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暴かれた嘘と、鬼の頭首の冷徹な愛

「香織(かおり)が、私に……?」


 その名前を聞いた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。


 指先から急速に血の気が引き、昨夜の呪いの発作とは違う、どろりとした冷たい恐怖が全身を這い上がっていく。


 優秀な「異能」を持ち、両親から蝶よ花よと愛されて育った異母妹の香織。


彼女にとって、異能を持たない「無能」の私は、ストレスの捌け口であり、自分をより美しく見せるための引き立て役でしかなかった。


 着物を切り裂かれたことも、泥水をかけられたことも、土蔵に閉じ込められたことも、数え切れない。


 彼女がなぜ、ここに? 私を笑いに来たのだろうか。それとも、私がまだ生きていることを不快に思い、今度こそ息の根を止めに来たのだろうか。


「ゆ、柚葉(ゆずは)様! 顔色が真っ青です……っ!」


 私がガタガタと震え出したのを見て、メイドの雫(しずく)さんが慌てて駆け寄ってくる。


その声で、私の手を握ったまま眠っていた黎明(れいめい)様が、パチリと目を覚ました。


「……ん、柚葉……? どうした、また痛むのか!?」


「れ、いめい、さま……ちがい、ます、香織が……」


 黎明様は弾かれたように顔を上げ、私の震える体を強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。そして、鋭い視線を雫さんへと向ける。


「雫。何があった」


「だ、旦那様! 門の前に、斎森(さいもり)家の香織と名乗る女性が来ておりまして。柚葉様に面会を求めているのですが、酷く傲慢な態度で……」


「斎森家の、娘だと?」


 その瞬間、黎明様の紫水晶(アメジスト)の瞳に、ぞっとするほどの冷たい怒りが宿った。


 部屋の空気が一瞬にして凍りつき、ピリピリとした圧倒的な「鬼」の覇気が満ちる。それは私に向けられたものではないと分かっていても、息が止まりそうになるほどの重圧だった。


「追い返せ。二度とこの敷居を跨ごうなどと思うなと伝えろ」


「は、はいっ!」


 雫さんが踵を返そうとした、その時だった。


「待って……!」


 私は、震える手を伸ばして黎明様の袖を掴んだ。


「柚葉?」


「……追い返しても、香織はきっと諦めません。実家の両親に言いつけて、また嫌がらせをしてくるはずです。それに……黎明様や久遠(くおん)家にご迷惑をおかけするわけにはいきません。私が、会って話をつけます」


 この温かく優しい居場所を、これ以上私のせいで汚されたくない。


 恐怖で足は竦んでいたけれど、私は必死に声を絞り出した。そんな私の決意を見た黎明様は、ふっと息を吐き、私の頭を優しく撫でた。


「……分かった。だが、君を一人で行かせはしない。私も同席する。いいな?」


「はい……ありがとうございます」


 彼の大きな手が背中に添えられるだけで、不思議と足に力が入り、前を向くことができた。


 屋敷の一階にある、豪奢な応接室。


 私と黎明様が足を踏み入れると、そこには最高級の友禅の着物を身に纏い、高慢な笑みを浮かべた香織がソファーに腰掛けていた。


「あら。随分と待たせてくれるじゃないの、お姉――」


 私を嘲笑おうと口を開いた香織の言葉は、途中でピタリと止まった。


 彼女の目は、私の隣に立つ黎明様に釘付けになっていたのだ。


 今日の黎明様は、黒のフロックコートに身を包み、大人の男の只ならぬ色気と凄みを漂わせている。


化け物だという噂を信じ切っていた香織にとって、息を呑むほど美しい彼の姿は、完全に予想外だったのだろう。


 香織の頬がサァッと赤く染まり、その瞳に明らかな「欲望」と「嫉妬」の火が灯るのを、私は見逃さなかった。


「……用件を聞こう。私の妻に、何用かな」


 黎明様が、氷のように冷たい声で言い放つ。


 その「私の妻」という言葉に、香織は眉をひそめ、すぐに媚びるような甘い声を出した。


「はじめまして、久遠様。私は斎森家の次女、香織と申します。本日は、手違いでそちらに送ってしまった『身代わり』の姉を引き取りにまいりましたの」


「……手違い、だと?」


「ええ! 本来、由緒正しき久遠家に嫁ぐべきなのは、優秀な異能を持つこの私ですわ。姉のような何の力もない無能で、おまけに余命わずかな女など、久遠様に相応しくありません。ですから、今日から私が久遠様の――」


「黙れ」


 黎明様の低く通る声が、応接室に響き渡った。


 たった一言。それだけで香織はビクッと肩を跳ねさせ、顔を引きつらせた。


「貴様ら斎森家が、柚葉を虐げ、身代わりとして差し出したことはすべて調べがついている。今更、どの口が『手違い』などとほざくのか。それに――」


 黎明様は、私の肩を力強く抱き寄せた。


「柚葉は、無能などではない。彼女は、この帝都でも類を見ないほど強大な『浄化の異能』の持ち主だ」


「……えっ?」


 香織が間の抜けた声を上げた。いや、驚いたのは私も同じだった。


 私が、浄化の異能? そんな馬鹿な。私は物心ついた時から、一度だって異能の力など使えたことはないのに。


「お父様もお気付きになったからこそ、貴様を寄越したのだろう? ……柚葉の首元にある痣。それは『呪い』などではない。幼い頃から虐げられ、感情を殺してきた彼女の中で、行き場を失った強大すぎる異能が暴走し、体を内側から蝕んでいる証だ」


 黎明様の言葉に、香織の顔色が悪くなる。どうやら図星らしい。


「ば、馬鹿なことを! お姉様が無能なのは斎森家の常識です! それに、もし本当に力があるなら、実家である私たちが管理すべきです! さあお姉様、さっさと帰るわよ!」


 香織がヒステリックに叫び、私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。


 昔の記憶がフラッシュバックし、私は「ひっ」と短く悲鳴を上げて目を瞑った。


 ――しかし、香織の手が私に触れることはなかった。


「……私の妻に気安く触れるな、下賤の者が」


 バチンッ!という破裂音とともに、香織の体が目に見えない力で弾き飛ばされ、床に無様にも尻餅をついた。


 目を開けると、黎明様の紫水晶の瞳が、鬼火のように妖しく光り輝いていた。


 本物の、怒り。帝都の裏社会を統べる「化け物」としての、圧倒的な殺気が香織に向けられていた。


「ひぃっ……! ば、化け物……っ!」


「私は最初から、柚葉を妻にと望んでいた。貴様のような性根の腐った女に用はない」


 黎明様は懐から一枚の紙切れを取り出し、香織の顔の前に放り投げた。


 それは、私が家を出る時に突きつけられた『離縁状』だった。


「これは貴様らが柚葉に突きつけたものだ。柚葉はもう斎森の人間ではない。久遠柚葉だ。彼女の力も、彼女の命も、すべては私のものだ。……これ以上、私の妻を煩わせるなら、斎森家ごとこの帝都から消し去ってやろう」


「あ……あぁ……っ!」


 腰を抜かした香織は、恐怖で顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、這うようにして応接室から逃げ出していった。


 パタン、と静かに扉が閉まる。


 静寂が戻った応接室で、私は呆然と立ち尽くしていた。


「……柚葉。怖がらせてしまってすまない」


 黎明様が振り返る。先ほどの恐ろしい鬼の気迫はすっかり消え去り、そこにあるのは、いつもの優しく、少し困ったように微笑む大好きな人だった。


「黎明、様。さっきのお話は……」


「ああ。黙っていてすまなかった。君は『無能』じゃない。君の心と体を蝕んでいるのは、呪いではなく、強大すぎる君自身の力なんだ」


 黎明様は私の両手をそっと包み込んだ。


「君は覚えていないかもしれない。……十年前の雪の日。斎森家の裏山で、手傷を負って死にかけていた醜いあやかしの少年を、その小さな手で包み込み、『浄化の異能』で命を救ってくれたことを」


「十年前……雪の日……?」


 記憶の奥底を探る。そういえば、まだ実の母が生きていた頃。裏山で真っ黒な犬のような、狼のような生き物が血を流して倒れていたのを見つけたことがあった。


 可哀想で、必死に「治って」と願って撫でた。すると、その生き物は眩い光に包まれ、姿を消したのだ。ずっと、あれは夢だったのだと思っていた。


「あの時の犬が、私だ。君はその時、無意識に強大な異能を使った。だが、その後君の母親が亡くなり、過酷な環境に置かれたことで、君は心を閉ざし、力も暴走状態になってしまったんだ」


「私が、黎明様を……?」


「ああ。私はずっと、私を救ってくれたあの優しい女の子を探していた。君を救い出すために」


 トン、と。黎明様が私を引き寄せ、広い胸の中に閉じ込めた。


 ドクン、ドクンと、彼の力強い鼓動が聞こえる。


「余命半年なんて言わせない。君の異能の暴走は、私が必ず止めてみせる。だから柚葉……。どうか、私の本当の妻になってくれないか。もう『飾り』ではなく、一生、私の隣で笑っていてほしい」


 甘く、切実な声。


 それは、紛れもない「愛の告白」だった。


(同情じゃ、なかったの……? ただ哀れな小鳥を拾ったわけじゃない。黎明様は、ずっと私を探してくれていたの?)


 「自分は愛される価値がない」。そう頑なに信じて疑わなかった心の氷壁が、音を立てて崩れ落ちていく。


 彼がくれた美しい着物も、美味しい食事も、温かい言葉も、すべて私自身に向けられた本当の愛情だったのだ。


「私、で……いいのですか? こんなに不器用で、自信がなくて……泣き虫な、私で」


「君がいい。君じゃなきゃ、駄目なんだ」


 ポロポロと、堪えきれずに涙が溢れ出した。


 実家で流したような悲しみの涙ではない。心の底から湧き上がる、温かくて甘い、喜びの涙だった。


「……はい。黎明様。私も、あなたが……大好きです」


 彼のお腹の辺りの服をギュッと掴み返すと、黎明様はホッとしたように息を吐き、私の髪に顔を埋めて、何度も何度も「愛している」と囁いてくれた。


 過去のトラウマも、命を蝕む暴走も、まだ完全に消え去ったわけではない。


 けれど、この底なしに甘く優しい鬼の旦那様が一緒にいてくれるなら。私はきっと、どんな困難でも乗り越えていける。そう強く思えたのだった。

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