第十章 国宝館
沈帰塵は五日目に奈良国立博物館へ入った。
仏像を見に来たわけではない。経巻を見に来たわけでもない。一枚の写真を追って来た。写真の中で、長衫を着た中国人が石舞台の前に立ち、手に一冊の本を持っていた。その人を彼は知らない。しかし、その人がこの博物館に来ていたことは分かっていた。
写真の裏には「石舞台。大正三年。春」と書かれていた。さらにその下に、鉛筆で消えかけた小さな文字があった。「法隆」「宝物」。法隆寺宝物館。東京にある。なぜ奈良ではない場所の名が書かれているのか。沈帰塵にはまだ分からなかった。だが、奈良にも手がかりは残っているはずだった。彼は奈良国立博物館の前で、しばらく立ち止まった。
十一月の光が灰色の外壁を照らしている。修学旅行の中学生が列を作り、教師が点呼を取っていた。彼はチケットを買い、中へ入った。
国宝館の照明は暗い。展示ケースの上に小さな光が落ちている。展覧室には人が少ない。沈帰塵は奥へ進み、目立たない小さな展示ケースの前に立った。
そこには、黄褐色に変色した一枚の紙があった。唐代の楮紙。大人の手の半分ほどの大きさ。端には焼け焦げた痕がある。千三百年前の紙が、そこにある。隣には銅鏡が置かれていた。しかし彼は鏡を見なかった。紙だけを見た。墨は行書。
最初の行に「阿倍足下」とあった。その二文字を見た瞬間、彼は止まった。阿倍。阿倍。駅の老婆。珠。写真。文殊院の印。すべてが同じ方向へつながる。彼はその場に立ったまま動かなかった。
そして一千三百年前の長安を思い出した。曲江池畔の酒場。阿倍仲麻呂が向かいで酒を飲んでいた。酔って顔を赤くしながら言った。「帰塵、俺は明日出発する。」彼は「ああ」と言った。阿倍は「何か言うことはないのか」と言った。彼は「ない」と言った。阿倍は笑った。「お前は、いいことを言わないな。」彼は「言えないだけだ」と言った。阿倍は杯を掲げ、長安の灯りを見た。「帰ってくる。」彼は「ああ」と言った。阿倍は杯を置き、立ち上がった。戸口まで行き、戻ってきて、欠けた玉佩を差し出した。「これを預かってくれ。」彼はそれを受け取った。「これはお前のものだ。」阿倍は「お前が持っていてくれ」と言った。彼はそれをポケットに入れた。阿倍は去った。彼は一晩中座っていた。翌朝、店の小僧が机の上に置かれた銀の塊を見つけた。酒代よりはるかに多かった。小僧は追いかけたが、人影はもうなかった。
彼はその先を読み進めた。
明日浮海、風涛叵測。幸為加裘。足下素称耐寒、前歳曲江夜飲、三卮猶栗、豈非強言。無自苦。抵倭後、設有不平、但称僕名。雖彼輩未必識僕為誰。或万一有驗。帰来共飲。僕俟足下。
彼は読み終えた。しばらく顔を手の中に埋めた。泣いてはいない。ただ呼吸だけが長く続いていた。展示ケースのガラスに、自分の顔が映っている。若い顔だが、その瞳は深く沈んでいる。彼はそれを見た。そして静かに笑った。展示室を出た。
外の光は異様に明るかった。十一月の奈良の空は、青すぎるほど青かった。




