柔らかな絶望と、甘すぎる朝
ふかふかの雲の中に沈み込んでいるような、不思議な感覚だった。
全身を包み込むのは、陽だまりのような暖かさと、微かに香る沈丁花の甘い匂い。
(……ここは、どこ?)
ゆっくりと重い瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪奢な天井だった。
美しい装飾が施されたシャンデリアから、朝の光が乱反射してキラキラと輝いている。
見慣れた冷たい土蔵の天井でもなければ、隙間風が吹き込む実家の物置部屋でもない。
「はっ……!」
私は弾かれたように身を起こした。
自分が寝かされていたのは、西洋風の天蓋付きの大きなベッドだった。
掛けられていたのは、触れただけでとろけてしまいそうなほど滑らかな、最高級の絹の布団。
(そうだ、私……昨夜、久遠家に嫁がされて……)
昨晩の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「鬼」の頭首である久遠 黎明様。恐ろしい化け物だという噂とは裏腹に、彼は月光のように美しく、そして泣きそうになるほど優しい声で私を受け入れてくれた。
『命が尽きるその日まで、この屋敷でただの飾りとしての妻でいてくれればいい』と。
「お目覚めですか、柚葉様」
不意に声がして、ビクッと肩を震わせた。
部屋の入り口に立っていたのは、フリルがあしらわれた可愛らしい白いエプロンドレスを着た、同年代くらいの少女だった。
栗色の髪を二つ結びにし、パッチリとした大きな瞳が印象的だ。
「わ、私は久遠家のメイドで、雫と申します! 黎明様から、柚葉様のお世話をするよう仰せつかっております。あ、あの、私、人間ではなく『化け猫』のあやかしなのですが……怖くないでしょうか?」
「あやかし……」
おずおずと尋ねてくる雫さんの頭には、言われてみれば、可愛らしい猫の耳がピンと立っていた。
けれど、恐ろしさなんて微塵も感じない。
むしろ、実家で私を虐げていた人間たちのほうが、よっぽど恐ろしい化け物だった。
「怖くなんて、ないわ。……でも、私に『様』なんて付けなくていいの。私はただの、身代わりの……契約でここにいるだけの女だから」
私の言葉に、雫さんはパタパタと首を横に振った。
「とんでもございません! 黎明様が『我が妻』としてお迎えした方に、無礼な振る舞いはできません。さあ、柚葉様。お召し替えの準備ができております。お風呂のお湯も張ってありますよ」
「お風呂……?」
実家では、冷たい井戸水で体を拭くことしか許されていなかった。
温かいお湯に浸かれるなんて、何年ぶりのことだろう。
促されるままに浴室へ向かい、丁寧に体を洗ってもらう。
湯船の温かさが、芯まで冷え切っていた私の体をじんわりと溶かしていくようだった。
湯上がりには、信じられないほど美しい着物が用意されていた。
淡い桜色の正絹に、大正浪漫を感じさせるモダンな薔薇の柄があしらわれた小紋。
襟元には西洋の繊細なレースがあしらわれている。
「あの、これは……香織の着物……?」
「いいえ! 黎明様が、柚葉様のためにと昨夜のうちに帝都の呉服屋から取り寄せたものです。とってもお似合いですよ!」
鏡の前に立たされ、私は息を呑んだ。
そこに映っていたのは、小汚い「無能」の少女ではなく、まるで本物のお姫様のように着飾った見知らぬ自分だった。
けれど、首元に目をやると、真っ白な肌に浮かび上がる「黒い痣」が、着物の美しさと残酷なまでに対比していた。
私の余命が半年であることを示す、呪いの痣。
(こんな美しい着物、すぐ死んでしまう私にはもったいない……)
胸の奥がチクリと痛む。これはすべて、黎明様の「同情」なのだ。
不憫な身代わり花嫁への哀れみ。
それに甘えてはいけない。私はただの契約妻なのだから。
「おはよう、柚葉」
案内された広々とした食堂では、黎明様がすでに席に着いていた。
昨夜の和洋折衷な装いとは違い、今日は仕立てのいい紺色のスリーピーススーツを完璧に着こなしている。
朝日を浴びた銀色の髪が輝き、紫水晶のような瞳が私を捉えて、ふわりと優しく細められた。
「お、おはようございます。旦那様」
「黎明、でいいよ。その着物、やはりよく似合っている。見立てが間違っていなくてよかった」
甘く囁くような声で褒められ、顔がカッと熱くなる。
促されて席に着くと、テーブルには見たこともないほど豪華な朝食が並べられていた。
ほかほかと湯気を立てる白いご飯、出汁の香りがふわりと漂うお味噌汁、脂の乗った焼き魚、色鮮やかな卵焼き。
「さあ、冷めないうちに食べておくれ」
「……いいのですか?」
「うん?」
「私のような穀潰しが、こんな……温かいものを、いただいても……」
実家では、家族が食べ終わった後の冷たい残りカスしか与えられなかった。
私が躊躇していると、黎明様の美しい眉が、微かに悲しげに寄せられた。
「柚葉。君はもう、誰かに虐げられる存在じゃない。私の大切な……妻だ。この屋敷にあるものは、すべて君のものだと思っていい。さあ、食べて」
その優しい言葉に背中を押され、私は震える手で箸を持ち、白いご飯を一口、口に運んだ。
……温かい。甘い。美味しい。
じんわりと口の中に広がる優しい味に、我慢していたものが決壊してしまった。ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝って膝に落ちる。
「ごめんなさい……美味しくて、温かくて……」
「謝らなくていい。ゆっくりでいいから、全部お食べ」
黎明様は席を立つと、私の隣に来て、大きな手で私の背中を優しく撫でてくれた。その手はとても温かくて、安心感に満ちていた。
お腹いっぱい温かい食事をいただき、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「あの、黎明様。私のお仕事は、何でしょうか? 床磨きでも、お洗濯でも、なんでもやります。私、不器用ですが、力仕事には慣れていますから……!」
そう言わなければ、追い出されてしまう気がした。
役に立たない無能は、捨てられる。それが私の世界の常識だったから。
しかし、黎明様は困ったように微笑み、私の両手をそっと包み込んだ。
「柚葉。君の仕事は、何もないよ」
「え……?」
「昨日も言っただろう? 君はただ、この屋敷で心穏やかに、私の妻として過ごしてくれればいい。庭の花を眺めたり、本を読んだり、美味しいお菓子を食べたり……そうして、君が笑ってくれること。それが、君の唯一の仕事だ」
そんな馬鹿な。それでは本当に、ただのお荷物ではないか。
混乱する私の手を、黎明様は自分の顔の高さまで持ち上げた。
あかぎれだらけで、傷跡がいくつも残る、醜い私の手。お嬢様の手とは程遠いそれを、彼は愛おしそうに見つめた。
「こんなになるまで、一人で耐えてきたんだね。もう、十分だ。これ以上、君の綺麗な手を傷つけさせはしない」
ちゅっ、と。
黎明様の唇が、私の荒れた指先に触れた。
「ひゃっ……!?」
「っ……すまない、驚かせたね。あまりにも君が愛おしくて、つい」
心臓が早鐘のように打ち鳴り、全身の血が沸騰しそうだった。
鬼の頭首。恐ろしい化け物。そんな噂は嘘っぱちだ。彼は誰よりも優しくて、誰よりも温かい。
……ズキッ。
その時、首元の黒い痣が、鋭く痛んだ。
まるで「お前には愛される資格なんてない」と、残酷な現実を突きつけるように。
(そうだ。私には、時間がないんだ)
あと半年。この呪いが私の命を食い尽くすまでの、短い命。
黎明様はきっと、余命わずかな私が不憫で、こんなにも優しくしてくれているのだ。優しい彼だからこそ、死にゆく哀れな小鳥を拾い上げて、最後の温もりを与えてくれているだけ。
(勘違いしちゃ駄目。この優しさに甘えて、彼を愛してしまったら……別れが辛くなるだけ。それに、これ以上私のことで、この優しい人を悲しませてはいけない)
私は、黎明様に悟られないように、そっと彼の手から自分の手を引き抜いた。
温もりが離れていくのが、少しだけ惜しかった。
「……ありがとうございます、黎明様。契約の期間が終わるまで、決してご迷惑はおかけしません。ただの飾りとして、ひっそりと過ごさせていただきますね」
精一杯の作り笑いを浮かべてそう言うと、黎明様の顔に、一瞬だけひどく傷ついたような、苦しげな表情が浮かんだ気がした。
しかし、彼はすぐにいつもの穏やかな微笑みを取り戻し、優しく私の頭を撫でた。
「……ああ。君の好きにするといい」
交わらない視線。すれ違う心。
温かい日差しの降り注ぐ食堂で、私の心には、決して溶けることのない氷の壁が、そっと築かれていた。
この優しすぎる鬼に、私の醜い心を預けてしまわないように。




