暴れ出す呪いと、隠された過去の約束
久遠家に身代わりとして嫁いでから、ひと月が経とうとしていた。
私の生活は相変わらず、甘く、穏やかで、おとぎ話のような日々が続いていた。
「柚葉。またそんな暗いところで本を読んでいるのかい? 目が悪くなるよ」
屋敷の奥にある広大な図書室。ステンドグラスから差し込む色とりどりの光の中、私が古い活字を追っていると、呆れたような、けれど甘く優しい声が降ってきた。
振り返ると、長身を優雅に折り曲げて、黎明様が私の顔を覗き込んでいる。
「黎明様……。お仕事は、もうよろしいのですか?」
「ああ。君の顔が見たくて、早めに切り上げてきたんだ。今日は帝都の有名な西洋菓子店で、君の好きそうな『しゅーくりーむ』を買ってきたよ。一緒に食べよう」
彼は当たり前のように私の隣に腰を下ろし、私の髪に挿された紫水晶の簪にそっと指先で触れた。
黎明様が私を見つめる紫水晶の瞳は、いつも甘く蕩けそうで、まるで本物の愛する妻に向けるような熱を帯びている。
その視線に射抜かれるたび、私の胸はドクンと大きく跳ねた。
嬉しい。幸せだ。彼と一緒にいる時間が、愛おしくてたまらない。
……けれど。
(駄目よ、柚葉。勘違いしてはいけない。これはただの、同情なのだから)
私はそっと視線を逸らし、首元を覆うように着物の襟をかき合わせた。
襟の下には、私の命を蝕む「黒い痣」が隠されている。ここ数日、この痣が時折ズキズキと熱を持ち、痛むようになっていた。
私の余命は、あと五ヶ月ほど。刻一刻と、死の足音は近づいているのだ。
「……柚葉? 顔色が悪いようだが、どこか痛むのかい?」
私のわずかな変化を察知し、黎明様の美しい眉が心配げに寄せられる。
私は慌てて首を振って、作り笑いを浮かべた。
「なんでもありません。ただ、少し本を読み疲れてしまったみたいで……。しゅーくりーむ、いただきましょうか」
「そうか? ……無理はするなよ。君に何かあれば、私は……」
言い淀んだ黎明様の声が、ひどく切実な響きを帯びていて、私は胸が苦しくなった。
彼に心配をかけてはいけない。私はただの契約妻なのだから、最後まで「手のかからない、大人しい小鳥」でいなければ。
その夜のことだった。
「っ……ぁ、あ……!」
深夜。ふかふかのベッドの中で、私は猛烈な痛みで目を覚ました。
首元の黒い痣が、まるで焼け火箸を押し当てられたように熱い。息がうまく吸えず、全身から脂汗が吹き出す。
(痛い……熱い、どうして……。こんな急に、呪いが……?)
今までの痛みとは比べ物にならない。体の中から、得体の知れない強大な力が内臓を食い破って外へ出ようとしているような、そんな恐ろしい感覚だった。
シーツを握りしめ、声にならない悲鳴を上げる。
「柚葉様!? 柚葉様、どうなさいましたか!!」
異変に気付いたメイドの雫さんが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。私のただならぬ様子を見て、彼女は小さな悲鳴を上げる。
「だ、旦那様! 黎明様をお呼びしてきます!!」
パタパタと遠ざかる足音。
薄れゆく意識の中で、私はぼんやりと考えていた。
ああ、私の命は、半年も持たなかったんだ。ここで死んでしまうんだ。
黎明様に、あの甘いお菓子のお礼も、優しい言葉への感謝も、ろくに伝えられないまま……。
「柚葉ッ!!」
バンッ!と大きな音を立てて扉が開き、黎明様が風のように飛び込んできた。
寝巻き姿のまま、髪を乱した彼は、ベッドで苦しむ私を見るなり顔面を蒼白にさせた。
「れ、いめい……さま……」
「喋らなくていい! 柚葉、しっかりしろ!」
黎明様は私を抱き起こし、強く抱きしめた。
その瞬間、彼の紫水晶の瞳が、妖しい光を放ち始めた。大気からビリビリとした圧倒的な「鬼」の力が放出され、部屋の空気が震える。
恐ろしい化け物の力。けれど、私に向けられたその力は、どこまでも温かく、私の体内で暴れ回る熱を必死に押さえ込もうとしてくれていた。
「っ……、くそっ、なんて強大な力だ……! これが、お前を蝕んでいるのか……!」
黎明様は苦しげに歯を食いしばりながら、私の首元の痣に手を当てた。
彼の手から流れ込むひんやりとした気配が、暴走する熱を少しずつ中和していく。しかし、彼自身もひどく体力を消耗しているようだった。
「だ、め……黎明様……。私のために、そんな……」
役立たずの私のために、どうしてそこまで必死になってくれるのか。
私が死んだって、誰も悲しまないのに。
薄れゆく意識の中で、私を抱きしめる黎明様の腕が、微かに震えているのを感じた。
彼は、私の耳元で、まるで祈るように低く囁いた。
「死なせない……。絶対に、死なせるものか。あの時のように、君を失ってたまらない……!」
「あの、とき……?」
「私は、君を救うために見つけ出したんだ。今度こそ、私が君を……ッ!」
その必死な声は、単なる「同情」から来るものには聞こえなかった。
まるで、ずっと昔から私を知っていて、ずっと私を想い続けてくれていたような――。
(どういう、こと……? 私たちは、初めて会ったはずなのに)
疑問を口にする前に、私の意識は深い闇の中へと沈んでいった。
チュン、チュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
次に目を覚ますと、窓の外はすっかり明るくなっていた。
「……ん」
寝返りを打とうとして、体に重みを感じて動きを止めた。
見下ろすと、ベッドの横に椅子を引き寄せ、私の手札を両手でしっかりと握りしめたまま、黎明様が眠っていた。
美しい銀髪が乱れ、目の下にはうっすらと隈ができている。一晩中、つきっきりで看病してくれていたのだ。
(黎明様……)
そっと彼の手から指を引き抜こうとしたが、彼は無意識のうちに私の手をギュッと強く握りしめ、「……柚葉」と苦しげに私の名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
(もう、誤魔化せない)
彼がなぜ私にこんなにも固執するのか、昨夜の言葉の意味は何なのか。それはまだ分からない。
けれど、彼が私を心から心配し、大切にしてくれていることだけは、痛いほど伝わってきた。
私は、空いている方の手を伸ばし、眠る黎明様の頬にそっと触れた。
「……好き。大好きです、黎明様」
誰にも聞こえない、小さな声。
彼が目覚めている時には絶対に言えない、私の本当の気持ち。
余命わずかな身で、彼を愛してはいけないと分かっていたのに。別れが辛くなるだけだと知っていたのに。
私はもう、この優しすぎる鬼を愛さずにはいられなかった。
「失礼いたします。柚葉様、お加減は……あっ」
その時、そっと部屋の扉が開いて、雫さんが顔を出した。
私が目を覚ましていること、そして黎明様が私の手を握って眠っているのを見て、彼女はホッとしたように微笑んだ。
しかし、彼女の表情には、どこか言い淀むような影があった。
「雫さん……? どうしたの?」
私が小声で尋ねると、雫さんは困ったように猫耳を伏せ、ためらいがちに口を開いた。
「あの……。実は先ほど、屋敷の門前に、お客様が見えまして……」
「お客様?」
「はい。……斎森家から、柚葉様の異母妹である香織様が、面会を求めてこられております」
「え……?」
その名前を聞いた瞬間、私の全身の血の気がサァッと引いた。
香織。私からすべてを奪い、私を嘲笑い、身代わりとしてこの鬼の巣窟へ追いやった張本人。
なぜ、彼女がここに?
――『お前はもう斎森家の人間ではない』
そう言って離縁状を突きつけたはずの実家が、一体何の用だというのか。
せっかく見つけた温かな居場所に、黒い泥のような不安が忍び寄るのを感じて、私は黎明様の手を、無意識に強く握りしめ返していた。




