第六章 空気
沈帰塵は三日目に、その店に入った。
看板のない店だった。
入口の板には白いチョークで「空気」と書かれ、その横に小さな雲の絵が描かれていた。
彼はしばらくその文字を見てから、扉を押した。
ベルが鳴る。
ガラスではない、金属の鈴だった。
少し鈍い音で、遠くの記憶に触れるような響き方をした。
店の中は狭かった。
テーブルは四つだけ。
壁には水彩画が掛けられている。
奈良の風景だった。
興福寺の塔、鹿、雨の中の石畳。
上手いとは言えない。
だが、描いた人の目は確かだった。
壁の一角には、手描きの紙が紐で吊るされていた。
猫、カップ、銀杏の葉。
素朴な線だった。
空気にはコーヒーの香りと、少し古い紙の匂いが混ざっている。
時間が少し遅く流れている場所だった。
カウンターの奥に、店主の女性がいた。
三十代くらい。
藍色のエプロン。
静かな顔をしている。
沈帰塵を見ると、小さく頷いた。
余計な言葉はなかった。
「アメリカン、ホットで。」
やがてコーヒーが出てきた。
カップの下には手織りの布のコースターが敷かれていた。
藍染めで、少し歪んでいる。
手の温度が残っているようだった。
一口飲む。
苦い。
だが嫌ではない。
後から少し甘みが戻ってくる味だった。
長安で飲んだ薬湯の記憶が、ふとよみがえる。
そのとき、外に猫がいた。
三毛猫だった。
耳の先が少し欠けている。
店の前の石段に座っている。
動かない。
彼を見ている。
「待っていた」ような目だった。
沈帰塵はカップを持ったまま、猫を見た。
一千三百年前。
終南山の道観にも、同じような猫がいた。
冬になると入ってきて、火のそばで眠った。
何も要求しないが、そこにいるのが当然のようだった。
ある冬、その猫は来なくなった。
翌年、小さな猫を連れて戻ってきた。
阿倍がその猫を見て笑ったのを覚えている。
「また来たな」
「来ているだけだ」
「それを飼うって言うんじゃないのか」
「違う」
「違わないだろう」
そんなやり取り。
沈帰塵はカップを置いた。
猫はゆっくり瞬きをした。
彼は小さく呟く。
「ゆっくり瞬きをするのは、眠いんじゃない。信じているだけだ。」
誰に向けた言葉でもなかった。
猫は立ち上がり、店の外へ出た。
そして振り返る。
一歩進む。
また振り返る。
沈帰塵は椅子から立ち上がった。
店主は何も聞かなかった。
ただ彼を見るだけだった。
沈帰塵は外へ出た。
猫は前を歩く。
一定の距離を保ちながら。
店の裏へ回る。
そこには木箱が積まれていた。
使われていない荷物のように見えた。
猫はその横で止まる。
振り返る。
沈帰塵はしゃがんだ。
箱と壁の間に、小さな影があった。
子猫だった。
まだ目が完全に開いていない。
後ろ足にビニール紐が絡まっていた。
きつく締まっている。
だが血は出ていない。
鳴き声はない。
ただ小さく震えている。
母猫がその横でじっと見ていた。
沈帰塵はゆっくり手を伸ばした。
動きは最小限だった。
子猫は少しだけ体を動かしたが、逃げなかった。
彼は紐に指をかける。
ゆっくり外す。
結び目は固かった。
時間をかけてほどいた。
紐が外れる。
子猫は小さく体を丸めたあと、母猫の方へ向かう。
母猫は子猫の頭を一度舐めた。
それから沈帰塵を見る。
ゆっくり瞬きをした。
信頼の動作だった。
沈帰塵は立ち上がろうとして、地面に何かを感じた。
石ではない。
土でもない。
紙だった。
箱の下に埋まっている。
少しだけ角が見えている。
彼は指で土を払う。
引き抜く。
封筒だった。
古い牛皮紙。
湿気を含み、縁が脆くなっている。
封の部分には赤い印。
「文殊院」。
沈帰塵の動きが止まった。
封筒を裏返す。
宛名はない。
差出人もない。
封はすでに緩んでいた。
中を開ける。
写真が一枚入っていた。
白黒。
長衫の中国人。
石舞台の前。
手に本を持っている。
さっきの写真と同じ人物だった。
しかし、少し年を取っていた。
髪に白いものが混じっている。
姿勢は同じ。
目も同じ。
変わっていないのは「見ている方向」だった。
石の向こう。
沈帰塵は写真を裏返した。
昭和十二年。
秋。
彼は写真を封筒に戻した。
ポケットに入れる。
立ち上がる。
コーヒーを飲みに戻ると、すでに冷めていた。
店主が静かに言う。
「あの猫、雨の日でもここにいます。」
沈帰塵は答えない。
窓の外には、もう猫はいなかった。
石段だけが残っていた。
彼は封筒を軽く指で押さえた。
また一つ、時間が落ちてきたような感覚があった。




