第五章 写真
翌朝。
沈帰塵はフロントへ傘を返しに行った。
昨日とは違うスタッフがいた。
若い女性だった。
ポニーテールにした髪。
濃紺の制服。
明るいが落ち着いた雰囲気だった。
「おはようございます。傘、ありがとうございました。」
沈帰塵は傘を差し出した。
女性はそれを受け取り、傘立てへ戻そうとした。
だが途中で手を止めた。
「あの……」
沈帰塵を見る。
「あなた、昨日、駅前で――」
沈帰塵は黙って待った。
女性は少し照れたように笑った。
「あのおばあさん、私の祖母なんです。」
「そうか。」
「母から聞きました。昨日、駅前で中国の若い男性が祖母の珠を外してくれたって。」
「外しただけだよ。」
女性は少し首を振った。
「祖母、あなたのことを『いい人だった』って言ってました。」
沈帰塵は何も言わなかった。
女性はカウンターの下から一枚の紙を取り出した。
丁寧に折られている。
「もしよかったら、これを。」
沈帰塵は受け取った。
紙を開く。
中には一枚の古い写真が入っていた。
白黒写真だった。
縁は黄ばんでいる。
折り目も深い。
かなり長い年月を経ていることがわかった。
写真には二人の人物が写っていた。
一人は日本人の若い男性。
古い時代の洋服を着ている。
石積みの前に立っていた。
もう一人は中国人だった。
長衫を着ている。
口髭をたくわえ。
一冊の本を手に持っている。
背景の石はただの石ではなかった。
石舞台古墳。
沈帰塵はしばらく写真を見つめた。
女性が言う。
「祖母によると、その中国の方は曾祖父の友人だったそうです。」
「この人が珠を?」
「たぶん。」
沈帰塵は視線を上げた。
「名前は?」
女性は首を横に振る。
「わかりません。」
少し考えたあと。
「でも祖母が言ってました。」
「何と?」
「『阿』だったか『安』だったか……そんな感じの名前だった気がするって。」
沈帰塵は写真を裏返した。
裏面には鉛筆で何か書かれている。
文字はかなり薄くなっていた。
彼は目を近づける。
かろうじて読めた。
――石舞台。
――大正三年。
――春。
沈帰塵は静かに計算した。
大正三年。
一九一四年。
今から百年以上前。
彼は写真を丁寧に畳んだ。
そしてポケットへしまう。
「ありがとうございます。」
女性は首を振った。
「返さなくていいです。」
「え?」
「祖母が言ったんです。」
女性は少し笑った。
「その人にあげなさいって。」
沈帰塵は黙った。
しばらくして小さく頷く。
「そうか。」
旅館を出た。
向かいの銀杏の木の下で立ち止まる。
朝の日差しが葉の隙間から差し込んでいた。
彼はもう一度写真を取り出した。
長衫の中国人。
石舞台。
手にした本。
そして視線。
その人物は観光客には見えなかった。
石を見ている。
石の向こうを見ている。
さらにその下にある何かを見ている。
そんな目だった。
沈帰塵はこの人物を知らない。
少なくとも記憶にはない。
だが不思議な確信があった。
この人もまた。
中国から来た。
石舞台へ向かった。
そして何かを探していた。
自分と同じように。
彼はふと思い出した。
千二百年以上前。
長安。
春。
阿倍仲麻呂が若かった頃。
彼は沈帰塵の前に立っていた。
手には欠けた玉佩を握っている。
「これは何だ?」
阿倍が聞いた。
「私の命だ。」
沈帰塵は答えた。
阿倍は玉佩を見た。
「命なのに、どうして欠けている?」
「わからない。」
「困らないのか。」
「困る。」
「じゃあどうする。」
「探す。」
阿倍は少し黙った。
それから聞いた。
「どれくらい探している?」
「長い。」
「あとどれくらい探す?」
「わからない。」
阿倍は笑った。
「じゃあ私も探そう。」
沈帰塵は彼を見た。
当時の阿倍はまだ若かった。
理想と好奇心でいっぱいだった。
沈帰塵は少しだけ笑った。
「そうか。」
阿倍も笑った。
「任せろ。」
銀杏の葉が一枚落ちた。
沈帰塵は現在へ戻る。
写真をポケットへしまった。
そしてバス停へ向かう。
時刻表を見る。
明日香村行き。
次の便は九時四十五分。
彼はベンチに腰掛けた。
奈良の朝は静かだった。
遠くでバスのエンジン音が聞こえる。
風が銀杏の葉を揺らす。
沈帰塵はその音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。
石舞台。
大正三年。
そして「阿」。
点と点が少しずつ線になり始めていた。




