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第三章 珠

 部屋は広くなかった。


 シングルベッドが一つ。


 机が一つ。


 椅子が一脚。


 窓は東向きだった。


 沈帰塵は荷物を床に置き、静かに机の前へ腰を下ろした。


 手首に巻いていた赤い紐を解く。


 珠を机の上へ置いた。


 スタンドライトの光が当たり、深い褐色の表面がかすかに光を返す。


 沈帰塵はしばらく何もせず、それを見つめていた。


 石を見ているわけではない。


 読んでいるのだ。


 古い物には記憶が残る。


 言葉としてではなく。


 傷としてでもなく。


 時間そのものが刻んだ痕跡として。


 沈帰塵はそれを読むことができた。


 珠は語らない。


 だが、その表面に刻まれた細かな筋。


 光の鈍い反射。


 長い年月が残した重み。


 それらが静かに物語っていた。


 この石は日本のものではない。


 中国のものでもない。


 もっと西だ。


 遥か西域。


 乾いた風の吹く土地で磨かれ、珠となった。


 誰かが身につけた。


 そしてシルクロードを渡った。


 砂漠を越えた。


 雪山を越えた。


 幾つもの国を越えた。


 やがて長安へ辿り着いた。


 持ち主が変わる。


 また変わる。


 さらに変わる。


 最後に、一人の日本人の手へ渡った。


 その日本人は海を渡った。


 そして珠もまた、この国へ来た。


 百年。


 二百年。


 三百年。


 さらに時が流れる。


 気がつけば何百年もの歳月が過ぎていた。


 そして昨日。


 奈良駅前の老婦人の手首にあった。


 沈帰塵は珠を裏返した。


 そこで指が止まる。


 ごく細い刻みがあった。


 文字ではない。


 紋でもない。


 小さな記号だった。


 離。


 離卦。


 火。


 南。


 沈帰塵は椅子の背にもたれた。


 離卦。


 火。


 南方。


 奈良の南。


 飛鳥。


 石舞台。


 偶然ではない。


 そう思った。


 窓の外では風が吹いている。


 銀杏の葉が一枚、また一枚と落ちていく。


 沈帰塵は珠を掌に乗せた。


 目を閉じる。


 ――長安。


 千三百年前。


 終南山の道観。


 阿倍仲麻呂が縁側に座っていた。


 春だった。


 庭の桃の花が咲いている。


 阿倍は珠を指で転がしながら言った。


「帰塵」


「なんだ」


「お前は、どうしてそんなに昔のことを覚えている」


 沈帰塵は湯呑を置いた。


「覚えているわけじゃない」


「では何だ」


「忘れられないだけだ」


 阿倍は少し考えた。


「それは同じではないのか」


「違う」


「どう違う」


 沈帰塵は庭を見た。


 風が吹く。


 花びらが舞う。


「覚えていることは、自分で持っているものだ」


「うん」


「忘れられないことは、向こうが離してくれない」


 阿倍はしばらく黙っていた。


 やがて笑った。


「なるほど」


「分かったのか」


「全然分からない」


 そう言って珠を投げてよこした。


 沈帰塵は片手で受け取る。


「だが、お前らしい答えだ」


 そのとき二人はまだ若かった。


 少なくとも阿倍は若かった。


 海の向こうへ帰る未来を信じていた。


 再会できる未来も信じていた。


 沈帰塵は目を開いた。


 部屋には静寂だけがあった。


 机の上の珠も動かない。


 ただ、先ほどより色が澄んで見えた。


 老婦人の手首を離れたことで、本来の姿を少しだけ取り戻したのかもしれない。


 沈帰塵は珠を再び手に取った。


 指先でゆっくり撫でる。


 離卦。


 火。


 南。


 石舞台。


 そこに何かがある。


 写真の中国人も、それを探していた。


 阿倍仲麻呂も、きっと知っていた。


 そして自分もまた。


 千年以上歩き続けてきた道の先で、その場所へ向かおうとしている。


 窓の外で風が鳴った。


 どこか遠くから寺の鐘が聞こえる。


 沈帰塵は珠を赤い紐へ通し直した。


 そして手首に巻く。


 灯りを消すにはまだ早い。


 だが奈良の夕暮れは静かに近づいていた。


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