見続けた。
やがて顔を上げる。
「あなたは……何者なんですか。」
沈帰塵は少し間を置いた。
「ただの旅人だ。」
「旅人が、どうしてこんなものを……」
「たまたまだ。」
その言葉に、彼女はすぐには返さなかった。
沈帰塵の目を見ていた。
長い沈黙。
それから小さく息を吐く。
「お茶でもどうですか。」
「いいよ。」




