解き放たれる呪いと、永遠を誓う真実の愛
香織が逃げ帰ってから、私の世界はまるで魔法にかけられたように鮮やかに色づき始めた。
「柚葉。ああ、今日も愛らしいな。君が私の腕の中にいることが、まだ夢のように思えるよ」
朝。ふかふかのベッドの中で目を覚ますと、すぐ特等席にいる黎明様と目が合った。
彼は私が起きるのをずっと待っていたかのように、愛おしげに目を細め、私の頬に優しく口づけを落とす。
「れ、黎明様……っ。朝から、その……恥ずかしいです」
「妻を愛でて何が悪いんだい? 十年間も我慢したんだ、これくらい許してほしいな」
すっかり甘えん坊になった最強のあやかしを前に、私は頬をりんごのように赤く染めることしかできない。
『契約結婚』という名目は完全に消え去り、私たちは心を通い合わせた「本物の夫婦」になった。
同情ではなく、彼が私を女として、そして過去の恩人として深く愛してくれているという事実は、私の心を満たし、確かな自信を与えてくれていた。
けれど、一つだけ乗り越えなければならない壁があった。
ズキッ……。
不意に、首元の黒い痣が痛んだ。
私が顔をしかめると、黎明様はすぐさま表情を引き締め、私の首元にそっと手を当てた。
「……やはり、異能の暴走が限界に近づいているな。柚葉、今夜決行しよう」
「今夜……」
「ああ。君の中に眠る強大すぎる『浄化の異能』。それが君自身の自己否定の心によって行き場を失い、体を内側から蝕んでいる。この暴走を止めるには、君自身が過去のトラウマを乗り越え、力を正しく解放するしかない」
黎明様の紫水晶の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「大丈夫だ。君が解放した力は、私がすべて受け止める。……私を、信じてくれるかい?」
「はい。黎明様となら、私、なんだってできます」
もう、実家の土蔵で怯えていた私ではない。
愛する人のために生きたい。その強い思いが、私に勇気をくれていた。
その夜。
私たちは屋敷の裏手にある、静かな日本庭園にいた。満月の青白い光が、池の水面をキラキラと照らしている。
私は白装束に身を包み、庭園の中央に正座した。
黎明様は私の正面に座り、私の両手を彼の手でしっかりと包み込む。
「目を閉じて、柚葉。己の奥深くにある力に意識を向けるんだ。恐れなくていい」
黎明様の低く落ち着いた声に導かれ、私は静かに目を閉じた。
意識を内側へ沈めていく。すると、胸の奥底で、熱く渦巻く巨大なエネルギーの塊があるのを感じた。これが、私を苦しめていた「呪い」の正体であり、私の「異能」だ。
(これを、外へ……)
力を解放しようとした瞬間だった。
『この穀潰し! お前なんの役にも立たない無能じゃないか!』
『お姉様は一生、暗い土蔵の中で埃を被って生きていけばいいのよ!』
脳裏に、義母や香織の冷たい声が響き渡った。
ビクッと体が震える。十年以上も浴びせられ続けた呪いの言葉。自己肯定感を根こそぎ奪い去った過去のトラウマが、真っ黒な泥のように私の心に絡みついてくる。
(私なんて、無能だ。生きていても仕方がない。愛される価値なんてない……)
痛い。苦しい。首の痣から焼け焦げるような痛みが走り、呼吸が浅くなる。
黒い泥に引きずり込まれそうになった、その時。
「柚葉ッ!!」
私を繋ぎ止めるように、両手を握る黎明様の手にグッと力が込められた。
「彼らの言葉など聞く必要はない! 君は無能なんかじゃない、私を救った光だ! 私の最愛の妻だ!」
「れ、いめい、さま……っ」
「私を見ろ、柚葉! 君を一人で暗闇には行かせない。君の過去も、痛みも、すべて私が愛で上書きしてやる!!」
目を開けると、そこには必死の形相で私を呼ぶ黎明様がいた。
彼の背後からは、強大な「鬼」としての黒紫の妖気が立ち昇り、私に絡みつくトラウマの泥を払いのけるように包み込んでくれている。
(そうだ……。私はもう、一人じゃない)
私には、こんなにも私を愛し、大切にしてくれる人がいる。
もう、自分を無能だなんて思わない。自分の価値を、他人の言葉で決めるのはやめる。
「私は……黎明様と共に、生きたい……ッ!」
心の底から湧き上がった「生」への強い渇望。
その瞬間、私の中でせき止められていた何かが、音を立てて決壊した。
「……あ、あああっ!!」
私の体から、眩いほどの純白の光が天に向かって立ち昇った。
それは、周囲の闇をすべて払拭するほどの強大で、どこまでも温かく優しい「浄化」の光だった。桜の花びらのような淡い光の粒子が、風に乗って庭園中を舞い踊る。
「素晴らしい……! 柚葉、そのまま力を出し切れ! 溢れた分は、私が喰らってやる!」
黎明様が私の光を受け止め、彼の強大な妖気で中和していく。
光は私の体中を駆け巡り、長年私を蝕んでいた真っ黒な泥を、過去の痛みを、すべて綺麗に洗い流していった。
やがて光が収まり、ふっと力が抜けた私の体を、黎明様がしっかりと抱きとめた。
「よく頑張ったね、柚葉……」
優しく囁く彼の声は、微かに震えていた。
私はゆっくりと目を開け、自分の首元にそっと手を触れた。
「……ない」
あんなに熱く、痛みを放っていた黒い痣が、跡形もなく消え去っていた。
「呪いは解けたんだ。君の余命はもう、尽きることはない。これからは……私と共に、同じ時を生きるんだ」
「黎明様……!」
私は堪えきれず、彼の広い胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。
死の恐怖から解放された安堵と、新しい命をもらった喜び。黎明様は私の背中を優しく撫でながら、何度も何度も私の髪に口づけを落としてくれた。
それから、季節は巡り、春。
「柚葉。そろそろ出掛けようか」
「はい、旦那様!」
帝都の街は、満開の桜に彩られていた。
私は、黎明様が特別に仕立ててくれた、淡い若草色の着物に身を包んでいた。以前のように香織の代わりでも、哀れみで買ってもらったものでもない。私が自分で選び、黎明様が微笑んで贈ってくれた、私だけの着物だ。
髪には、あの日買ってもらった紫水晶の簪が揺れている。
あの騒動の後、斎森家は久遠家の手によって裏社会から徹底的に圧力をかけられ、没落の一途を辿っていると聞いた。しかし、今の私にはもう何の関係もないことだ。
隣を歩く黎明様は、春の陽光の下でも目を奪われるほど美しい。
彼がスッと差し出してきた大きな手を、私は今度は迷うことなく、しっかりと握り返した。
「重くはないかい? 疲れたらすぐに言ってくれよ。なにせ、君は私の大事な大事な宝物だからね」
「もう、黎明様ったら過保護すぎます。私、もう病気じゃないんですよ?」
クスクスと笑うと、黎明様は少しだけむくれたように唇を尖らせた後、ふわりと花が咲くような極上の笑顔を浮かべた。
「仕方ないだろう? 愛しくて愛しくて、どうにかなってしまいそうなんだ。……愛しているよ、柚葉」
街ゆく人が振り返るのも構わず、彼が私の額にちゅっと可愛らしい口づけをする。
顔から火が出そうになりながらも、私は幸せで胸がいっぱいになった。
「私も……愛しています。世界で一番」
冷たい土蔵で死を待つだけだった無能な身代わり花嫁は、今、世界で一番幸せな鬼の妻として、温かい春の陽だまりの中を歩いている。
彼と繋いだ手の温もりは、これから先も永遠に、私の心を優しく照らし続けるだろう。
(了)




