身代わり花嫁と、優しすぎる鬼
冷たい土蔵の床に座り込みながら、私は自分の白い指先を見つめていた。
指先から徐々に這い上がってくるような、氷のように冷たい感覚。それは、私の命の終わりが近づいている証拠だった。
「……あと、半年」
ぽつりとこぼした声は、誰にも届くことなく土蔵の暗闇に吸い込まれていく。
私の名前は、斎森 柚葉。帝都でも有数の「異能」を持つ名家、斎森家の長女として生まれた。しかし、私にはなんの異能も備わっていなかった。
無能。穀潰し。それが、物心ついた時から私に与えられた名前だった。
実の母が亡くなり、新しい母と、優秀な異能を持つ異母妹がやってきてからは、私の扱いは使用人以下になった。
食事は残飯、着るものはすり切れた古着。少しでも粗相をすれば、暗く冷たいこの土蔵に何日も閉じ込められる。
それに加えて、私には「呪い」がかけられていた。
原因不明の黒い痣が首元に広がり始め、町医者からは「長くて余命半年だろう」と冷たく言い放たれた。
家族は誰も悲しまず、むしろ厄介払いができると喜んでいるようだった。
ギィィ、と重たい土蔵の扉が開いた。
眩しい光とともに現れたのは、華やかな友禅の着物をまとった異母妹の香織と、底意地の悪そうな笑みを浮かべた義母だった。
「お姉様。お姉様にお役目ができたわよ」
「お役目……?」
「ええ。久遠家への嫁入りよ。光栄に思いなさいな」
久遠家。その名前を聞いた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。
久遠家は人間ではない。帝都の裏社会を牛耳り、人間と危うい均衡を保っている恐ろしいあやかし――「鬼」の一族だ。
特に今の頭首である久遠 黎明は、冷酷無慈悲で、気に入らない人間は骨まで喰らい尽くすという恐ろしい噂が絶えない化け物だった。
「本当は香織に行くはずだった縁談だけど、こんな愛らしい香織を化け物の餌になんてできないでしょう? どうせ死にゆく命なら、最後くらい斎森家の役に立って頂戴」
「そして、これを持って行きなさい」
義母が私の足元に放り投げたのは、一枚の紙切れだった。
『離縁状』。そう書かれていた。
「お前はもう斎森家の人間ではない。二度とこの敷居を跨ぐことは許さないわ。さあ、さっさと出て行きなさい!」
抵抗する気力すら、私には残っていなかった。
どうせ半年後には死ぬ命だ。飢えと寒さで死ぬか、鬼に喰われて死ぬかの違いでしかない。
私はただ静かに頷き、離縁状を胸に抱いて、実家を追い出されるように馬車に乗せられた。
ガタゴトと揺れる馬車の窓から、ガス灯がぼんやりと街を照らす帝都の夜景が見えた。
西洋のレンガ造りの建物と、昔ながらの木造建築が混ざり合う、大正浪漫の華やかな街並み。
けれど、私の心の中はどこまでも暗く、冷たかった。
「……誰も、私を必要としていない。誰も、私を愛してくれない」
痛む胸を押さえながら、私はぎゅっと目を閉じた。
やがて馬車は、鬱蒼とした森を抜け、巨大な鉄格子の門の前で止まった。
そこにあったのは、西洋のお城のような、見上げるほど巨大で豪奢な洋館だった。
ここが、鬼の頭首の住み処。
恐る恐る馬車を降りると、重厚な玄関の扉が音もなく開いた。
化け物が飛び出してくる。そう覚悟して身をすくませた私の耳に届いたのは、拍子抜けするほど穏やかで、甘く低い声だった。
「よく来てくれたね。歓迎するよ、私の花嫁」
恐る恐る顔を上げると、そこには目を疑うほど美しい青年が立っていた。
月光のようになめらかな銀色の髪。
深い夜空を思わせるアメジストのような紫色の瞳。
仕立ての良い西洋のスーツの上から、黒い羽織を羽織った和洋折衷の装いが、彼の人間離れした美貌を際立たせていた。
「あなたが……久遠、様……?」
「ああ。私が久遠黎明だ。……そんなに怯えないでおくれ。取って喰ったりはしないよ」
黎明はふわりと微笑むと、私に近づき、そっと手を差し伸べた。
大きくて温かい手が、泥に汚れた私の冷たい手を包み込む。
人の温もりに触れたのは、いつぶりだろうか。
「斎森家から話は聞いている。君の身代わりの件も、実家から縁を切られたことも、そして……君のその命の期限についても」
ビクッと肩が跳ねた。すべて知られている。やっぱり、私のような小汚くて余命わずかな女など、不愉快ですぐに追い出されるに違いない。
怯えて目を伏せる私に、黎明は思いがけない言葉を紡いだ。
「柚葉。君は今日から私の妻だ。だが、無理に愛し合おうとは言わない。君の命が尽きるその日まで、この屋敷でただの『飾り』としての妻でいてくれれば、それでいい」
それは、明らかな『契約結婚』の申し出だった。
鬼の妻という肩書きだけを持って、静かに死を待てばいい。私にとって、それは優しすぎる提案だった。
「……私のような、なにもできない無能でも、いいのですか?」
「無能? 誰がそんなことを言ったんだ。君はここにいるだけでいい。……いや、ここにいてほしいんだ」
黎明の瞳は、なぜか泣きそうなくらい優しく、切なげに揺れていた。
冷酷な化け物という噂は嘘だったのだろうか。それとも、同情してくれているだけなのだろうか。
「さあ、中へ。温かい食事を用意させてある。君は今日から、何不自由なく生きるんだ」
そう言って私をエスコートする彼の手は、どこまでも優しかった。
愛されることを諦めていた私の冷たい世界に、ほんの少しだけ、温かい春の風が吹き込んだような気がした。
これが、余命わずかな私と、優しすぎる鬼の頭首との、甘くもどかしい日々の始まりだった。




