第四話 その目は、節穴じゃない
王狼の牙に入って、二度目の冬が近づいていた。
俺は十六歳になり、この暮らしにもすっかり慣れていた。
慣れてしまった、というべきかもしれない。飯を抜く日にも、雑用に追われる毎日にも、名前で呼ばれないことにも …いつしか、心が波立たなくなっていた。
人は、どんな環境にも慣れる。それがいいことなのか悪いことなのか、そのときの俺には、もう判断がつかなくなっていた。
その日、俺たちは十五階の探索に潜っていた。
いつものように、俺は最後尾で荷物を抱えていた。ガロさんたちが魔物を蹴散らし、俺がその後始末をする。もう何百回と繰り返した、いつもの流れ。剥ぎ取り、収納、運搬。俺の手は、そればかりが上達していった。
だがその日は、たまたま、近くで別のパーティが休憩を取っていた。
それが—
俺の運命が、静かに動き出すきっかけになるだなんて。もちろん、その時は知る由もない。
◇
「おい荷物持ち、水」
休憩に入ると、ケイルさんが手を突き出した。俺は慌ててボックスから水袋を取り出し、手渡す。
「おせえんだよ。使えねえな」
「すみません」
ケイルさんの当たりは、この二年でずいぶんきつくなっていた。けれど、俺はもういちいち傷つかなくなっていた。すみません、と頭を下げる。それが、いちばん波風の立たないやり方だと、身体が覚えてしまっていた。
その様子を見て、斥候のバズさんが、にやにやと笑った。
「なあレイ。お前さ、うちに来て二年になるだろ。その間に一度でも、魔物にとどめ刺したことあるか?」
「え……いえ、ないです」
「アッハッハ。だよなあ! 荷物持ちだもんなァ!」
バズさんが、けらけらと笑った。ケイルさんも、それに乗っかる。
「Fランクのまま二年って、逆にすげえよ。ふつう、少しは上がるだろ。レベルってのはよぉ!」
「あー、こいつはいいんだよ。荷物さえ運べりゃな。頭数に入れてやってるだけありがたく思えっての」
「なあレイ。お前、剣なんか差してるけどよ。それ、抜いたことあんのか?」
どっと笑いが起きた。俺は、曖昧に笑い返すことしかできなかった。
腰の短剣は、村を出るとき、父がくれたものだ。狩り用の、古い短剣。無理はするな、と、ぶっきらぼうに手渡してくれた、あの日の父の手をふと思い出す。
抜いたことは、たしかに一度もない。
抜く機会を与えられたことがないから。
毎朝、村の裏で剣を振っていた日々が、遠い昔のことみたいに思えた。
あの頃の俺は、いつか冒険者になって、この剣で魔物と戦うんだと、本気で信じていた。……いつから、こんなふうになったんだろう。
いや。
考えても、仕方のないことだ。俺は荷物持ちなんだから。そう、頭の隅に浮かんだ問いを、いつものように押し込めた。
—だが、その笑い声を。少し離れた岩陰から、じっと聞いている者がいたことに...
俺も、そして笑っていたガロさんたちも、まるで気づいていなかった。
◇
僧侶のローブを着た、物静かな女性だった。
名を、ティア。近くで休憩を取っていた、別パーティの回復役だ。彼女は、王狼の牙の下卑た笑い声を、聞くともなしに聞いていた。
荷物持ちを嬲る、よくある光景。冒険者の世界では、珍しくもない。強い者が、弱い者を顎で使う。ましてやFランクの下働きなど、どこのパーティでも似たような扱いだ。最初は、ティアも気にも留めていなかった。
でも...
(……二年で、一度も戦っていない?)
ふと、彼女の視線がその荷物持ちの少年に留まった。
みすぼらしい身なり。
痩せこけた体。
誰がどう見ても、うだつの上がらない、Fランクの下働き。憐れではあるが、どこにでもいる。——そのはずだった。
けれど、ティアの目が、あるものに引っかかった。
(……おかしい)
彼女は回復役だ。
パーティの最後尾に位置取り、味方全員の動きを、戦闘中ずっと見続ける。誰が傷つき、誰が消耗し、誰の体勢が崩れかけているか。それを一瞬で見抜き、的確に回復を飛ばす。人の身体の動きを読むことにかけて、ティアは誰よりも長けていた。
その目が
—少年の、なにげない所作を、逃さなかった。
水袋を取り出すとき、上体がまるでぶれない。荷物を抱え直すときの、腕の使い方。岩場を移動するときの、足の運び。重心の乗せ方。
(……無駄が、なさすぎる)
ティアは、静かに息を呑んだ。
(あれは、鍛えた者の身体だ。それも、生半可な鍛え方じゃない。毎日、何年も、地道に積み上げた身のこなし)
彼女の知る限り、あんな動きをする者は、そう多くない。少なくとも、そこらの銅級・銀級の駆け出し剣士より、よほど洗練されている。無意識のうちに体幹が締まり、どんな体勢からでも即座に動ける。あれは、才能じゃない。ただひたすらに、身体に叩き込んだ者だけが持つ、静かな完成度だ。
だからこそ...
——辻褄が、合わない。
(あの動きの持ち主が、Fランク? Lv1? ……二年間、一度も戦っていない?)
ありえない、とティアは思った。
あれほど鍛えた者が、二年もFランクのLv1に甘んじているなど、あってはならない。逆に、本当にFランクのLv1なら、あの身のこなしの説明がつかない。
どちらかが、嘘だ。
あるいは——
あの少年は、周りが思っているような存在では、まったくない。
◇
一度気になりだすと、ティアの観察眼は、止まらなかった。
王狼の牙が探索を再開したあとも、彼女は自分のパーティの回復をこなしながら、視界の端で、さりげなく少年を追った。回復役の「全体を見る」癖が、今は少年一人に注がれている。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
「レイ、この宝箱、まるごとしまっとけ」
「はい」
少年が、宝箱に手をかざす。
すると——
大人が二人がかりでも持ち上げられないような、鉄枠の頑丈な宝箱が。まるで、最初からそこに何もなかったかのように、ふっと、消えた。
ティアの手が、思わず止まった。
(ハッ?……アイテムボックス!?)
背筋を、ぞわりと何かが這い上がった。
アイテムボックス。持つ者が極端に少ない、希少なスキル。あんな大きさの宝箱を、収納の間すら見せず、一瞬で。あれは、ただの「ものが入る袋」の類ではない。かなりの容量と練度を持った、かなり高ランクのアイテムボックスだ。
ティアの頭の中で、そろばんが、かちりと弾かれた。
(鍛え上げられた身のこなし。希少なアイテムボックス。それだけの素材を持ちながら——Fランクで...飼い殺し)
彼女は、僧侶だ。回復役として腕は立つ。だが、それゆえに、ずっと壁を感じてもいた。
今のパーティでは、これ以上、上には行けない。
上位職
——聖者へと至るには、もっと格上の環境が要る。強い前衛、強い後衛、そして自分を引き上げてくれる、格上のパーティが。だが、そんな居場所は、そう簡単には見つからない。
だから、その考えが、ごく自然に、彼女の頭に忍び込んだ。
(もし。もし、あの子が、見た目どおりの「ただのFランク」じゃないなら)
もし、あの原石が、磨けば化けるものなら。
もし、あの子を、自分の手元に引き込めるなら—。
(あの子は……わたしが、上へ行くための、切符になる)
打算だった。
自分でも、いやらしい考えだと、ティアはわかっていた。困っている少年を、道具として値踏みしている。褒められたことでは、ない。
(……いえ)
ふと、彼女は、もう一度、少年に目をやった。
ケイルに小突かれ、それでも黙って頭を下げている、痩せた背中。ご飯もろくに食べていないのだろう、頬はこけ、手首は細い。あの身体は、鍛えたぶんだけ、栄養を欲しているはずなのに。
(……あんなにこき使われて。あんなに痩せて)
ちくり、と。
打算とは別のところで、胸の奥が、かすかに痛んだ。ティア自身、その痛みの正体には気づかないふりをした。
(——まあ、いいわ。とにかく、あの子だ)
彼女は、その日から、レイという名のあの荷物持ちの少年をひそかに気に留めるようになった。
近づく機会が、いつか訪れることがあれば、と。
その打算が、のちにまるで思いもよらない形で叶うことになるのだが。
それは、まだ少し先の話だ。
◇
もちろん、そんな視線に俺はまるで気づいていなかった。
その日の探索を終えて、俺はいつものように素材の山をボックスに詰めてギルドへ向かった。ケイルさんに笑われたこともバズさんにからかわれたことも、もう気にしていなかった。
慣れとは、こわいものだ。
毎日繰り返されれば、痛みは、痛みでなくなる。理不尽は、日常になる。俺はいつのまにか、自分がどんな扱いを受けているのか、正しく感じ取ることすら、できなくなっていた。
ただ——
その夜のことは、少しだけ、いつもと違った。
拠点に戻ると、ガロさんたち四人がなにやら深刻な顔で卓を囲んで額を寄せ合っていた。
俺が扉を開けて入っていくと、その話し声が、ぴたりと止まる。
「……ああ、レイか。戻ったのか」
「はい。素材、卸してきました。売上、こちらに」
俺が革袋を差し出すと、ガロさんは、ちらりとそれを見て、受け取った。
「おう。ご苦労さん。……もう休んでいいぞ」
ガロさんの声が、いつもより、どこかよそよそしかった。俺と目を合わせようとしない。
妙だな、とは思った。けれど、深くは考えなかった。俺は、割り当てられた部屋の隅の寝床に、身を横たえた。
四人は、また声をひそめて、何かを話し込みはじめる。切れ切れに、言葉が漏れ聞こえてきた。
「……で、いつ言うんだ、あいつに」
「近いうちにな。新しいメンバーが入る前に、片をつけとく」
「揉めねえだろうな」
「ハッ!揉めるかよ。文句もいわせねえさ」
あいつ。
新しいの。
片をつける。
その言葉が、まさか自分のことだとは、思いもしなかった。
俺はただ、疲れていた。全身が、鉛みたいに重い。目を閉じれば、抗いようもなく、眠気が押し寄せてくる。言葉の意味を、深く考えるだけの気力が、もう残っていなかった。
明日も、朝は早い。掃除と、買い出しがある。素材の手入れも、溜まっている。
いつもの一日が、また始まる。
そう思いながら、俺は眠りに落ちた。
—その「いつもの一日」が、もう、そう長くは続かないのだということを。
そして、その終わりが、俺にとっての本当の始まりになるのだということを。
このときの俺は、まだ、何ひとつ知らなかった。




