第四章 ホーム
その日の夕方。
沈帰塵は夕食を食べに出かけた。
奈良町の細い通りを歩いていると、小さなラーメン屋を見つけた。
店内は六席しかない。
厨房では店主が一人で忙しそうに働いていた。
沈帰塵は醤油ラーメンを注文し、隅の席に座った。
隣にはサラリーマンがいた。
ネクタイを緩め、ビールを半分ほど飲んでいる。
その時、スマートフォンが鳴った。
男は電話に出た。
「はい……はい……そうですか……わかりました。」
声は小さかった。
電話を切ったあと、スマートフォンを机に置き、そのまま長いこと見つめていた。
ラーメンが運ばれてきても、箸を取ろうとしなかった。
沈帰塵は自分のラーメンを食べ終え、会計を済ませるため立ち上がった。
男の横を通り過ぎる時、少しだけ足を止めた。
「大丈夫ですか。」
男は顔を上げた。
少し驚いたようだった。
それから小さく頷いた。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
沈帰塵はそれ以上何も言わず、店を出た。
外はすでに薄暗くなっていた。
駅のホームへ向かう。
ホームにはそれほど人はいなかった。
学生が数人。
買い物帰りらしい夫婦。
スーツ姿の会社員。
そして、一人の若い男。
黄色い安全線のすぐ近くに立っていた。
つま先は線を越えている。
沈帰塵はその隣に立った。
何も言わない。
しばらくして列車が入ってきた。
強い風がホームを吹き抜ける。
若い男のマフラーが舞い上がった。
男は反射的に手を伸ばした。
その拍子に身体が少し前へ傾く。
沈帰塵は静かに袖を引いた。
ほんの少しだけ。
「線の近くに立つと、気が吸い取られるよ。」
男は振り返った。
一瞬きょとんとした顔をしたあと、慌てて一歩後ろへ下がった。
「あ、すみません。」
「うん。」
沈帰塵はそれ以上説明しなかった。
列車がホームを通過する。
轟音。
風。
光。
そして静寂。
男は無意識に後頭部を掻いた。
「なんだろう、あの人……」
沈帰塵はもう聞いていなかった。
次の列車に乗り込む。
ドアが閉まる。
列車がゆっくり動き出した。
窓の外でホームが流れていく。
男の姿も小さくなっていく。
沈帰塵は窓に映る自分の顔を見た。
そしてふと昔を思い出した。
千三百年前。
長安。
朱雀門の近く。
まだ若かった阿倍仲麻呂が、人混みの中を歩いていた。
市場は混雑していた。
荷車。
商人。
馬。
役人。
旅人。
皆が急ぎ足だった。
阿倍は人波に押されながら歩いていた。
その時だった。
一頭の馬が暴れた。
悲鳴が上がる。
人々が逃げる。
阿倍は反応が遅れた。
沈帰塵は人混みを抜けて彼の袖を引いた。
ほんの少しだけ。
その瞬間。
暴れた馬が彼のすぐ横を駆け抜けた。
阿倍はしばらく呆然としていた。
やがて言った。
「助かった。」
沈帰塵は答えた。
「いや。」
「いや、じゃない。」
阿倍は笑った。
「お前はいつもそうだな。」
沈帰塵は何も言わなかった。
阿倍は空を見上げた。
「いつか借りを返す。」
沈帰塵はその言葉を忘れていた。
だが阿倍は忘れていなかった。
列車の窓の外。
奈良の夜が流れていく。
沈帰塵は目を閉じた。
静かな車内にレールの音だけが続いていた。




