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03『新説魔術体系学』アウグスト・ヘルマン・ヴァイス著

AIくんさぁ……なんか名前全部”ア”から始まってない……?

 一、序文


 私はアウグスト・ヘルマン・ヴァイス。

 帝立魔術学園にて理論魔導学を教える者である。

 魔術研究に携わって既に十年余り。

 この(かん)、私は既に数え切れないほどの論文を査読し、

 数え切れないほどの学会発表を聞いてきた。


 そして一つの結論へ辿り着いた。


 魔術学は停滞している。

 いや、停滞どころではない。

 むしろ退化している。


 現在、多くの学園で採用されている魔術理論は、

 所謂”エレメント体系学”と呼ばれるものである。


 火。

 水。

 風。

 土。

 光。

 闇。


 あるいはそれに類する分類法である。

 読者諸君も幼少期に学んだことだろう。


 実に分かりやすい。

 実に覚えやすい。

 そして実に間違っている。


 私は常々疑問に思ってた。


 火球を放つ魔術と雷撃を放つ魔術。

 両者は本当に別系統の現象なのだろうか。

 火魔術と光魔術。

 両者は本質的に異なるのだろうか。


 その答えは否である。

 少なくとも私の考えはそうである。


 だが”エレメント体系学”の信奉者は違う。

 彼らは何でもかんでも精霊の機嫌で説明したがる。

 火精霊が怒った。

 水精霊が喜んだ。

 風精霊が応えた。


 実に結構。


 子供向けの絵本ならばそれでよい。

 だが学術論文でそれをやるのはやめていただきたい。


 そもそもエレメント体系学の起源は、

 古代の前時代的な自然信仰(アニミズム)に基づくものである。

 

 雷が落ちた。

 精霊の怒りだ。


 川が氾濫した。

 精霊の怒りだ。


 病気が流行った。

 精霊の怒りだ。


 いつでも怒っている。

 彼らの言う精霊とやらは随分と短気らしい。


 獣と大差が無かった古代人にとっては優れた説明法だったのだろう。

 世界を理解する知識がなかった時代においては。


 しかし我々は文明人である。


 未だに蛮族の呪術師(シャーマン)と同じ理論へしがみつく理由はない。

 現在、我々が目指すべきは論理魔術である。

 自然現象の本質を突き止め、原因を分析し、再現性を高めること。

 エレメント体系学はその道筋から外れている。

 むしろ退化しているといっても過言ではない。


 二、魔術二元論


 私は魔術現象の大半が、

 ”正の魔術”および”負の魔術”

 によって説明可能であると考えている。


 正の魔術とは何か。

 簡単である。


 それはエネルギーの増加である。


 簡単に言えば世界へ何かを与える力である。


 炎。

 雷。

 光。

 熱。


 これらは全て同系統の現象である。

 違いは形態だけだ。

 本質的には魔力をエネルギーへ変換しているに過ぎない。

 陽光が大地を温めるように。

 炎が薪を燃やすように。

 雷が空気を焼くように。

 これらは全て世界を活性化させる方向へ作用する。


 故に私はこれを”正の魔術”と呼ぶ。


 一方、負の魔術とは何か。


 氷魔術とは。

 闇魔術とは。


 ここで多くの学生は誤解する。


 氷魔術を水魔術の副産物だと思い込んでいるのである。


 違う。

 全く違う。


 氷魔術とは冷気魔術である。

 水が凍って形成された結晶体を操ることが冷気魔術の全てではない。

 本質的に言えば、熱を奪うこと、即ち対象物を凍結させる魔術である。


 冷気とは熱の欠如だ。

 闇とは光の欠如だ。

 静寂とは音の欠如だ。

 死とは生命の欠如だ。


 これらに共通するものは何か。


 エネルギーの喪失、或いは消失である。


 すなわち負の魔術とは世界から何かを奪う力なのである。


 陰陽道――東洋魔術における陰。

 錬金術における黒化。

 自然哲学における消散。


 名称は違えど、本質は同じだ。


 正が与える力ならば、負は奪う力である。


 闇魔術が光を消す。

 冷気魔術が熱を奪う。

 呪術が生命力を吸収する。

 全て同じ現象の変形に過ぎない。


 なお、この理論に対して、


 「では水魔術や風魔術、土魔術はどこへ分類されるのか」


 という、初学者からしばしば寄せられる質問がある。

 こうした誤解が未だに見られることは実に嘆かわしい。

 なぜなら、その問い自体が既に”エレメント体系学”の誤謬を前提としているからである。


 風は空気の移動であり、

 水や土は物質そのものである。


 つまりそれらは属性ではない。

 結果である。


 正負の魔術によって発生したエネルギーが物質へ作用した結果に過ぎない。

 水魔術と言われるものは空気中の水分を”負の魔術で”冷却して生成した結果である。

 風魔術と言われるものは大気を”正の魔術で”加熱し膨張したものを押し出した結果である。

 土魔術と言われるものは地面から引き上げた土を”正の魔術で”溶融させて”負の魔術で”固めた結果である。


 要するに、水属性、風属性、土属性なるものは独立した属性ではない。

 観測された現象へ後付けで名前を与えただけの分類である。


 私は学問と呼ばれるものが、

 ここまで長い間その程度の誤解の上に築かれてきた事実に、

 軽い眩暈すら覚える。


 三、六元素という迷信


 さて。

 ここで”エレメント体系学”の支持者はこう反論するだろう。


 「火と雷は根本的に違う現象だ。」と。


 私は逆に問いたい。

 なぜ違うと思ったのか。

 

 火と雷はエネルギー放出である。

 氷と闇はエネルギー吸収である。

 分類はそれで十分だ。

 これ以上議論する余地はない。


 そもそも六元素なる概念は観測者の主観に依存している。


 炎を見たから火属性。

 水を見たから水属性。

 風を感じたから風属性。

 土を見たから土属性。

 光を見たから光属性。

 闇を見たから闇属性。


 そんな曖昧な定義がどうして魔術理論になるのか。

 まるで子供の分類遊びではないか。


 もし明日、新しい現象が発見されたらどうするのだろう。

 第七元素を追加するのか。

 雷魔術や冷気魔術のように屁理屈をこねて、他元素に押し込むのか。

 実に滑稽である。


 学問とは理論である。

 自らの主観や思想ではなく、客観的なデータに基づいて構築されるべきである。


 ここまで言っても”エレメント体系学派”は認めないだろう。

 彼らは聖典のように”エレメント体系学”を信仰し続けている。

 宗教心に近いものがあるのかもしれない。


 魔術学者と呼ばれるに相応しいのは、

 慣習的な偏見を排除し、論理的な方法で世界を探求する人間だけである。

 そういう意味では”エレメント体系学”の信奉者は魔術師ではなく、宗教家と称すべきだろう。


 正と負。


 たった二つで世界は説明できる。

 仮に説明できない理論があるなら、

 それは理論の方が間違っているのである。


 四、結語


 真理は往々にして単純である。

 一見すると世界は複雑に見える。

 しかし複雑な現象は単純な原理の積み重ねに過ぎない。


 そしていつの日か、エレメント体系学という古い迷信が歴史書の片隅へ追いやられることを願ってやまない。


 もちろん、その時には私の名前も忘れられて構わない。

 もっとも、学園の理事会が未だに”エレメント体系学派”で占められている以上、

 その日は当分来そうにないのだが。


 これだから宗教家という生き物は困るのである。

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