華やかな帝都と、優しすぎる鬼の我儘
久遠家に身代わりとして嫁いでから、数日が過ぎた。
私の生活は、実家にいた頃とは何もかもが逆転していた。
朝は柔らかな絹の布団で目覚め、メイドの雫さんが用意してくれた温かいお湯で顔を洗う。
食事は毎回、目移りするほど豪華で温かいものが並び、おやつには甘い舶来物の西洋菓子まで出てくる。
そして何より――私を虐げ、罵倒する人間がここには一人もいなかった。
「柚葉様、本日の紅茶はダージリンにいたしました。お茶請けは、帝都で流行っている『まかろん』というお菓子ですよ!」
猫耳をパタパタと揺らしながら、雫さんが美しい洋食器をテーブルに並べる。
春の陽光が差し込むサンルームで、ふかふかのソファに座って紅茶をいただく。おとぎ話のお姫様のような生活。
けれど、私の心は常に落ち着かず、ソワソワと波立っていた。
「あの、雫さん。本当に、私、何もしなくていいのでしょうか。お庭の草むしりとか、窓拭きとか……」
「またそんなことを仰って! 柚葉様は黎明様の奥様なのですから、ゆったりとくつろいでいただくのが一番のお仕事です!」
「でも……」
働かざる者食うべからず。それが斎森家での絶対のルールだった。
何の役にも立たない「無能」は、少しでも気を抜けば容赦なく鞭で打たれ、食事を抜かれた。ここにいる私は、文字通り息をしているだけの穀潰しだ。
いつか黎明様に愛想を尽かされ、「やはりお前は役立たずだ」と冷たい目で見下ろされるのではないか。その恐怖が、いつも心の奥底にへばりついている。
「……ただいま、柚葉」
ふいに、サンルームの入り口から声がした。
振り返ると、黒い外套を羽織った黎明様が立っていた。その後ろには、屈強な黒服のあやかし達が何人も控えている。
黎明様は、私が振り向く直前まで、氷のように冷たく恐ろしい目をしていた。裏社会を取り仕切る「鬼の頭首」としての凄絶な覇気が、空気をビリビリと震わせていたのだ。
しかし、私と目が合った瞬間。
その恐ろしい覇気は嘘のように霧散し、紫水晶の瞳が甘く、ひどく優しげに細められた。
「お帰りなさいませ、黎明様。お仕事、お疲れ様です」
私が立ち上がって頭を下げると、黎明様は足早に歩み寄り、私の手を取った。
「ああ、君の顔を見たら疲れなど吹き飛んでしまったよ。……退屈していなかったかい?」
「はい。雫さんがよくしてくださるので……」
「そうか。だが、ずっと屋敷に閉じ込めておくのも気の毒だ。気晴らしに、帝都の街へ出掛けようか」
「えっ……?」
驚く私をよそに、黎明様は楽しげに微笑むと、すぐに出かける準備を整えさせてしまった。
屋敷の門前に用意されていたのは、馬車ではなく、黒光りする最新型の「自動車」だった。
大正浪漫の息吹を感じる帝都でも、これほど立派な自動車に乗れるのは一握りの特権階級だけだ。
革張りのふかふかした座席で、黎明様と隣り合わせに座る。
窓の外を流れる景色は、私にとって見るものすべてが新鮮だった。赤レンガ造りの立派な洋館、ガス灯が並ぶ大通り、和服に洋傘をさして歩くモダンガールたち。
ずっと土蔵に閉じ込められていた私には、眩しすぎる世界だった。
「着いたよ。帝都で一番大きな百貨店だ」
自動車が止まったのは、大理石で造られた壮麗な建物の前だった。
黎明様にエスコートされて中に入ると、一階には化粧品や香水の華やかな香りが漂い、ショーケースには宝石がキラキラと輝いている。
「さあ、柚葉。欲しいものはあるかい?」
「えっ? い、いえ! 私、着の身着のままで十分ですから……!」
慌てて首を振るが、黎明様は私の言葉など聞いていなかった。
彼は私を高級な洋装店に連れて行くと、店員を呼び寄せて言った。
「彼女に似合いそうな洋服を見繕ってくれ。ああ、選ぶ必要はない。この棚からこの棚まで、彼女のサイズに合わせてすべて包んでくれ」
「す、すべてですか!?」
「靴も鞄も、帽子もだ。最高級の品を用意してくれ」
店員たちが色めき立ち、次々と美しいドレスや小物が運ばれてくる。
私は血の気が引く思いだった。どれもこれも、私が一生かかっても稼げないような値段の札がついている。
「黎明様! やめてください、私にはこんな……もったいないです!」
「もったいない? 何がだい?」
「だって、私はただの身代わりで……それに」
言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
(それに、私はあと半年で死んでしまうのだから。)
その言葉を口にするのは、あまりにも惨めだった。
しかし、私の言わんとしたことを察したのか、黎明様の表情がサッと曇った。
彼は大きな手で私の頬をそっと包み込み、周囲の店員たちに聞こえないような低い声で囁いた。
「柚葉。私に、我儘をさせてはくれないか」
「我儘、ですか……?」
「そう。私は君を、世界で一番美しく飾りたいんだ。君にふさわしいものをすべて与えたい。これは私の自己満足だ。だから、君はただ受け取ってくれるだけでいい」
紫水晶の瞳が、切なげに揺れている。
ああ、なんて不器用で、優しい人なのだろう。
黎明様は、余命わずかな私が不憫でならないのだ。少しでも良い思いをしてあの世へ逝けるようにと、哀れな小鳥に精一杯の同情を注いでくれている。彼のお金と権力を使えば、これくらい造作もないことなのだろう。
(……この人の優しさを、拒絶して傷つけるほうが、罪だわ)
私は胸の奥の痛みを押し隠し、無理に微笑みを作って頷いた。
「……ありがとうございます、黎明様。大切に、着させていただきますね」
私が受け入れると、黎明様はホッとしたように、花が綻ぶような美しい笑みを浮かべた。その笑顔を見るだけで、胸がギュッと締め付けられる。
これ以上、彼を好きになってはいけない。そう自分に言い聞かせるほどに、彼の一挙一動に心が惹かれていくのを感じていた。
買い物の最後、黎明様は宝飾店で足を止めた。
そして、ガラスケースの中から一つの髪飾りを取り出した。それは、繊細な銀の細工に、大粒の紫水晶があしらわれた美しい簪だった。
「黎明様の、目の色と同じ……」
「ああ。これを君に贈りたい」
黎明様は私の背後に回ると、私の黒髪にその簪をそっと挿した。
鏡に映る自分は、信じられないほど華やかで、まるで別人のようだった。
首元の醜い黒い痣さえなければ、本当に彼にふさわしい妻に見えたかもしれない。
「私のお守りだと思って、身につけていてほしい。この石が、きっと君を悪いものから守ってくれる」
「お守り……」
黎明様は背後から私の肩を抱き、私の耳元に唇を寄せて囁いた。
「柚葉。君は一人じゃない。私が、君のすべてを守るから」
その低く甘い声は、呪いのように私の心に深く、深く刻み込まれた。
嬉しい。嬉しいのに、悲しい。
彼が私を慈しんでくれるほど、死への恐怖と、彼を遺して逝かなければならない申し訳なさが膨らんでいく。
帰り道。自動車に揺られながら、私は髪飾りの紫水晶にそっと触れた。
黎明様は私の隣で、私の手を自分の大きな手でしっかりと包み込んでいる。
(神様。どうか……あと半年。この幸せな夢を見させてください)
すれ違う二人の心は、互いを思いやるがゆえに、じれったくも切ない距離を保ったまま。
帝都の華やかなネオンが、私たちの影を長く伸ばしていた。




