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欠けた満月  作者: 平ミノル
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第捌話 あの日、俺は人じゃなくなった



俺たちは川に落ちた。


あっという間に濁流に呑まれた。


雨で増水した川が、有無を言わさず俺たちを押し流す。


俺は水の中でもがいた。


暗くて視界の悪い中、俺は顔を上げて叫んだ。


「二人とも大丈夫か!」


周囲を見渡すと、少し離れたところに真央と弥生の姿が見えた。


時々川底を蹴って体を支えるのが精一杯だった。それでも俺は二人の元へ向かった。激しい濁流の中では、自分一人ですら助かるかどうかわからない。それでも俺は泳いだ。


真央を見て、弥生を見た。


迷った末に——俺は弥生の手を取った。この激流の中で、非情にも弥生と生きることを選んだのだ。


真央の顔が、暗闇の中で遠ざかっていく。その表情は見えなかった。見ようとしなかった、というべきかもしれない。


「弥生!」


弥生は濁流に流されながら俺を見た。弥生はしばらく黙っていたが、静かに俺の顔を見つめた。


「私を選んだのね、湊」


それを言われて俺は、真央に申し訳なく思った。だが、改めて弥生を見つめる。


「俺は! お前なしでは生きていけない!」


すると弥生は、しばらく黙って俺を見つめた。濁流の中で、時間だけが静かに流れるようだった。


「……そう」


弥生は小さく呟いた。その一言に、何かをぐっと堪えるような重さがあった。


「だけど、もうさよならしなきゃいけないの」


「なぜだ弥生! 俺と……ずっと一緒にいろ!」


時々川底を蹴って体を支えるが、流れの勢いは凄まじい。少し移動するだけでも相当苦労する。弥生は真剣な表情で俺を見つめた。


「あなたの指図は受けないわ」


「弥生?!」


そんなことを言っている間にも、俺たちはどんどん下流へ流されていく。何度も水の中に沈みながら、俺は弥生の手を引いた。


「私のことが好きなら、私が言った言葉を忘れないで」


「忘れたりしないって……だからっ……」


すると突然、俺は波に呑まれた。


水中で泡を吐きながら、川底を蹴って水面へ顔を出す。


その時、雷が光った。


弥生の白い顔が、暗闇の中で一瞬、浮かび上がった。


弥生は川の上に上半身を出して、まるで舞うように平然としていた。それはまさに、人知を超えた光景のように見えた。


そして弥生は俺の方を向いて、強い視線で俺を見た。


「忘れないで。私があなたに話した言葉を……私はいつも、あなたの心の中にいる」


「弥生——!」


 弥生は強い目力で俺をじっと見た。


「これは命令よ」



気がつくと、俺は真央と一緒に岸辺に打ち上げられていた。


真央はずぶ濡れで荒く息をしていた。


どうやって岸へ上がったのか、全く覚えていない。


俺は弥生を探して川を見た。


だがそこに弥生の姿はなく、ただ濁流だけが音を立てて流れていた。



あれから、半年が過ぎた。


俺は今、家の窓から外を眺めている。


夕暮れの空に雲が流れていく。やさしく風が吹いて、カーテンが揺れた。


俺は窓の外をぼんやりと眺めながら、弥生のことを想った。


その時、どこかで桃の香りがした気がした。


気のせいだと思う。


でも、俺はしばらく動けなかった。


あの夜のことは、今でも忘れられない。


夢だったのではないかと思う時がある。だが、夢ではないことは確かだ。俺の人生は、あの日を境に大きく変わったのだから。



あの夜、警察から事情を聴かれた。


俺と真央は「三人で揉み合い、誤って落ちた」と証言した。嘘ではない。事実、そうだから。


翌朝から弥生の捜索が始まったが、いつまで経っても弥生の姿は見つからなかった。警察によれば生存は絶望的だということだったが、遺体は今も発見されていない。つまり、未だ行方不明のままだ。


そして、新たな事実が判明した。


月城弥生という人物の戸籍が存在しない、というのだ。


住民票も、保護者も、転校前の学校の記録も——全て偽造だった。「月城弥生」は公的には存在しない人間だったのだ。


そんなことが可能なのか。


俺と真央は、驚きのあまり絶句した。


「弥生……お前一体、何者なんだ」


それは今もわからない。



俺は、以前と同じように学校へ通っている。


まだ特待生のままだ。成績も落としていない。先生も友達も、俺が以前と変わったとは思っていないかもしれない。本当は、大きく変わってしまったけれど。


真央は意外と早く立ち直った。


弥生がいなくなってから、俺は真央と疎遠になった。そりゃ、あんなこともあれば疎遠にもなるだろう。今は別の男と付き合っているらしい。


俺にとって真央という女は、常識や社会、家族といった普通の生活を繋ぎ止める錨のような存在だったのかもしれない。


だが船はいつか、錨を上げて大海原へ出航していくものだ。


あの時の弥生は、出航を命じる船長みたいなものだったのではないか——そんな気がしている。



ある日、手紙が届いた。


差出人の名前はなかったが、封を開けると桃の香りがした。


俺はしばらく、その封筒を握ったまま動けなかった。


便箋を取り出した。一枚だけの、短い手紙だった。


「元気にしてる?


最初に白状しておくと、私はあなたを利用するつもりだったの。

私が生きるか死ぬか——その賭けの駒に、あなたを使った。

影山が殺しに来る時、あなたが間に合えば私は生きるし、間に合わなければ死ぬと決めていたのよ。


だけどあなたは助けに来た。

もう少し早く来てくれていたら、苦しまずに済んだのだけれど。


嘘。

それは冗談よ。

来てくれて、嬉しかった。


私から桃の香りを感じると言っていたでしょう。

でも、本当はそうじゃないの。


桃の香りは、あなたから出ていたのよ。


私と出会ったことで、あなたの中で抑圧されていた自我が目を覚ました。桃の香りは、その自我が発する香りなの。


その意味が、あなたにはわかるかしら。


私は、あなたが自分を縛るしがらみ——私はそれを殻と呼んでいるけれど——それを割って、本当の自分をさらけ出せると信じたの。


そしてあなたは、心の深層に潜む裸の自分を私にさらけ出した。


私は剥き出しになったあなたの魂を喰らい、あなたの心臓にかじりついたのよ。


影山透は、結局、殻の中に戻ることを選んだ人。


彼はあなたに、自分の姿が未来のあなたの姿だと言ったけど、全然違うわ。彼は殻の中に戻った男で、あなたは私と一緒にこっち側に来たじゃない。


透や真央が、私のことをピニャタルテと呼んでいた。


それが私の名前かというと、そうじゃない。

でも私があなたにしたことが、ピニャタルテ的だというなら——そうかもしれないわね。


殻を破る体験をしたあなたなら、私の気持ちがわかってもらえると思っている。


私の気持ちが真にわかる日が来れば、その時はまた、あなたの前に姿を現すかもしれない。


それまであなたは、私のことを忘れてはいけない。


私が何をしたかったのか——それを忘れないで。


これは命令よ。


           弥生」


弥生の手紙は、それだけだった。


俺はその手紙を読み終えても、長い間、その紙を握っていた。


「生きていたのか」


弥生はいつかきっと、俺の前に姿を現すだろう。


今でも、熟した桃の香りを嗅ぐたびに、俺はあの暗闇を思い出す。


薄明かりの中に浮かぶシルエット。強い目力。甘い匂い。


あの光景を、俺は忘れることができない。


その想いを抱いて——俺はいつまでも、待ち続ける。


いつか来るかもしれない、弥生の姿を夢見ながら。


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