第二十三章 明日香
石舞台へ向かう朝。
空はよく晴れていた。
沈帰塵はJR奈良駅前の噴水で阿倍清乃を待っていた。
五分ほど遅れて、彼女が小走りでやって来る。
マフラーが風に揺れていた。
布袋を抱えている。
「遅れました。」
「まだ時間があります。」
二人は明日香行きのバスに乗った。
乗客は多くない。
外国人旅行者。
登山姿の老人。
幼い子どもを抱いた母親。
子どもが泣く。
母親が静かにあやす。
「大丈夫。」
「大丈夫。」
バスは奈良の町を離れた。
家が少なくなる。
田んぼが広がる。
刈り取りの終わった田には、短い稲株だけが残っていた。
山並みが少しずつ近づいてくる。
清乃は膝の上の古いノートを見つめていた。
「曾祖父も、この道を通ったのでしょうか。」
「歩いたかもしれません。」
「その頃は、まだバスがありませんでしたから。」
沈帰塵は窓の外を見たままだった。
しばらくして言う。
「阿倍仲麻呂は、この道を歩かなかった。」
清乃は顔を上げた。
「帰って来られなかったからですか。」
沈帰塵は静かにうなずく。
「奈良へ戻ったのは、人ではない。」
「遺されたものだけだ。」
清乃は何も言わなかった。
祖父から聞いた話を思い出しているようだった。
沈帰塵も黙っていた。
長い年月を思っていた。
人は帰れなくても。
想いは帰ることがある。
バスが止まる。
石舞台前。
二人は降りた。
冷たい風が吹いている。
山は静かだった。
歩き始める。
清乃が小さく言った。
「西村先生も、ここへ来ていたそうです。」
「毎日のように。」
沈帰塵は足を止めなかった。
「探しに来ていたんでしょうか。」
「違う。」
しばらく歩いてから答えた。
「守りに来ていた。」
清乃は、その言葉を胸の中で繰り返した。
守る。
何を。
まだ分からなかった。
二人は石舞台へ向かって歩き続けた。




