第二章 バス
沈帰塵はタクシーには乗らなかった。
駅前のバス停へ向かい、路線図を見上げる。
三条通方面行き。
ちょうどよかった。
やって来たバスに乗り込み、運賃箱へ硬貨を落とすと、後方の窓際へ腰を下ろした。
発車してしばらくすると、彼は窓を少しだけ開けた。
十一月の風が入り込む。
冷たい。
だが刺すような冷たさではない。
日向に干した草の匂いが混じっていた。
手首の珠は静かだった。
彼はそれを指先で摘み、光に透かしてみる。
深い褐色。
表面にはごく細い筋が走っている。
年輪のようにも見える。
だが木ではない。
石そのものが持つ模様だった。
天然石だ。
しかも古い。
とても古い。
珠そのものが悪いわけではない。
人を縛っていたのは、この石が見てきたものだった。
誰が持っていたのか。
どんな出来事を通ってきたのか。
そしてなぜ奈良へ辿り着いたのか。
長い年月の痕跡が染み込んでいただけだ。
沈帰塵は目を閉じた。
――千三百年前。
長安。
東市。
西域から来た商人がいた。
鼻筋が高く、深い眼窩を持つ男だった。
羊皮の外套は砂に汚れ、旅の長さを物語っていた。
路地に布を広げ、その上へ商品を並べている。
玉。
瑪瑙。
琉璃。
そして、この珠。
黒とも灰ともつかぬ色をした石だった。
誰も手に取らない。
誰も値段を聞かない。
沈帰塵だけが足を止めた。
「どこから来た」
商人は言った。
砂漠を越えた。
雪山を越えた。
いくつもの国を越えた。
そしてここへ来た。
「いくらだ」
そう尋ねると、商人は首を振った。
「金はいらない」
そして少し恥ずかしそうに笑った。
「家族へ手紙を書いてくれ」
唐の人は字が上手いと聞いた、と。
沈帰塵は紙と筆を借りた。
家族への手紙を書いた。
故郷にいる妻へ。
成長したであろう子供へ。
無事でいること。
帰れないかもしれないこと。
それでも忘れていないこと。
商人は何度も礼を言った。
珠はその礼として渡された。
その後。
阿倍仲麻呂が道観へやって来た。
珠を見つけるなり言った。
「それは縁起が悪い」
沈帰塵は笑った。
「縁起の悪い物などない」
「なら何だ」
「縁起の悪い出来事があるだけだ」
阿倍は珠を手に取り、しばらく眺めた。
「これは何を見てきたんだろうな」
「知らない」
「知りたくないのか」
「覚えている者がいるなら、それでいい」
阿倍は笑った。
「じゃあ私が覚えていてやろう」
そう言って珠を懐へ入れた。
沈帰塵は目を開いた。
バスは興福寺の前を通り過ぎていた。
五重塔が午後の光の中に立っている。
静かだった。
瓦は灰色。
壁は白い。
周囲の木々は黄色へ変わり始めている。
だが沈帰塵は塔を見なかった。
阿倍仲麻呂のことを考えていた。
バスが三条通へ到着する。
彼は降車ボタンを押し、ゆっくり立ち上がった。
バスを降りると、まず近くのコンビニへ入った。
水を一本買う。
レジの脇には奈良の史跡を紹介する小冊子が並んでいた。
何気なく手に取る。
頁をめくる。
石舞台古墳。
飛鳥。
日本最大級の方墳。
説明を一通り読んだあと、元の場所へ戻した。
店を出る。
陽射しが肩に落ちる。
奈良の町は静かだった。
車の流れさえ、どこかゆっくりしている。
彼は歩いた。
しばらくすると、一軒の店の前で足を止める。
看板はない。
扉に白いチョークで、
空気
とだけ書かれていた。
その横には小さな雲の絵。
ガラス越しに店内を見る。
カウンター。
小さなテーブル。
壁には水彩画。
若い女性がレジの奥でスマートフォンを見ていた。
沈帰塵はしばらく眺めた。
だが入らない。
ただ立ち止まり。
そしてまた歩き出した。
宿は細い路地の奥にあった。
向かいには大きな銀杏の木が立っている。
幹は太く、一人で抱えきれないほどだった。
枝葉は大きく広がり、空に一つの傘を開いたように見える。
葉は半分ほど黄色くなっていた。
木漏れ日が歩道へ落ち、光の斑点を作っている。
その木の下に、一人の老人が立っていた。
空を見上げている。
銀杏の葉を見ているらしかった。
沈帰塵もその隣に立った。
老人が何か話しかけてくる。
日本語だった。
意味は分からない。
老人はもう一度ゆっくり言う。
やはり分からない。
だが老人は笑った。
そして葉を指差し、ひらひらと落ちる仕草をした。
沈帰塵はうなずいた。
老人は満足そうに笑う。
ポケットから飴を一つ取り出した。
沈帰塵へ差し出す。
彼は受け取った。
老人は手を振り、そのまま去っていった。
沈帰塵は木の下に残った。
飴の包みを開く。
口へ入れる。
みかん味だった。
驚くほど甘かった。




